プロローグ
高級ホテルのロビーに流れる風は、外の初夏の空気を感じさせつつ、明らかに違うものだった。分厚い絨毯は靴音を消し、低くかすかなざわめきさえも上品に感じられる。
このようなホテルには取材で何回か来ているのだが、どうしても緊張してしまう。
腕時計を見ると、約束の時間までにはまだ五分ある。
小心者の私はソファに腰を下ろすこともできず、観葉植物の脇に目立たないように立っていた。
今回の取材は、私が推し進めてきた『日本の文化復興を担った女性』というテーマの最後を飾るものだ。
私ももう28。若手とは呼ばれないが、ベテランというのもおこがましいという立ち位置だ。そんな私が手紙を何通も送り、何度も電話をかけて、やっともぎ取った単独取材。記者としても大きな仕事になるだろう。
そして・・・ 聞けるところまで全部聞く。
そう決意を新たにしていると、エレベーターのドアが音もなく開いた。
降りて来たのは白髪をきれいにまとめ、薄いカーディガンを羽織った上品な老婦人だ。落ち着いた佇まいだが、その真っ直ぐに伸びた背筋からは、未だに活動力が溢れているように感じられた。
『この人だ』
私は緊張感を隠しながら近づいた。
「石塚ミチヨさん、でしょうか。今日はお時間、ありがとうございます。東方文化社の李 美羽(リー メイユー)と申します」
私が名刺を差し出すと、石塚さんは少し驚いた様子で、両手で受け取った。
「日本語、お上手なんですね。中国語でのインタビューかと思っていました」
石塚さんの方でも我が社について調べたのだろう。東方文化社は中国系の出版社で、在日中国人をメインターゲットにしている。
「祖母が日本人なもので、小さい頃から日本語には興味があったんです」
「そうなんですか。では、よろしくお願いします」
「ご案内します。応接室の準備はできていますので」
そうして二人で並んで廊下を歩く。老年とは思えない、しっかりとした足取りが印象的だった。
応接室は初夏の日差しが柔らかく差し込み、レースのカーテンがかすかに揺れていた。梅雨入り前の穏やかな午後。そんな表現がぴったりだった。
「本日は、私共の『日本の文化復興を担った女性』という企画の一環でお話を伺えたらと思いまして。特に医療現場でのご活躍について伺いたいと思います」
私は鞄からノートとペン、カセットレコーダーを取り出した。
向かいに座った老婦人は「お願いします」と会釈する。
石塚ミチヨさん、80歳。今年、2001年の春の叙勲で瑞宝中綬章を受賞した一人で、終戦直後から看護師として活躍し、戦地医療・災害時医療の先駆者として、そして看護師教育制度の改革にも尽力した、医療業界では伝説的な人物だという。確かに、静かに座っているだけで、今まで会って来た人物とは存在感が違う。
「ご発言の内容は掲載前にきちんとご確認いただけるので、ここでは気楽なお気持ちでお話いただければと思います」
そう断ってから、カセットレコーダーのスイッチを入れる。
「まず、終戦直後の混乱期の中で、復員者の対応や感染症対策で活躍されたということですが、その時の医療現場というのはどのような状況だったのでしょうか」
「それはもう、物資も人手も何もかもが足りず、毎日が綱渡りのようでした。医者も看護婦もどんどん戦地に送り出されましたけど、戦争が終わったからと言って、すぐに帰って来られるわけじゃありませんからね。どこも人手不足でしたね。薬はもちろん、包帯などもありませんから、みんな代用品を工夫して使っていました」
「そうした困難をどのように乗り越えられたのでしょうか」
「結局は人のつながりですね。お互いに物も知恵も出し合って、支え合う。これだけです。戦争で大切なものを失った人が多かったからこそ、残ったものを大事につなげていこうという思いが強かったんだと思います。誰もが、自分一人では生きられないと知っていたのでしょう」
「なるほど・・・ そういう連帯感は、今の日本では薄れているものでしょうね」
「そうですね。当時は生き延びたこと自体が奇跡のようなところがありましたからね」
「そういった医療は、戦後の文化復興の中で、どのような役割を果たしたと考えられますか」
「健康を取り戻せば、人は働けますし、子どもは勉強できるようになります。家財を失っても、自分が元気なら周りを助け、未来を作ることができます。医療は再出発のための土台となっていたと思います」
「戦後の混乱期の後も、さまざまな紛争地域や被災地域への派遣に参加されてきていますが、危険と隣り合わせの現場に向かわれた原動力は何だったのでしょうか」
「命を救うことには、場所も立場も関係ない、ということでしょうか。看護の手を必要としている人たちがいるというだけで、私には十分でした。現場にはきれいごとだけでは済まない現実もありましたが、だからこそ医療の本質がそこにあったと思っています」
「戦後は赤十字の上海支部に長く勤務しておられましたが、どのような方針で活動なされていたのでしょうか」
「基本は『まず人の命を助けること』ですね。物資や人手が限られていても、工夫次第で助けられる命はある。そのことを実践していくために、若い看護師や医療スタッフと共に勉強していきました」
「終戦直後の経験が生きた、ということでしょうか」
「そうですね。環境としてはその時よりも整っていたので、より教育、指導に力を入れることができました。私もそこで多くを学び、その後に生かせたと思っています。大変な時代に生きた者として、それを何かの役に立つかたちで未来に残せたのなら、こんな光栄なことはありません」
その後も、私の質問に石塚さんは静かに答えていく。自分を大きく見せるようなことはせずに、簡素な言葉で、過去の功績も淡々として語った。
それはまるで自分自身に何かを課しているかのような、決意と覚悟が伝わってくる。石塚さんにとって、他人の評価などどうでもいいのではないか、と思わせるものだった。
それは使命感か、あるいは贖罪か・・・
やはり、私はあのことを聞かなければならない。
「はい、以上になります。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
私がお礼を言ってカセットレコーダーを止めると、石塚さんも頭を下げてくれた。
時計を見ると、午後2時過ぎで、終了予定時刻まではまだ時間がある。
「もっと何か喋ればよかったかしら」
石塚さんは笑いながらそう言うが、もともと終了予定時刻は長めに伝えてあったので、インタビュー内容としては十分だ。
むしろ、私としてはこれからが本題だ。
「あの、お時間のほうはまだよろしいですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「少し長くなるかもしれないのですが・・・」
「今日はもう予定もありませんし、かまいませんよ」
「・・・では、よろしければ満洲でのお話を伺えないでしょうか」
私の要望に、石塚さんの穏やかな表情がすっと凍り付く。
だがそれも一瞬のことで、すぐに石塚さんは穏やかな声で尋ねてくる。
「・・・それも一緒に掲載するのかしら?」
私のいる東方文化社は比較的親日的な出版社であり、これまで中日関係を批判的に扱ったことはない。
石塚さんの緊張は、政治的リスクを考えたわけではなく、そこに個人的な秘密があるためだろう。
「いいえ、どこにも掲載しませんし、一切公表するつもりもありません。私のごく個人的な興味だと思っていただければ・・・」
石塚さんはスイッチの切られたカセットレコーダーを見つめたまま、迷っているようだった。
「もちろん、無理に聞きだすつもりはありません。話せるところだけで結構です。ただ、私には石塚さんの原点がそこにあるように思えて・・・ あ、すみません。勝手にそんなことを・・・」
石塚さんは俯いたまま黙っていた。
私はインタビュアーのマナーとして、相手のプロフィールや著書などには一通り目を通すようにしている。私が調べた限り、石塚さんが満洲に行っていたとする資料は何もないし、プロフィールも終戦直後の活動からしか載っていない。だが、事前に見た中国でのニュース映像や講演会の映像では、石塚さんの流暢な中国語には、満洲で話されていたような、わずかな東北なまりがあった。著書には中国語は上海支部で覚えたと書いてあったが、それ以前に別の地域で中国語を習得していたはずだ。
きっと石塚さんにとって満洲時代のことは隠しておきたいことなのだ。
だが、こちらにも満洲で何があったのか聞いておかなければならない理由があった。
私の父方の祖母は不思議な人だった。
日本人で、若い頃の美人の面影は残しているが、その内面は幼い少女そのものだったのだ。
ずっと中国にいるにもかかわらず、中国語は全く理解できず、日本語しか話せなかった。
周りのことをどれだけ理解できているのかは分からなかったが、祖父のことは大好きで、いつも一緒にいた。その様子は夫婦と言うより、幼い少女が祖父に甘えているようではあったが。
最初は若年性の認知症かと思ったが、祖父の話ではそうではなく、結婚直前の事故によるものらしい。それまでは普通に中国語も話せて、満洲で仕事もしていたが、事故のせいで全て忘れてしまったということだった。それでも祖父のことは覚えているのだから、よほど祖父のことが好きだったのだろう。
私はそんな祖母が大好きだった。
日本語を勉強したのも、もっと祖母と話をしたい、祖母のことがよく知りたいという思いからだった。
祖父が亡くなってからは、日本語が話せるようになっていた私が、お世話役として祖母の所に入り浸っていた。祖母は一人でいる分には何の不都合もないのだが、他の人とコミュニケーションが取れないために、通訳が必要だったのだ。
私が行くと祖母は決まって「ミチヨちゃん」の話をした。
「ミチヨちゃんはすごいんだよ。何でもできるんだから」と自慢そうにしていたかと思えば、「ミチヨちゃんにごめんなさいって言わなきゃ」と済まなそうにしている時もあった。
「ミチヨちゃん」について尋ねたこともあったが、幼い少女のような祖母から何か情報を聞き出すのは難しく、かろうじて苗字が「ヌノムラ」ということだけが分かった。ただ、その苗字も次に聞くときには覚えていないことも多く信憑性は低いと思っていた。
あまりに万能の人物のように言うので、後半は祖母の空想上のお友達なのだと思って、話を合わせていた。
そして祖母が亡くなった後、私は東方文化社の中国支局から日本本社へと希望転勤してきた。
そこで偶然、ニュースで石塚ミチヨさんの受賞の話を知ったのだった。
久しぶりに聞く「ミチヨ」という名前。祖母は一度だけ「ミチヨちゃんは看護婦さんなんだよ」と教えてくれたことがあった。
まさかと思い、石塚ミチヨさんのことを調べると、旧姓は布村だった。
それは衝撃的な事実だった。
祖母の想像上のお友達だと思っていた「ミチヨちゃん」が実在する。
祖母はどういう人物で、石塚さんとはどういう関係だったのか。祖母は何を謝りたかったのか。
祖母のことを知るためには、まず石塚さんのことを知らなければならない。その過程で、祖母の本当の姿がきっと浮かび上がってくるだろう。
私は震える手で石塚さんの連絡先を探したのだった。
やがて石塚さんはゆっくりと顔を上げた。
「分かりました。どこにも発表しないと約束していただけるのなら、お話しましょう」
「もちろん約束します」
石塚さんはすっかり冷めたお茶を一口飲むと、気持ちを落ち着かせるように、ため息をついた。
「あれは太平洋戦争が始まる前の年だったから・・・」
「昭和15年。西暦1940年ですね」
私はノートに挟んであった、簡易年表を見た。
「そうですね。私は日赤の養成所の3年生になったばかりだったから、19歳の時でしたね」
このようなホテルには取材で何回か来ているのだが、どうしても緊張してしまう。
腕時計を見ると、約束の時間までにはまだ五分ある。
小心者の私はソファに腰を下ろすこともできず、観葉植物の脇に目立たないように立っていた。
今回の取材は、私が推し進めてきた『日本の文化復興を担った女性』というテーマの最後を飾るものだ。
私ももう28。若手とは呼ばれないが、ベテランというのもおこがましいという立ち位置だ。そんな私が手紙を何通も送り、何度も電話をかけて、やっともぎ取った単独取材。記者としても大きな仕事になるだろう。
そして・・・ 聞けるところまで全部聞く。
そう決意を新たにしていると、エレベーターのドアが音もなく開いた。
降りて来たのは白髪をきれいにまとめ、薄いカーディガンを羽織った上品な老婦人だ。落ち着いた佇まいだが、その真っ直ぐに伸びた背筋からは、未だに活動力が溢れているように感じられた。
『この人だ』
私は緊張感を隠しながら近づいた。
「石塚ミチヨさん、でしょうか。今日はお時間、ありがとうございます。東方文化社の李 美羽(リー メイユー)と申します」
私が名刺を差し出すと、石塚さんは少し驚いた様子で、両手で受け取った。
「日本語、お上手なんですね。中国語でのインタビューかと思っていました」
石塚さんの方でも我が社について調べたのだろう。東方文化社は中国系の出版社で、在日中国人をメインターゲットにしている。
「祖母が日本人なもので、小さい頃から日本語には興味があったんです」
「そうなんですか。では、よろしくお願いします」
「ご案内します。応接室の準備はできていますので」
そうして二人で並んで廊下を歩く。老年とは思えない、しっかりとした足取りが印象的だった。
応接室は初夏の日差しが柔らかく差し込み、レースのカーテンがかすかに揺れていた。梅雨入り前の穏やかな午後。そんな表現がぴったりだった。
「本日は、私共の『日本の文化復興を担った女性』という企画の一環でお話を伺えたらと思いまして。特に医療現場でのご活躍について伺いたいと思います」
私は鞄からノートとペン、カセットレコーダーを取り出した。
向かいに座った老婦人は「お願いします」と会釈する。
石塚ミチヨさん、80歳。今年、2001年の春の叙勲で瑞宝中綬章を受賞した一人で、終戦直後から看護師として活躍し、戦地医療・災害時医療の先駆者として、そして看護師教育制度の改革にも尽力した、医療業界では伝説的な人物だという。確かに、静かに座っているだけで、今まで会って来た人物とは存在感が違う。
「ご発言の内容は掲載前にきちんとご確認いただけるので、ここでは気楽なお気持ちでお話いただければと思います」
そう断ってから、カセットレコーダーのスイッチを入れる。
「まず、終戦直後の混乱期の中で、復員者の対応や感染症対策で活躍されたということですが、その時の医療現場というのはどのような状況だったのでしょうか」
「それはもう、物資も人手も何もかもが足りず、毎日が綱渡りのようでした。医者も看護婦もどんどん戦地に送り出されましたけど、戦争が終わったからと言って、すぐに帰って来られるわけじゃありませんからね。どこも人手不足でしたね。薬はもちろん、包帯などもありませんから、みんな代用品を工夫して使っていました」
「そうした困難をどのように乗り越えられたのでしょうか」
「結局は人のつながりですね。お互いに物も知恵も出し合って、支え合う。これだけです。戦争で大切なものを失った人が多かったからこそ、残ったものを大事につなげていこうという思いが強かったんだと思います。誰もが、自分一人では生きられないと知っていたのでしょう」
「なるほど・・・ そういう連帯感は、今の日本では薄れているものでしょうね」
「そうですね。当時は生き延びたこと自体が奇跡のようなところがありましたからね」
「そういった医療は、戦後の文化復興の中で、どのような役割を果たしたと考えられますか」
「健康を取り戻せば、人は働けますし、子どもは勉強できるようになります。家財を失っても、自分が元気なら周りを助け、未来を作ることができます。医療は再出発のための土台となっていたと思います」
「戦後の混乱期の後も、さまざまな紛争地域や被災地域への派遣に参加されてきていますが、危険と隣り合わせの現場に向かわれた原動力は何だったのでしょうか」
「命を救うことには、場所も立場も関係ない、ということでしょうか。看護の手を必要としている人たちがいるというだけで、私には十分でした。現場にはきれいごとだけでは済まない現実もありましたが、だからこそ医療の本質がそこにあったと思っています」
「戦後は赤十字の上海支部に長く勤務しておられましたが、どのような方針で活動なされていたのでしょうか」
「基本は『まず人の命を助けること』ですね。物資や人手が限られていても、工夫次第で助けられる命はある。そのことを実践していくために、若い看護師や医療スタッフと共に勉強していきました」
「終戦直後の経験が生きた、ということでしょうか」
「そうですね。環境としてはその時よりも整っていたので、より教育、指導に力を入れることができました。私もそこで多くを学び、その後に生かせたと思っています。大変な時代に生きた者として、それを何かの役に立つかたちで未来に残せたのなら、こんな光栄なことはありません」
その後も、私の質問に石塚さんは静かに答えていく。自分を大きく見せるようなことはせずに、簡素な言葉で、過去の功績も淡々として語った。
それはまるで自分自身に何かを課しているかのような、決意と覚悟が伝わってくる。石塚さんにとって、他人の評価などどうでもいいのではないか、と思わせるものだった。
それは使命感か、あるいは贖罪か・・・
やはり、私はあのことを聞かなければならない。
「はい、以上になります。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
私がお礼を言ってカセットレコーダーを止めると、石塚さんも頭を下げてくれた。
時計を見ると、午後2時過ぎで、終了予定時刻まではまだ時間がある。
「もっと何か喋ればよかったかしら」
石塚さんは笑いながらそう言うが、もともと終了予定時刻は長めに伝えてあったので、インタビュー内容としては十分だ。
むしろ、私としてはこれからが本題だ。
「あの、お時間のほうはまだよろしいですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「少し長くなるかもしれないのですが・・・」
「今日はもう予定もありませんし、かまいませんよ」
「・・・では、よろしければ満洲でのお話を伺えないでしょうか」
私の要望に、石塚さんの穏やかな表情がすっと凍り付く。
だがそれも一瞬のことで、すぐに石塚さんは穏やかな声で尋ねてくる。
「・・・それも一緒に掲載するのかしら?」
私のいる東方文化社は比較的親日的な出版社であり、これまで中日関係を批判的に扱ったことはない。
石塚さんの緊張は、政治的リスクを考えたわけではなく、そこに個人的な秘密があるためだろう。
「いいえ、どこにも掲載しませんし、一切公表するつもりもありません。私のごく個人的な興味だと思っていただければ・・・」
石塚さんはスイッチの切られたカセットレコーダーを見つめたまま、迷っているようだった。
「もちろん、無理に聞きだすつもりはありません。話せるところだけで結構です。ただ、私には石塚さんの原点がそこにあるように思えて・・・ あ、すみません。勝手にそんなことを・・・」
石塚さんは俯いたまま黙っていた。
私はインタビュアーのマナーとして、相手のプロフィールや著書などには一通り目を通すようにしている。私が調べた限り、石塚さんが満洲に行っていたとする資料は何もないし、プロフィールも終戦直後の活動からしか載っていない。だが、事前に見た中国でのニュース映像や講演会の映像では、石塚さんの流暢な中国語には、満洲で話されていたような、わずかな東北なまりがあった。著書には中国語は上海支部で覚えたと書いてあったが、それ以前に別の地域で中国語を習得していたはずだ。
きっと石塚さんにとって満洲時代のことは隠しておきたいことなのだ。
だが、こちらにも満洲で何があったのか聞いておかなければならない理由があった。
私の父方の祖母は不思議な人だった。
日本人で、若い頃の美人の面影は残しているが、その内面は幼い少女そのものだったのだ。
ずっと中国にいるにもかかわらず、中国語は全く理解できず、日本語しか話せなかった。
周りのことをどれだけ理解できているのかは分からなかったが、祖父のことは大好きで、いつも一緒にいた。その様子は夫婦と言うより、幼い少女が祖父に甘えているようではあったが。
最初は若年性の認知症かと思ったが、祖父の話ではそうではなく、結婚直前の事故によるものらしい。それまでは普通に中国語も話せて、満洲で仕事もしていたが、事故のせいで全て忘れてしまったということだった。それでも祖父のことは覚えているのだから、よほど祖父のことが好きだったのだろう。
私はそんな祖母が大好きだった。
日本語を勉強したのも、もっと祖母と話をしたい、祖母のことがよく知りたいという思いからだった。
祖父が亡くなってからは、日本語が話せるようになっていた私が、お世話役として祖母の所に入り浸っていた。祖母は一人でいる分には何の不都合もないのだが、他の人とコミュニケーションが取れないために、通訳が必要だったのだ。
私が行くと祖母は決まって「ミチヨちゃん」の話をした。
「ミチヨちゃんはすごいんだよ。何でもできるんだから」と自慢そうにしていたかと思えば、「ミチヨちゃんにごめんなさいって言わなきゃ」と済まなそうにしている時もあった。
「ミチヨちゃん」について尋ねたこともあったが、幼い少女のような祖母から何か情報を聞き出すのは難しく、かろうじて苗字が「ヌノムラ」ということだけが分かった。ただ、その苗字も次に聞くときには覚えていないことも多く信憑性は低いと思っていた。
あまりに万能の人物のように言うので、後半は祖母の空想上のお友達なのだと思って、話を合わせていた。
そして祖母が亡くなった後、私は東方文化社の中国支局から日本本社へと希望転勤してきた。
そこで偶然、ニュースで石塚ミチヨさんの受賞の話を知ったのだった。
久しぶりに聞く「ミチヨ」という名前。祖母は一度だけ「ミチヨちゃんは看護婦さんなんだよ」と教えてくれたことがあった。
まさかと思い、石塚ミチヨさんのことを調べると、旧姓は布村だった。
それは衝撃的な事実だった。
祖母の想像上のお友達だと思っていた「ミチヨちゃん」が実在する。
祖母はどういう人物で、石塚さんとはどういう関係だったのか。祖母は何を謝りたかったのか。
祖母のことを知るためには、まず石塚さんのことを知らなければならない。その過程で、祖母の本当の姿がきっと浮かび上がってくるだろう。
私は震える手で石塚さんの連絡先を探したのだった。
やがて石塚さんはゆっくりと顔を上げた。
「分かりました。どこにも発表しないと約束していただけるのなら、お話しましょう」
「もちろん約束します」
石塚さんはすっかり冷めたお茶を一口飲むと、気持ちを落ち着かせるように、ため息をついた。
「あれは太平洋戦争が始まる前の年だったから・・・」
「昭和15年。西暦1940年ですね」
私はノートに挟んであった、簡易年表を見た。
「そうですね。私は日赤の養成所の3年生になったばかりだったから、19歳の時でしたね」