現地任務
◇◇3 現地任務◇◇
船上での訓練を終えて満州、大連港に到着したのは7月5日のことだった。
外地へ来たのは初めてだったけど、そこはやっぱり蒸し暑かった。埠頭には軍の物資が山積みにされていて、トラックがせわしなく行き来していた。今乗ってきた病院船からも物資が降ろされている。
それと前後して、今までの訓練で合格とされた20人がタラップを降り、木内さん、いや木内婦長から陸軍少尉の階級章と第一特務救護小隊の徽章を手渡され、任官された。特に式典などはなく、少し拍子抜けした。小隊の徽章は盾形の中にハートとペンが象られており、盾の後ろに第一を表すと思われる稲妻が一本入っていた。立派な階級章や徽章をもらってはしゃいでいる子もいたけど、私はこんなバッジ一つで何が変わるのか疑問だった。
ちなみに不合格とされた人は、そのまま病院船に残り、重傷などで戦線を離れる人たちの乗船を待って、一緒に帰国するらしい。
そして私たちは軍の係官に先導されて港を出ると、そのままぞろぞろと軍の用意した南満州鉄道の特別車両に乗り込む。
大連は日本と中国とその他の国をごちゃまぜにしたような賑やかな街だった。そこを抜けて広大な平原に出ると、みんなは歓声を上げた。日本では考えられないくらいの畑が地平線まで広がり、麦やトウモロコシがざわざわと揺れていた。地元の秋の風景を思い出すが、全然規模が違う。
そして夕方に奉天に到着し、軍の宿泊施設に案内される。簡素な畳敷きに薄い布団だったが、地面が揺れないというだけで、別世界の寝心地だ。病院船とは違う大部屋に、修学旅行のようにはしゃいでいたが、ずっと汽車に揺られていた疲れもあって、みんなすぐに寝入ってしまった。
二日目は同じく特別車両でさらに内陸へと向かう。雑多な街、という印象の奉天を出ると、景色は畑と湿地に変わる。遠くに民家がぽつりぽつりと見える程度で静かなものだ。だが午後からはどんどん気温が上がり、列車の中は蒸し暑くなってくる。みんな襟元を開けて、ぱたぱたとあおいでいた。
やがて目の前にやけに整った大きな建物の群れが見えてくる。満州国の首都、新京だ。大きな真っ直ぐな道路と、その両側に整然と並んだ建物が印象的だった。誰かが『東京みたい』と言ったが、東京もこんな感じなのだろうか。そして宿舎も、奉天の実用一点張りとは真逆の、おしゃれな洋館だった。ここは本当に戦争をしている国なのだろうか。
三日目は早朝の出発となった。新京の立派な街並みは急に途切れ、泥壁の家と荒れ地が広がっていた。そしてそこからは一駅ごとに戦地に近づいている雰囲気が感じられた。銃を持った軍人が荷物検査をしているところを何度も見た。すれ違った軍用列車には包帯だらけの負傷兵が沢山乗っていた。鉄条網で囲まれた軍の施設もあった。朝はあんなにおしゃべりしていたのに、みんな無口になっていったのは、旅の疲れだけではないだろう。日が暮れて、肌寒くなった頃にチチハルに着くと、すぐに軍用トラックに分乗して近くの大きな木造三階建ての野戦病院に行く。
私たちの配属先である、関東軍北満第五臨時病院だ。
初めて入った野戦病院は排泄物と腐敗臭が充満し、考えていた消毒液の匂いはかすかにしかしなかった。
その日は休むように言われて、建物の三階に用意された薄暗い看護婦用の部屋に案内される。もとは中学校の校舎だそうで、あちこちにその雰囲気が残っていた。一つの教室に二段ベッドが六つ並べられ、それが薄い板やカーテンで仕切られている。それが六部屋あった。一応はプライバシーにも配慮されており、病院船に比べればだいぶゆったりした構造だ。私たちは明日への緊張と肌寒さの中、ベッドの中に潜り込んだ。
翌日は朝5時に起床。もう外は明るく、昨日の昼の熱気が嘘のように冷え込んでいた。軽く身支度を整えると、いくつかのグループに分かれて、先任の看護婦から病院内の設備、規則の説明が行われた。
一階には、壁を抜いて作った大きな待合室と外科と感染症科、診察室、手術室、看護婦の詰め所などがあり、二階には内科と職員控室、会議室、物品庫など、三階が看護婦の居住区域だ。病床は合わせて300床。三階への階段に大きく『男性立ち入り禁止』と張り紙がされているのがおかしかった。
渡り廊下の先の別棟には調理室、職員食堂、消毒室、洗濯室と雑務係さんたちの控室がある。グラウンドに並んでいる軍用テントは物置や患者の重傷度の選別場所として使われている。今は三つしか建っていないが、患者の搬送が増えた時や感染症が発生した時には、どんどん増えていくらしい。
井戸はグラウンド側に二つと裏手に一つ。裏手のものは看護婦の生活用水とされているが、もちろんそのままの飲用は厳禁。看護婦の清拭用テントも近くにあった。数日に一回程度は湯船にも浸れるらしい。
そして病院の隣には男性職員用の軍用宿舎がある。
職員は医師が15名、看護婦が72名、衛生兵が40名。通訳やその他の雑務係さんがそれぞれ10名程度。私たちの小隊20名が加わって看護婦は92名になるのかと思ったが、今日の夕方までには20名が転属していくという。つまり看護婦は72名のまま。
これは相当厳しいのでは、と思ったが、そもそも野戦病院で人員に余裕のあるところなんてないだろう。
その後、麦飯とみそ汁とたくあんだけの朝食をとって、グラウンドで朝礼を行った。
そこで初めて、木内婦長が前任の院長に代わり、院長兼婦長として赴任してきたことを知った。木内婦長はその場で第一特務救護小隊を紹介し、小隊を中心として現場の指導を徹底していくこと、ここの病院としての機能を正常化させていくことなどが宣言された。
それから数日後、私は近くの村への救援物資を届けるという軍用トラックで、数人の衛生兵と共に揺られていた。最初は、新入りで一番の年下だからと、荷台に乗り込もうとしたら、「少尉殿はこちらです」と助手席に乗せられた。
トラックの荷台には塩や石炭などの生活必需品の他、蚊帳や蚊取り線香、消毒薬なども積まれていた。
「まだ病院の仕事にも慣れていないのに」と言うと、「これも立派な病院の仕事ですよ」と運転している衛生兵が教えてくれる。
この辺りは比較的安全とは言え、日本人を敵視している住民も確かに存在する。そのような人たちに対し、『日本は生活を支援し、疫病を防いでくれる』と懐柔していくのだという。そして、ただ懐柔するだけでなく、住民の生活が安定すればより多くの労役を課すことができるし、感染症を未然に防げば病院のほうに広まってくることもない、という現実的な利点もあるのだという。
「ただ、前は支援物資を配るなんてしていなかったんですよ。それが今度の婦長になってから急に再開させて・・・ 近々大規模な動員でもあるんですかね」
「さぁ、私は聞いていないけど・・・」
たった数日しか経っていないが、この第五病院はそこまで余裕のある運営をしているとは思えない。その中で、自分たちの分を切り詰めてまで支援しようというのだから、木内婦長には何か考えがあるのだろう。
やがてトラックは土壁と藁ぶき屋根の家が疎らに建つ、黄牛屯(ファンニュウトゥン)に到着する。
トラックから降りて、通訳が支援物資を届けに来たと大声で言うと、鋤や鍬などの農具を持った男たちがぞろぞろと出て来て、いぶかし気に私たちを取り囲む。彼らは決して友好的な雰囲気ではなかった。
その様子を見て、衛生兵たちは銃に手を伸ばそうとする。
「待ってください」
私は思わず大きな声でそれを制した。
「え?」
「私たちは医療従事者です。銃を使うのは待ってください」
そう言われて衛生兵たちは銃から手を放す。
「でも、どうするんです?」
「・・・私に話させてください」
「連中に話が通じると思いますか?」
「それは分かりませんけど・・・」
私はこの村の人たちに、何か切羽詰まったものを感じたのだ。
「分かりました。でも少尉殿の安全のために、これは携帯させてください。勝手に撃ちはしませんから」
「通訳、お願いします」
そうして私は通訳と一緒に男たちの前に進み出る。
『私たちは第五病院の職員です。支援物資を届けに来ました』
『そんなものはいらない。うちの息子を返せ!』
『どういうことですか?』
『以前、お前たちに労役のためと連れていかれた息子がいつまでたっても帰ってこない。病院に聞いても門前払いだ。何の説明もない』
私は思わず、「えっ?」と隣の衛生兵と顔を見合わせる。その衛生兵も初めて聞く話のようだった。
『それはいつのことですか?』
『もう三か月にもなる』『劉を返せ!』『この人攫いどもめ!』
男たちは口々に言うが、もし本当のことならば、その怒りももっともだ。
『・・・分かりました。私が病院に戻って確認してきます』
『そんなことを言って逃げるつもりだろう!』『日本人はいつも出まかせばかりだ!』『平気で噓をつく!』
『私は必ず戻ってきます!』
『じゃあ、証拠を出せ!』『証文を書け!』
『・・・分かりました。連れ出された人の名前を教えてください』
そう言うと、衛生兵が『本当にいいのか?』という表情で見てくる。恐らく、いい方法ではないだろう。村人が望むような報告ができるとは限らないし、病院業務の支障となる恐れもある。越権行為にも当たるだろう。でも、私たちの誠実さを示すにはこれしか方法が浮かばなかった。
私は持っていた看護記録用紙に『黄牛屯の劉 天義(リュウ ティエンイー)氏が第五病院によって労務動員された件に関し、調査の上、五日以内に報告に戻ることを約束します。 第五病院少尉 布村ミチヨ』と記し、その下に同じ文面を中国語で書いてもらって、村人に渡した。
文面を見た村人は、『お前が少尉?』とあからさまに不審気な視線を向けてくるが、書面は受け取ってくれた。
『正直に言って、どのような報告ができるかは分かりません。ですが、必ず報告に戻ります。もう少し待ってください』
『これにはお前のメンツがかかっているんだぞ』
そう言って書面をひらひらと振る村人の視線を、私は正面から受け止めた。
『分かっています。これは約束です』
そう応えると、私たちは解放され、トラックは支援物資を積んだまま第五病院に引き返した。
私はすぐに婦長室を訪ね、黄牛屯での出来事を報告する。
「そんなことってあるんでしょうか・・・」
「・・・私なら絶対に許さないけど、前任者ならあり得るわ」
木内婦長はそう言葉を濁す。
「証文を書いてしまったのですが、越権行為に当たるでしょうか」
「私が追認するので問題ありません。それに、銃を使わずに話し合いでの解決を望んだのは正解です」
それを聞いて、私はほっとする。
「ただし、あなたの拳銃は飾りではありません。いつか誰かを撃つ覚悟はしておいてください」
そう言った木内婦長の視線は刺すような冷たさがあった。
だがそれもほんの一瞬のことだった。
「この問題は私が預かります。ご苦労様」
「は、はい。失礼します」
私は木内婦長の言葉の意味を考えながら、部屋を出た。
そして木内婦長は高岡副婦長や古参の軍医を呼んですぐに会議を開いた。
木内婦長が現状を説明すると、副院長から「今回は無事戻って来れたからいいものの、やはり支那人とは距離を置くべきではないか」という意見が出される。
それに対して頷く者もいたが、木内婦長は「漢人を敵とすれば、その監視、警戒に余計な労力を割かなければならない。それよりは友好的な存在として放置できる方がいい」として、今後も漢人に対する友好的な施策は継続すると宣言した。
その上で、「この村の件に関して何か知っている者は?」と問うが、応えるものは誰もいなかった。
そして約束の日の朝、私は婦長室に呼び出された。中には木内婦長と高岡副婦長、吉川さんの三人がいた。
「黄牛屯には残念な報告をすることになるわ」
開口一番に、木内婦長は憂鬱そうに言った。
高岡副婦長が調べたところ、病院の労務記録には4月12日付で複数の村から労務動員を受け入れた記録は見つかった。どの村の誰というところまでは記録に残っていなかったが、その前後に労務動員を受け入れた記録はなく、日付からすると、これが黄牛屯への動員で間違いないという。
その記録では、『三日後には動員が終了するも、うち一人が発熱のために、別施設へ移送。詳細は別紙』とあった。だが、院内にはこの別紙というのは残されていなかった。
そこで今度は木内婦長が周辺の施設の状況を探ったところ、同じ日付で漢人の青年を一人受け入れている施設があったという。その青年こそ、村に戻らない劉天義氏である可能性が高いという。
「じゃあ、劉さんはそこの施設で治療を受けてから、どこに行ったんですか?」
「・・・治療は受けていない。この青年はとっくに死亡しているわ。そういうところに送られたのだから」
私はしばらくその言葉の意味が理解できなかった。ようやく思い当たったのは、木内婦長がいつか言った『非倫理的な行動』のことだった。
「黄牛屯への報告は私が第五病院代表として行います。あなたも同席してください」
そう言われ、私は吉川さんの運転する軍用車で再び黄牛屯に行った。
吉川さんがトラックを降りて到着を知らせると、『本当に戻ってきた』などと言いながら、男たちが集まってくる。
先頭に立つ木内婦長に気圧されながらも、村人たちはその真摯な説明に耳を傾けていた。
そして最後に『病院の労務動員によって行方不明者を出してしまって申し訳ない。今後、絶対にこのようなことは繰り返さない』と言って、木内婦長は路上で正座をして頭を下げた。私と吉川さんもそれに倣う。
男たちの後ろでは劉さんの母親と思しき女性が泣き崩れる。予期していたことだったのだろうが、それが確定してしまったのだ。
やがて劉さんの父親が、頭を上げろと言った。
『それがあんたたちの誠意だというなら、俺はもう何も言わない。あんたたちは自分とは関係のないことで頭を下げてくれた。それで十分だ』
その父親の顔は、怒りよりも悲しみで満ちていた。
「あの、先ほどのことですが・・・ 婦長にまで頭を下げさせてしまって、申し訳ありませんでした」
私は帰りの車内で、そう謝った。
木内婦長はじっと車外を見つめていたが、小さなため息とともにこちらを見てくれた。
「あれはあなたのせいじゃない。病院が過去に行ったことへのけじめよ。病院のやったことに対して病院にいるものが責任を負うのは当然こと。私たちは過去を清算して、人の命を救う場であるとの信頼を取り戻さなければならないのよ」
そう言って木内婦長は再び車外へと視線を向ける。
確かに私は赴任以前の第五病院を知らない。だが、これからの第五病院は自分たちの行動にかかっているのだと、ひしひしと感じた。
「この戦争、日本は必ず負けるわ」
木内婦長は車外を見つめたまま、ぽつりと言う。
「え?」
「その時に私たちを助けてくれるのは軍じゃない。ここの住民たちよ」
そう言った木内婦長は、窓の外に見える雪を頂く山々よりももっと遠くを見詰めているように見えた。
「と、私の方はこんなとこかな。もうだいぶ前のことだけどね」
そう言って、私はバケツに汲んだ井戸水をドラム缶に空けながら、話を終えた。
季節はもう九月。たまたま早朝の水汲み当番で三人が重なり、最近どんなことがあったか、という話になったのだ。
ちなみにドラム缶に水を貯めたあとはそれを煮立たせ、石灰を入れて不純物を沈殿させるために蓋をして放置。1時間後に上澄みをすくい取り、そこに漂白粉を入れてさらに10分放置して、やっと使用可能な浄水ができる。
屋内にはもっと高性能な石井式浄水器もあるが、その水は全て点滴や傷口の消毒用として使われる。調理、洗浄、清掃、手洗いなど、普段使いするための水は、このように300リットルのドラム缶で毎日2~3杯作られている。本来は雑務係さんや衛生兵の仕事なのだろうが、人手不足の中、手の空いているものは何でもやらなくてはならない。当然、看護婦もその作業に回されている。
「やっぱ、木内婦長は何考えてるか分かんないな~。あ、悪い意味じゃなくてね。底が知れないというか・・・」
「うん、それは分かる・・・」
スミレが言うと、シゲミも同意する。
「でも、そこで毅然とした対応ができるミチヨもかっこいいと思う」
シゲミはそう褒めてくれるが、私としては、未だにどうすればよかったのか分からない状態だ。
「スミレは? 張さんのこと教えてよ」
「え、張さんって、歯科医の?」
「そうだな~」
それは、ようやく夏の暑さが一段落した頃だった。昼前に軍の救護トラックがグラウンドに入ってくるなり、乗っていた若い衛生兵が叫ぶ。
「急患でお願いします! 窒息しかかっています!」
それと同時に担架で降ろされてきた男性は、あえぐような呼吸で、口角から唾液を垂らしていた。息を吸うたびに喉の奥からゴロゴロと低い音がする。
すぐに外科担当の軍医大尉、新井と担当看護婦が駆けつけてきて、衛生兵から患者の経過を聞く。
「最初は奥歯の痛みだったと言っていました。それからだんだん顎の下が腫れてきて、息苦しくなってきたそうです。外科医の判断が必要ということで、こちらに搬送したのですが、その間にもどんどん悪化していて・・・」
衛生兵も初めて見る症例なのか、どうしたらいいのか分からない様子だ。
新井が顎の下の硬い腫れに触れると、患者は朦朧とした意識の中で、うめき声とともに首を反らせた。口を開けさせようにもほとんど開かず、わずかな隙間は血色の悪い舌に塞がれている。膿瘍によって舌が持ち上げられているのだ。
こういう場合は切開して、膿瘍に管を差し込み、排膿すればいい。だが言葉では簡単でも、その実際的な手技は複雑で繊細だ。内臓や四肢の経験は豊富だが、顎近辺となると自分は専門外。歯科医が適任だが、この病院には歯科医はいない。
今、誤った処置をすれば逆に気管閉塞の進行や、大量出血の可能性もある。そうでなくとも顔や顎は血管、神経、筋肉が複雑に走り、手を出したくない場所だ。
「誰か、歯科医を知らないか!?」
新井は自分のプライドよりも患者の命を優先した。
「誰でもいい! 歯科医ならこの患者を助けられるはずだ!」
その呼びかけに、遠巻きにしていた通訳の少女がおずおずと手を挙げた。
「近くに新京の大学で勉強して歯医者さんになった人がいます。開業はしていないようですけど・・・」
「新京で免許を取ったのなら安心だ。すぐに呼んできてくれ」
「でも・・・ その人、私と同じ漢人です・・・」
「関係あるか! 誰か、すぐに行ってくれ」
新井は当然のように言うが、その場の看護婦や衛生兵たちは顔を見合わせるだけだった。このような病院内であっても、漢人に対する差別意識は支配的であり、新井のような人間のほうが少数派だった。
そんな中「あたしが行くよ」と進み出てきたのは夜勤明けで、ようやく勤務交代できたスミレだった。
「地図を書いてくれ。それと歯科医の名前も」
通訳の少女に鉛筆と看護記録用紙を渡して、スミレは患者の状態を観察する。
スミレはほんの数秒、患者を観察しただけで歯科医に伝えるべき内容を把握する。
「はい、お願いします。歯医者さんの名前は張(チャン)さんです」
「よし」
スミレは地図を受け取ると、周りの看護婦や衛生兵に目もくれず、走り出した。
スミレを見送った新井は、「気管切開術の準備を」と命じて、患者を慎重に診察室に運び込ませる。もし間に合わなければ自分が切るしかない、と覚悟をしながら。
スミレは地図を見ながら、三十分ほどで歯科医師がいるという北石鎮(ベイシージェン)という小さな町に到着する。中央に石畳の通りがあり、その左右に古い木造やレンガ造りの家が立ち並んでいる。
だが町の様子はもらった地図とは微妙に異なっており、張さんの家が分からない。
こんなことなら、時間がかかっても通訳の子と一緒に来るんだったと思うが、仕方ない。
「張先生ー!!」
スミレは通りの真ん中で声を張り上げた。
あちこちで何事かと窓を少しだけ開ける音や、自分は無関係だとドアを閉める音が聞こえてくる。漢人の町の真ん中で、女性が一人で日本語を叫ぶ。トラブルの種になりかねない行為だとは分かっているが、そんなことに構っている余裕はない。
「張先生ー!!」
もう一度スミレが叫ぶと、物陰のドアが開いて、一人の青年が作業途中と思われる荒縄を持ってやって来る。
『お前は日本人か!? こんなところで何を叫んでいる!?』
何事か中国語で言われるが、スミレには何を言われたのかさっぱり分からない。分かるのは友好的ではないということだけだ。
「日本語、分かりますか? 私は第五病院の看護婦で・・・」
スミレはゆっくり、はっきりと話すが、途中で遮られる。
『人の町で威張ってんじゃねぇ! さっさと帰れ! でねぇと・・・』
男は何事か怒鳴ると、持っていた荒縄を振り上げた。
その瞬間、スミレは『避けない』という選択をした。避けること自体は簡単だ。でもそれでは、脅せば逃げると思われてしまう。それよりは殴られてしまった方がいい。女を殴ったという引け目を感じさせることで、会話のきっかけが掴めるかもしれない。
スミレは両手を降ろしたまま、その男を見詰める。
男は荒縄を振り上げたまま、動けなくなる。
その時、開けっ放しのドアから、もう一人の男が駆け寄ってくる。
『兄さん、何やってるの!?』
『志明(ジーミン)、こいつが・・・』
二人は何事か交わしてから、後から出てきた方がスミレに向き直る。
「私ヲ探シテイルノデスカ?」
なまりはきついが、はっきりとした日本語だった。
「歯科医師の張先生ですか?」
「ソウデス」
「よかった。私は第五病院から来ました。張先生に急患をお願いしたいんです」
そうしてスミレは患者の様子を事細かく説明する。張さんの表情が真剣なものに変わっていった。
「・・・分カリマシタ。私ハ自転車デ行クノデ、道ヲ教エテクダサイ」
「大丈夫です。後ろから付いて行きます」
張さんは『本気か?』というような顔をするが、立派な診察バッグを肩から下げて、古い自転車で走り出すと、スミレはぴったりと付いて走った。
しばらくすると、何か思うところがあったのだろう、張さんが尋ねてくる。
「軍ノ病院デ私ガ処置シテモイイノデスカ?」
「うちの軍医は歯科医師を呼んで来いとしか言いませんでしたけど、日本人と漢人とでは顎の作りが違うものですか?」
「・・・イヤ、何モ違イマセン。 ・・・急ギマス」
「お願いします」
そして30分ほどが経った頃、スミレが病院の正門をくぐった。
「患者は!?」
スミレが叫ぶと、新井が玄関先で手を振って出迎える。
「もうほとんど意識がない。私が気管切開しようとしていたところだ」
少し遅れて張さんが入ってきて、自転車を止めると汗を拭きながら玄関へと走る。
「ア、 張 志明(チャン・ジーミン)デス。新京ノ大学、出マシタ」
「張先生、お疲れ様です。私は新井と申します。こちらの患者をお願いしたいのですが」
そう言って新井は張さんを手術室に案内する。
患者は担架から手術台に移され、首元に消毒液が塗りたくられていた。張は患者の顎から喉元にかけての腫れを撫でるように触る。患者がかすかなうめき声を漏らすが、もう反応は薄い。
「・・・口腔底蜂窩織炎デス。切開シテ排膿スル。マダ大丈夫。道具モアル」
張が手術台の横に並べられた器具を確認して言う。
張とスミレが手を洗って手術衣を着ている間に、新井が麻酔薬を注射する。
「五番」
張が言うと、スミレがすかさず小さな丸みを帯びた刃のメスを手渡す。
張は顎の下にメスを当てると、皮膚、皮下組織、筋膜と次々に切り開いていく。そしてそこからは切るのではなく、かき分けるように奥を探る。
「膿、アッタ」
張がそう言うと、プツンと膜が破れる音がして、黄白色の膿が吹き出した。強烈な腐敗臭が室内に充満するが、それに怯むものは一人もいない。スミレが素早く切開口にガーゼを差し入れる。
新井は安心したような顔をするが、張の顔はまだ真剣だ。
「マダ膿アル。内側モ切開スル」
張は手袋を替えながら言う。
「口、開ケル。舌、押サエル」
スミレがゆっくりと患者の口を開ける。さっきの排膿で負荷が減り、だいぶ開くようになっている。指を差し入れ、腫れあがった舌を横に押さえつけると、張が覗き込む。
張は奥歯の歯肉の膨隆を見つけると、素早くメスを刺し入れた。
またも大量の膿があふれ出す。新井は膿が喉へと流れ落ちないように、手動の吸引器で膿を吸い取る。
膿が出て行くにつれて、患者の呼吸音が軽くなっていくのが分かった。
やがて張の顔から緊張が消えるのを見て、排膿処置が無事終わったのだと分かった。
「ありがとう。張先生のおかげです」
手術衣を脱いだ張に新井が握手を求めると、張は頭を下げ、両手で新井の手を取る。
「オ役ニ立テテ光栄デス」
その張の言葉は、どこか定型文じみたものを感じさせた。
新井は張の手を両手で包み、張の目を見て、そして周りの看護婦や衛生兵たちにも聞こえるように言う。<
「いや、こちらこそ、勉強になりました。人を助ける行為に肩書や出自など関係ない。私は張先生を尊敬します。ありがとうございました」
張はわずかに目を見開き、新井の顔をまじまじと見た。
そして無言のまま、もう一度、だが今度はやや自然に頭を下げた。
「よし、患者をどこか外科のベッドに移してくれ。排膿が終わるまで、呼吸と感染症に注意」
それだけ指示すると、新井は張を伴って医局のある二階へと上がって行った。
だが、医者が「終わり」と言ってもそれはまだ終わりではない。一段落したに過ぎない。むしろこれからが看護婦の主戦場だ。
感染症、栄養失調、気分の落ち込みなど「敵」は多い。どれか一つでも見逃せば、患者の笑顔が「救えたはずの命」になってしまう。
スミレはそう気持ちを引き締めた。
「じゃあ、張さんを連れてきたのはスミレだったんだ」
シゲミが感心したように言う。
歯科医としての腕で兵の命を救った張さんは、その後、確かな腕を目の当たりにしている新井さんの仲介で、第五病院の常勤歯科医になった。肩書は嘱託歯科医だが、立派な病院スタッフの一員だ。
張さんからの条件は「日本人以外の患者も、差別なく受け入れること」だったらしい。その条件に反発する人間もいたらしいが、結局は『念願の歯科の常設』をとったのだろう。
「張さんって誰にも丁寧だし、いい人だよね」
「あれ、シゲミって、ああいう人がタイプ?」
「え、ち、違うよ・・・ ただ優しい人だなって思っただけで・・・」
スミレがからかうと、シゲミは赤くなりながら否定する。確かにシゲミにとっては、いかにも軍人ですって感じの強面の軍医よりは接しやすいのかもしれない。
そしてそれは他の看護婦たちにも言えることで、来たばかりのころはよそよそしかったが、人間性が分かるとすぐに受け入れられた感じだ。
「それよりもシゲミの武勇伝も聞かせてよ。シゲミの異常分娩救出事件」
「あ、私もそれ聞きたい。全部ひとりでやったっていうじゃない」
スミレが変なタイトルをつけて言うが、それには私も興味がある。一緒にいた看護婦からある程度の話は聞いたが、やっぱりシゲミ本人から聞きたい。
「わ、私のはそんな武勇伝とかじゃなくて・・・」
「いいから、いいから。何があったのよ」
第五病院では以前から軍の方針で、現地住民の患者の受け入れや、周辺地域への医療巡回を行っていたらしい。
それらは一時中断していたが、木内婦長の赴任と共に大々的に再開させたのだった。
だが、それまでの第五病院の評判は、そう簡単に覆るものではない。
現に、病院の正門に『現地住民の診療を受け付けます』という旨の看板を日本語と中国語で掲げているにもかかわらず、敷地内に現地住民の姿はほとんどなかった。現地雇いの通訳の少女たちは、見よう見まねで包帯の洗濯を手伝っていることが多かった。
歯科医の張さんが疑ったように、こちらが現地住民を拒絶する雰囲気を出していたのもあっただろうが、そもそも現地住民から信用されていないのだ。
もちろん、シゲミのいる巡回班も、その集落、三合屯(サンハートゥン)で同様の反応を受けた。事前に十分な根回しを行っていたにもかかわらず、だ。
その日の午前に、シゲミは通訳の少女を伴って、村のまとめ役ともいえる保甲長の家を訪れた。午後から衛生指導を行いたいので村の広場を使わせてほしい、できれば人を集めてほしいとお願いするためだ。
当然、『日本人が何しに来た』という態度だったが、高岡副婦長から交渉用資材として預かった桃缶二つの風呂敷包みを手渡すと、途端に態度を軟化させた。さらに木内婦長からもらった箱入りのキャラメルを、「お子さんがいると聞いたので・・・」と追加で渡す。それによって「広場は使ってもいい。人も声をかけてやる」という言葉をもらったのだ。シゲミが片言の中国語で何とか伝えようとする誠実さも、いくらかは効果があったのかもしれない。
シゲミは手応えを感じ、喜び勇んでトラックへと戻り、村の広場で衛生指導の準備を始める。第五臨時病院と書いてある古いテントを立てて、その支柱に『手洗いは大切』『ハエは病気の元』などと中国語で書かれたビラを貼り付けていく。長机の上には手洗いの方法を説明したチラシと、無料配布する腹痛の薬の小袋が沢山。テントの前には椅子代わりに藁束を並べておく。身だしなみを整えたシゲミたち看護婦5人とおしゃれ着を着た通訳の少女が長机の前に並び、トラックの運転手でもある衛生兵は威圧感を与えない程度に、通りに面したところで警備に立つ。準備は万全だ。
やがて昼過ぎになると、村人が次々とやって来る。子ども連れの母親も多い。そして最後に保甲長がやってきて、『始めてくれ』と合図を出す。
「今日は皆さんに病気の元をやっつける方法を説明したいと思います!」
シゲミは精一杯の大声を張り上げる。その横では通訳の少女も大声を張り上げる。
いろいろな病気はバイキンが原因であること。そのバイキンは口から入ってくること。手に付いたバイキンを食べてしまわないように、手を洗わなければならないということ。
シゲミはとにかく分かりやすさ第一で説明する。他の看護婦も絵を出したり身振り手振りで手伝ってくれる。シゲミが片言の中国語でわざと間違え、通訳の少女に訂正されるという小ネタを挟んで、笑いを誘ったりもした。
衛生指導は大成功と言えるだろう。
「手洗いの方法を説明した紙を用意しました。炊事場などに張ってください。あと、これは腹痛の薬です。これを飲んでもよくならないときは第五病院まで来てください」
そう結んで、広場に来た人に手洗いの紙と薬の小袋とを渡していく。看護婦たちも「ありがとうございました」と並んで村人を見送った。
「ここの人たちは話を聞いてくれてよかったですね」「小野さんのネタも受けてたし」「俺の仲間が行ったところは暴動寸前で話もできなかったとか言ってたからなぁ」などと話しながら会場の撤収作業に入る。
そしてシゲミは藁束をトラックに積み込もうとした時に、トラックの横の草むらに小さな白い包みが落ちているのを見つけた。
「あ・・・」
それは今配ったばかりの腹痛の薬だった。
注意してみれば、広場から家々へと向かう通りの道端に、いくつも投げ捨ててあった。
その瞬間に、今までの温かい雰囲気は何だったのか、と思ってしまった。手洗い指導で笑っていたのも、薬を受け取って喜んでいたのも、みんな演技だったのか。
シゲミの様子を見に来た看護婦が、同じものを目にしてため息をつく。
「そうだよね。こんな薬か毒かも分からないものなんてもらわないよね」と言いながら紙包みを拾い集める姿を見て、シゲミは涙があふれそうになる。
衛生兵も拾い集めながら「チラシのほうは落ちてねぇな」と言うと、「紙は使い道がありますからね・・・」と通訳の少女が言う。
シゲミは自分が恥ずかしくなった。村のみんなに衛生指導をした、分かってもらえた、と喜んでいたが、それらは全て自己満足でしかなかったのだ。
「そういうこともありますよ、少尉殿。暴動が起きなかっただけ吉ってもんです」
俯くシゲミに衛生兵がそう声をかけてくれる。
「そうですね・・・」
シゲミは力なく返し、最後の藁束を荷台に乗せると、トラックの助手席に乗り込む。
そうしてトラックは三合屯の村道をガタゴトと走っていくが、途中でシゲミが「あれ、何でしょう・・・」と声を上げる。
何の変哲もない民家だが、そこに数人の女性が慌てた様子で出入りしていたのだ。家の前では中年男性がひどく焦った様子で、道の向こうを伺っている。
衛生兵が気を利かせて民家の近くにトラックを止めると、通訳の少女が降りて行って様子を聞いてくれる。
「もうすぐ赤ちゃんが生まれそうだけど、産婆さんがまだ来ないそうです」
みんなは「なんだ、そうか」という雰囲気になるが、シゲミはそこに違和感を覚えた。
このあたりの村ではそれぞれの家での出産が普通だ。赤ちゃんを取り上げたことがある人もいるはずなのに、どうして焦って産婆さんを待っているのか。『異常分娩』という言葉が脳裏をよぎる。道具のそろった日本でも危険なのに、この辺りでは母子ともに致命的だろう。
シゲミはトラックを降りて行って、「産婆さんはいつ来るのですか?」と家の前に立つ男に尋ねた。それを通訳の少女が翻訳してくれる。
だが、それに対してその男はいきなり怒鳴り散らしてきた。それだけ焦っているのだろう。あまりの剣幕に通訳の少女が泣き出してしまう。それを聞きつけて、今度はトラックから衛生兵が降りてくる。
まずい、悪循環だ。
「この子と一緒にトラックで待ってて。私は大丈夫だから」
慌ててそう言うと、通訳の少女と一緒にトラックに戻ってもらう。
さっきの男の言葉はよく聞き取れなかったが、「日本人は手を出すな」というようなことを言ったようだ。
つまり、「危険な状態にある」という判断は間違っていない。
『私はシゲミといいます』『第五病院の看護婦です』と片言の中国語で説明するが、男はなおも早口で怒鳴りつけてくる。ところどころに『日本人』『帰れ』『毒』という言葉が聞こえる。このあたりでの日本人のイメージを考えれば、どんなことを言われているのかは想像がつく。
だがシゲミは説得を諦めなかった。男のことは怖いと思ったが、すぐそこで母子が死にかけているかと思うと、そちらのほうがずっと怖かった。
『妊婦さん、見せてください』『赤ちゃん、助けます』
その言葉を何度も繰り返していると、家の戸が開いて、女の人が出てきた。妊婦の様子を見に来ていた家族だろうか。
その人が男の人と何か話すと、男の人は渋々と言った様子で、シゲミを家に入れてくれた。
家の中は薄暗く、土間には血に汚れた藁が落ちていた。お世辞にも衛生状態は良くない。
そして奥の部屋に通されたとき、シゲミは目を見張った。
真ん中に寝かされた妊婦はもう血の気がなく、意識も朦朧としている。腰布はじわじわとした出血によって、赤黒く染まっていた。周りの女性はどうすることもできず心配そうに見守るばかり。老婆は神仏に祈っていた。そこにある道具は、熱湯に浸されている糸と、古いハサミだけだ。
『手を洗わせてください』と言うと家の裏手にある水瓶に案内される。当然、さっき配ったチラシは貼っていない。
シゲミは何度も何度も手を洗うと、『妊婦さん、触ります』と言って、触診する。明らかな骨盤位、つまり逆子だ。
妊婦を自分の膝を抱えるような態勢にすると、その顔の横で大きく息をして見せ、『大きく、息をする』と、その息に合わせるように促す。
やがて妊婦の力みが安定してくると、産道から赤ちゃんのお尻がゆっくりと出てくる。シゲミはそれを優しく支え、赤ちゃんの股関節や腰の位置を正しく戻してやる。幸い、足は絡んでいない。
そして赤ちゃんの肩に差し掛かる。そっと赤ちゃんの背中に手を回し、ゆっくりと自然な回旋を助けてやる。
次は頭だ。大きく息をして見せながら、妊婦に呼吸を止めないように促す。だがその首には臍帯が巻き付いているのが見えた。もう時間の勝負だ。
ゆっくりと赤ちゃんの頭を引き出すと、薄暗い中、温かい血でぬめる臍帯を慎重にほどく。そして赤ちゃんをそばの女性に預け、熱いのを我慢して糸を引き上げて臍帯の二か所を縛り、その中間をろうそくの火で炙ったハサミで切断する。
シゲミが赤ちゃんを抱え上げ、背中を軽くたたくと、ようやく小さな産声が上がった。
だが、その部屋の女性たちにほっとした顔が見えたのも束の間だった。
シゲミが用意されていた古布で赤ちゃんをくるむと、すぐにそれをそばにいた女性が奪うように取り上げる。老婆は『いつまでいるんだ。早く出て行け』というようなことを叫ぶ。シゲミは持っていた古布で血に濡れた手を拭って部屋を出る。そこでは妊婦の夫と思われる男にも睨まれた。
無言のまま、頭を下げて家を出るが、最後に思い出したことがあった。
『赤ちゃんが熱を出したら、おでこじゃなくて首筋を・・・』
何とか中国語で伝えようとするが、言い終わる前に、家の戸が乱暴に閉められた。
シゲミが道端で待っていたトラックにとぼとぼと戻ると、看護婦が「どうだった?」と聞いてくる。
「あ、うん、逆子だったけど、何とかなった。大丈夫だと思う。産婆さんも後で来るだろうし」
シゲミは無理に笑顔を作って答える。
「え~、小野さん、すご~い」「お疲れ様です。じゃあ、出発しますよ」
シゲミがトラックの助手席に戻ると、再びガタゴトと動き出す。
窓の外を眺めながら、シゲミは考えていた。自分は決して感謝されようとしてやったわけではない。でも自分の善意は届いていなかった。自分はなんて無力なのだろう、と。
「・・・そっか、それで元気なかったんだ」
私が言うと、シゲミは驚いて顔を上げる。
「え、気付いてたの?」
「まぁ、おなかすいてる顔じゃないなとは思ってたけどね」とスミレも言う。
「でも仕方ないんじゃない? その人たちにも長い歴史があるわけなんだから」
私は努めて軽く言う。これだけ根強く現地の住民から毛嫌いされているのだ。満州国が自主独立した理想国家だなどとは信じていない。
「でもシゲミの取り上げたその子が大きくなったら、きっと『日本人の中にもいい人はいる』って言ってくれるよ」
スミレに言われて、シゲミはにっこりとほほ笑む。
「そうだね。それまで頑張らないと」
そうして私たちは水汲みの仕事を終え、腰を叩きながらバケツを片付ける。ドラム缶のほうはすぐに雑務係さんが火を入れて沸かしてくれる。
食堂に行くと、包帯の洗濯をしていた人たちと、院内の清掃をしていた人たちも集まってくる。
今日のメニューは麦飯とみそ汁の汁だけとたくあん、ほうじ茶。みそ汁の具は患者のほうに優先的に回されるから、具なしにももう慣れてしまった。古参の衛生兵が新人に「麦飯のほうが体にいいんだぞ」と叱っているのが聞こえてくる。理屈は分かるが、私は柔らかい白米のほうが好きだ。
食堂ではゆっくりする暇もなく、食事を終えた人から次の仕事に行く。入院患者の対応であれば病室を回っているだけで一日が終わってしまうし、外来患者が運び込まれなくても、器材の洗浄、消毒、衣類や寝具の洗濯、繕い物、患者用の配膳、食器洗いなど、やることはいつも山積みだ。
と、その時、病院の正門のほうが急に騒がしくなる。早速患者が運ばれてきたのか。私たちはぬるいほうじ茶を飲み干すと、席を立った。
だが診察室に行ってみると、まだ患者は搬送されていない。何をやっているのかと窓から覗いてみると、正門のところで何かもめているようだ。後から衛生兵も駆け付けて行く。
「ちょっと、何かあったの?」
スミレが衛生兵の一人を捕まえて尋ねる。
「あ? あ、いえ、失礼しました。どうやら支那人が何人か押しかけて騒いでいるようです。『シゲミを出せ』『シゲミはどこだ』などと言って。すぐに追い払いますので、ご安心を」
「え、わ、わたし・・・?」
「らしいわね・・・」
シゲミは少し考えた後、正門に向かおうとする。
「ちょっと、止めときなって。何があるか分かんないんだから隠れてたほうがいいって」
私はそう止めるが、シゲミは「このままでは病院の迷惑になるから」と言って、さっさと行ってしまう。
仕方なく付いていくと、正門のところには三人のたくましい男が、衛生兵と一触即発の状態だった。横にある荷車には野菜が山積みになっているから、農作業の帰りだろうか。
「あの、私が小野シゲミです」
シゲミが三人の男たちに震える声で言うと、男たちはじろりとシゲミのことをねめまわす。
「三合屯ニ来タ『シゲミ』カ」
リーダー格の男が固い日本語で言う。
「はい、そうです」
三合屯と言えば、シゲミが分娩介助をした、あの村だ。その後、何か問題が起きたのだろうか。
だが男たちの態度は、シゲミを前にして一変した。
「俺の弟が馬鹿な真似をしてすまなかった。大切な嫁と子どもを助けてもらいながら、シゲミやこの病院のメンツを潰してしまった」
後から恐る恐る出てきた通訳の少女が、そう翻訳してくれる。よく見れば三人の顔はよく似ていて、一番後ろの男は申し訳なさそうに小さくなっている。
「村の連中にもよく言っておいた。お前たちは三合屯を無礼者の村にしたいのかと。お前からも謝れ」
そう言って、長男と思しき男は小さくなっていた男を押し出す。
「・・・あの時はすまなかった。嫁からも叱られた。相手が誰であっても、礼には礼で返すということを忘れていた。本当にすまなかった」
「あ、え、そんなわざわざ・・・」
強面の男たちに謝られて、シゲミはどぎまぎしていた。
「これは謝罪の品だ。二人の命の礼としては少ないが、受け取ってほしい」
そう言うと男たちは野菜に掛けられていたムシロを地面に敷くと、そこに野菜を降ろしていく。そして最後に男たちは日本式に頭を下げて帰って行った。
「えと・・・ これ、どうしよう・・・」
野菜の山を見て、シゲミが戸惑ったように言う。
「とりあえず、食糧庫に運んでもらわないとだね」
「でもよかったね。あの人たちなら、『日本人の中にもいい人はいる』って言ってくれるよ」
「うん」
シゲミは満面の笑みで応えた。
◇◇◇◇◇
「なるほど、そのような現地の方との軋轢、さまざまな『負債』がある中で医療活動をされていたわけですね・・・」
前任者の戦中における非人道的行為、満州国建国から続く差別問題、それらに端を発する現地の人々からの強い不信感。石塚さんたちは医療の提供と共に、それらにも向き合っていかねばならなかったのだと思うと、その意志の強さに改めて尊敬の念を抱く。
「石塚さんの訪れた黄牛屯とは、その後交流はありましたか?」
「私自身はありませんでしたが、木内婦長は何度も訪れていたようです。現地の人との友好は成立可能だと信じて疑わなかったんですよね。その姿に私も励まされました」
確かに、謝罪によって表面上は許された村に、真の友好関係を築こうと足繫く通う様子からは、木内婦長の信念が感じられる。
「スミレさんが呼びに行った張さんという歯科医師さんはそれからも病院で活躍されたのでしょうか?」
「はい。もともと第五病院は地域の中核病院と言う立ち位置にあったので、歯科医師の存在は周辺からも期待されていましたしね」
「当時の歯科治療と言うと、どういったものだったのでしょうか?」
「顎部の手術や排膿などもしますが、基本はそうなる前に適切に抜歯することですね」
「えぇ・・・」
私はその光景を想像して、顔をしかめてしまう。
「麻酔があればいいですけど、物資不足ですから、ない時もあります。そんな時は相当痛いですよ。でも、『どうせ痛い思いをするのならかわいい子にやってもらいたい』とスミレはよく患者さんから指名されていましたね。一思いに抜くので、スミレがやるとすぐ終わりますから」
「そういうのでも人気が出たりするものなんですね」
「でもスミレはお守りとして熊の牙を持っていたでしょう? そのことが知られるようになると『熊の牙を抜歯した女』とか言われるようになっちゃって。本人は困惑していましたね」
石塚さんは面白そうに笑う。
「シゲミさんが出産介助した赤ちゃんとは、その後会うことはありましたか?」
「えぇ、1か月くらい後だったと思いますが、その親子が馬車で訪ねてきて、『シゲミにあやかって名前を付けた』と言っていたんですよ。シゲミは喜んでいましたね」
「じゃあ、その三合屯とも友好的な関係になったのですね?」
「えぇ、その後は三合屯は重要な野菜の仕入れ先になっていましたね。そこからいい噂が広まったのか、病院の巡回もスムースに行くようになったような気がしていました」
「シゲミさんの活躍で産科が開設されたりということはなかったんですか?」
「産科の開設はありませんでしたね。専門知識のある看護師はいても専門知識のある医師がいませんでしたからね。ただ、シゲミはごく個人的に、村の産婆さんに知識や技術を教えていたようです」
「そのようにして、近隣の人たちを助けて友好関係を広げていったのですね」
そう尋ねると、石塚さんの表情が少し曇る。
「・・・私たちが助けられたのは、ごく一部の人たちだけです。私たち個人は無力なのです」
船上での訓練を終えて満州、大連港に到着したのは7月5日のことだった。
外地へ来たのは初めてだったけど、そこはやっぱり蒸し暑かった。埠頭には軍の物資が山積みにされていて、トラックがせわしなく行き来していた。今乗ってきた病院船からも物資が降ろされている。
それと前後して、今までの訓練で合格とされた20人がタラップを降り、木内さん、いや木内婦長から陸軍少尉の階級章と第一特務救護小隊の徽章を手渡され、任官された。特に式典などはなく、少し拍子抜けした。小隊の徽章は盾形の中にハートとペンが象られており、盾の後ろに第一を表すと思われる稲妻が一本入っていた。立派な階級章や徽章をもらってはしゃいでいる子もいたけど、私はこんなバッジ一つで何が変わるのか疑問だった。
ちなみに不合格とされた人は、そのまま病院船に残り、重傷などで戦線を離れる人たちの乗船を待って、一緒に帰国するらしい。
そして私たちは軍の係官に先導されて港を出ると、そのままぞろぞろと軍の用意した南満州鉄道の特別車両に乗り込む。
大連は日本と中国とその他の国をごちゃまぜにしたような賑やかな街だった。そこを抜けて広大な平原に出ると、みんなは歓声を上げた。日本では考えられないくらいの畑が地平線まで広がり、麦やトウモロコシがざわざわと揺れていた。地元の秋の風景を思い出すが、全然規模が違う。
そして夕方に奉天に到着し、軍の宿泊施設に案内される。簡素な畳敷きに薄い布団だったが、地面が揺れないというだけで、別世界の寝心地だ。病院船とは違う大部屋に、修学旅行のようにはしゃいでいたが、ずっと汽車に揺られていた疲れもあって、みんなすぐに寝入ってしまった。
二日目は同じく特別車両でさらに内陸へと向かう。雑多な街、という印象の奉天を出ると、景色は畑と湿地に変わる。遠くに民家がぽつりぽつりと見える程度で静かなものだ。だが午後からはどんどん気温が上がり、列車の中は蒸し暑くなってくる。みんな襟元を開けて、ぱたぱたとあおいでいた。
やがて目の前にやけに整った大きな建物の群れが見えてくる。満州国の首都、新京だ。大きな真っ直ぐな道路と、その両側に整然と並んだ建物が印象的だった。誰かが『東京みたい』と言ったが、東京もこんな感じなのだろうか。そして宿舎も、奉天の実用一点張りとは真逆の、おしゃれな洋館だった。ここは本当に戦争をしている国なのだろうか。
三日目は早朝の出発となった。新京の立派な街並みは急に途切れ、泥壁の家と荒れ地が広がっていた。そしてそこからは一駅ごとに戦地に近づいている雰囲気が感じられた。銃を持った軍人が荷物検査をしているところを何度も見た。すれ違った軍用列車には包帯だらけの負傷兵が沢山乗っていた。鉄条網で囲まれた軍の施設もあった。朝はあんなにおしゃべりしていたのに、みんな無口になっていったのは、旅の疲れだけではないだろう。日が暮れて、肌寒くなった頃にチチハルに着くと、すぐに軍用トラックに分乗して近くの大きな木造三階建ての野戦病院に行く。
私たちの配属先である、関東軍北満第五臨時病院だ。
初めて入った野戦病院は排泄物と腐敗臭が充満し、考えていた消毒液の匂いはかすかにしかしなかった。
その日は休むように言われて、建物の三階に用意された薄暗い看護婦用の部屋に案内される。もとは中学校の校舎だそうで、あちこちにその雰囲気が残っていた。一つの教室に二段ベッドが六つ並べられ、それが薄い板やカーテンで仕切られている。それが六部屋あった。一応はプライバシーにも配慮されており、病院船に比べればだいぶゆったりした構造だ。私たちは明日への緊張と肌寒さの中、ベッドの中に潜り込んだ。
翌日は朝5時に起床。もう外は明るく、昨日の昼の熱気が嘘のように冷え込んでいた。軽く身支度を整えると、いくつかのグループに分かれて、先任の看護婦から病院内の設備、規則の説明が行われた。
一階には、壁を抜いて作った大きな待合室と外科と感染症科、診察室、手術室、看護婦の詰め所などがあり、二階には内科と職員控室、会議室、物品庫など、三階が看護婦の居住区域だ。病床は合わせて300床。三階への階段に大きく『男性立ち入り禁止』と張り紙がされているのがおかしかった。
渡り廊下の先の別棟には調理室、職員食堂、消毒室、洗濯室と雑務係さんたちの控室がある。グラウンドに並んでいる軍用テントは物置や患者の重傷度の選別場所として使われている。今は三つしか建っていないが、患者の搬送が増えた時や感染症が発生した時には、どんどん増えていくらしい。
井戸はグラウンド側に二つと裏手に一つ。裏手のものは看護婦の生活用水とされているが、もちろんそのままの飲用は厳禁。看護婦の清拭用テントも近くにあった。数日に一回程度は湯船にも浸れるらしい。
そして病院の隣には男性職員用の軍用宿舎がある。
職員は医師が15名、看護婦が72名、衛生兵が40名。通訳やその他の雑務係さんがそれぞれ10名程度。私たちの小隊20名が加わって看護婦は92名になるのかと思ったが、今日の夕方までには20名が転属していくという。つまり看護婦は72名のまま。
これは相当厳しいのでは、と思ったが、そもそも野戦病院で人員に余裕のあるところなんてないだろう。
その後、麦飯とみそ汁とたくあんだけの朝食をとって、グラウンドで朝礼を行った。
そこで初めて、木内婦長が前任の院長に代わり、院長兼婦長として赴任してきたことを知った。木内婦長はその場で第一特務救護小隊を紹介し、小隊を中心として現場の指導を徹底していくこと、ここの病院としての機能を正常化させていくことなどが宣言された。
それから数日後、私は近くの村への救援物資を届けるという軍用トラックで、数人の衛生兵と共に揺られていた。最初は、新入りで一番の年下だからと、荷台に乗り込もうとしたら、「少尉殿はこちらです」と助手席に乗せられた。
トラックの荷台には塩や石炭などの生活必需品の他、蚊帳や蚊取り線香、消毒薬なども積まれていた。
「まだ病院の仕事にも慣れていないのに」と言うと、「これも立派な病院の仕事ですよ」と運転している衛生兵が教えてくれる。
この辺りは比較的安全とは言え、日本人を敵視している住民も確かに存在する。そのような人たちに対し、『日本は生活を支援し、疫病を防いでくれる』と懐柔していくのだという。そして、ただ懐柔するだけでなく、住民の生活が安定すればより多くの労役を課すことができるし、感染症を未然に防げば病院のほうに広まってくることもない、という現実的な利点もあるのだという。
「ただ、前は支援物資を配るなんてしていなかったんですよ。それが今度の婦長になってから急に再開させて・・・ 近々大規模な動員でもあるんですかね」
「さぁ、私は聞いていないけど・・・」
たった数日しか経っていないが、この第五病院はそこまで余裕のある運営をしているとは思えない。その中で、自分たちの分を切り詰めてまで支援しようというのだから、木内婦長には何か考えがあるのだろう。
やがてトラックは土壁と藁ぶき屋根の家が疎らに建つ、黄牛屯(ファンニュウトゥン)に到着する。
トラックから降りて、通訳が支援物資を届けに来たと大声で言うと、鋤や鍬などの農具を持った男たちがぞろぞろと出て来て、いぶかし気に私たちを取り囲む。彼らは決して友好的な雰囲気ではなかった。
その様子を見て、衛生兵たちは銃に手を伸ばそうとする。
「待ってください」
私は思わず大きな声でそれを制した。
「え?」
「私たちは医療従事者です。銃を使うのは待ってください」
そう言われて衛生兵たちは銃から手を放す。
「でも、どうするんです?」
「・・・私に話させてください」
「連中に話が通じると思いますか?」
「それは分かりませんけど・・・」
私はこの村の人たちに、何か切羽詰まったものを感じたのだ。
「分かりました。でも少尉殿の安全のために、これは携帯させてください。勝手に撃ちはしませんから」
「通訳、お願いします」
そうして私は通訳と一緒に男たちの前に進み出る。
『私たちは第五病院の職員です。支援物資を届けに来ました』
『そんなものはいらない。うちの息子を返せ!』
『どういうことですか?』
『以前、お前たちに労役のためと連れていかれた息子がいつまでたっても帰ってこない。病院に聞いても門前払いだ。何の説明もない』
私は思わず、「えっ?」と隣の衛生兵と顔を見合わせる。その衛生兵も初めて聞く話のようだった。
『それはいつのことですか?』
『もう三か月にもなる』『劉を返せ!』『この人攫いどもめ!』
男たちは口々に言うが、もし本当のことならば、その怒りももっともだ。
『・・・分かりました。私が病院に戻って確認してきます』
『そんなことを言って逃げるつもりだろう!』『日本人はいつも出まかせばかりだ!』『平気で噓をつく!』
『私は必ず戻ってきます!』
『じゃあ、証拠を出せ!』『証文を書け!』
『・・・分かりました。連れ出された人の名前を教えてください』
そう言うと、衛生兵が『本当にいいのか?』という表情で見てくる。恐らく、いい方法ではないだろう。村人が望むような報告ができるとは限らないし、病院業務の支障となる恐れもある。越権行為にも当たるだろう。でも、私たちの誠実さを示すにはこれしか方法が浮かばなかった。
私は持っていた看護記録用紙に『黄牛屯の劉 天義(リュウ ティエンイー)氏が第五病院によって労務動員された件に関し、調査の上、五日以内に報告に戻ることを約束します。 第五病院少尉 布村ミチヨ』と記し、その下に同じ文面を中国語で書いてもらって、村人に渡した。
文面を見た村人は、『お前が少尉?』とあからさまに不審気な視線を向けてくるが、書面は受け取ってくれた。
『正直に言って、どのような報告ができるかは分かりません。ですが、必ず報告に戻ります。もう少し待ってください』
『これにはお前のメンツがかかっているんだぞ』
そう言って書面をひらひらと振る村人の視線を、私は正面から受け止めた。
『分かっています。これは約束です』
そう応えると、私たちは解放され、トラックは支援物資を積んだまま第五病院に引き返した。
私はすぐに婦長室を訪ね、黄牛屯での出来事を報告する。
「そんなことってあるんでしょうか・・・」
「・・・私なら絶対に許さないけど、前任者ならあり得るわ」
木内婦長はそう言葉を濁す。
「証文を書いてしまったのですが、越権行為に当たるでしょうか」
「私が追認するので問題ありません。それに、銃を使わずに話し合いでの解決を望んだのは正解です」
それを聞いて、私はほっとする。
「ただし、あなたの拳銃は飾りではありません。いつか誰かを撃つ覚悟はしておいてください」
そう言った木内婦長の視線は刺すような冷たさがあった。
だがそれもほんの一瞬のことだった。
「この問題は私が預かります。ご苦労様」
「は、はい。失礼します」
私は木内婦長の言葉の意味を考えながら、部屋を出た。
そして木内婦長は高岡副婦長や古参の軍医を呼んですぐに会議を開いた。
木内婦長が現状を説明すると、副院長から「今回は無事戻って来れたからいいものの、やはり支那人とは距離を置くべきではないか」という意見が出される。
それに対して頷く者もいたが、木内婦長は「漢人を敵とすれば、その監視、警戒に余計な労力を割かなければならない。それよりは友好的な存在として放置できる方がいい」として、今後も漢人に対する友好的な施策は継続すると宣言した。
その上で、「この村の件に関して何か知っている者は?」と問うが、応えるものは誰もいなかった。
そして約束の日の朝、私は婦長室に呼び出された。中には木内婦長と高岡副婦長、吉川さんの三人がいた。
「黄牛屯には残念な報告をすることになるわ」
開口一番に、木内婦長は憂鬱そうに言った。
高岡副婦長が調べたところ、病院の労務記録には4月12日付で複数の村から労務動員を受け入れた記録は見つかった。どの村の誰というところまでは記録に残っていなかったが、その前後に労務動員を受け入れた記録はなく、日付からすると、これが黄牛屯への動員で間違いないという。
その記録では、『三日後には動員が終了するも、うち一人が発熱のために、別施設へ移送。詳細は別紙』とあった。だが、院内にはこの別紙というのは残されていなかった。
そこで今度は木内婦長が周辺の施設の状況を探ったところ、同じ日付で漢人の青年を一人受け入れている施設があったという。その青年こそ、村に戻らない劉天義氏である可能性が高いという。
「じゃあ、劉さんはそこの施設で治療を受けてから、どこに行ったんですか?」
「・・・治療は受けていない。この青年はとっくに死亡しているわ。そういうところに送られたのだから」
私はしばらくその言葉の意味が理解できなかった。ようやく思い当たったのは、木内婦長がいつか言った『非倫理的な行動』のことだった。
「黄牛屯への報告は私が第五病院代表として行います。あなたも同席してください」
そう言われ、私は吉川さんの運転する軍用車で再び黄牛屯に行った。
吉川さんがトラックを降りて到着を知らせると、『本当に戻ってきた』などと言いながら、男たちが集まってくる。
先頭に立つ木内婦長に気圧されながらも、村人たちはその真摯な説明に耳を傾けていた。
そして最後に『病院の労務動員によって行方不明者を出してしまって申し訳ない。今後、絶対にこのようなことは繰り返さない』と言って、木内婦長は路上で正座をして頭を下げた。私と吉川さんもそれに倣う。
男たちの後ろでは劉さんの母親と思しき女性が泣き崩れる。予期していたことだったのだろうが、それが確定してしまったのだ。
やがて劉さんの父親が、頭を上げろと言った。
『それがあんたたちの誠意だというなら、俺はもう何も言わない。あんたたちは自分とは関係のないことで頭を下げてくれた。それで十分だ』
その父親の顔は、怒りよりも悲しみで満ちていた。
「あの、先ほどのことですが・・・ 婦長にまで頭を下げさせてしまって、申し訳ありませんでした」
私は帰りの車内で、そう謝った。
木内婦長はじっと車外を見つめていたが、小さなため息とともにこちらを見てくれた。
「あれはあなたのせいじゃない。病院が過去に行ったことへのけじめよ。病院のやったことに対して病院にいるものが責任を負うのは当然こと。私たちは過去を清算して、人の命を救う場であるとの信頼を取り戻さなければならないのよ」
そう言って木内婦長は再び車外へと視線を向ける。
確かに私は赴任以前の第五病院を知らない。だが、これからの第五病院は自分たちの行動にかかっているのだと、ひしひしと感じた。
「この戦争、日本は必ず負けるわ」
木内婦長は車外を見つめたまま、ぽつりと言う。
「え?」
「その時に私たちを助けてくれるのは軍じゃない。ここの住民たちよ」
そう言った木内婦長は、窓の外に見える雪を頂く山々よりももっと遠くを見詰めているように見えた。
「と、私の方はこんなとこかな。もうだいぶ前のことだけどね」
そう言って、私はバケツに汲んだ井戸水をドラム缶に空けながら、話を終えた。
季節はもう九月。たまたま早朝の水汲み当番で三人が重なり、最近どんなことがあったか、という話になったのだ。
ちなみにドラム缶に水を貯めたあとはそれを煮立たせ、石灰を入れて不純物を沈殿させるために蓋をして放置。1時間後に上澄みをすくい取り、そこに漂白粉を入れてさらに10分放置して、やっと使用可能な浄水ができる。
屋内にはもっと高性能な石井式浄水器もあるが、その水は全て点滴や傷口の消毒用として使われる。調理、洗浄、清掃、手洗いなど、普段使いするための水は、このように300リットルのドラム缶で毎日2~3杯作られている。本来は雑務係さんや衛生兵の仕事なのだろうが、人手不足の中、手の空いているものは何でもやらなくてはならない。当然、看護婦もその作業に回されている。
「やっぱ、木内婦長は何考えてるか分かんないな~。あ、悪い意味じゃなくてね。底が知れないというか・・・」
「うん、それは分かる・・・」
スミレが言うと、シゲミも同意する。
「でも、そこで毅然とした対応ができるミチヨもかっこいいと思う」
シゲミはそう褒めてくれるが、私としては、未だにどうすればよかったのか分からない状態だ。
「スミレは? 張さんのこと教えてよ」
「え、張さんって、歯科医の?」
「そうだな~」
それは、ようやく夏の暑さが一段落した頃だった。昼前に軍の救護トラックがグラウンドに入ってくるなり、乗っていた若い衛生兵が叫ぶ。
「急患でお願いします! 窒息しかかっています!」
それと同時に担架で降ろされてきた男性は、あえぐような呼吸で、口角から唾液を垂らしていた。息を吸うたびに喉の奥からゴロゴロと低い音がする。
すぐに外科担当の軍医大尉、新井と担当看護婦が駆けつけてきて、衛生兵から患者の経過を聞く。
「最初は奥歯の痛みだったと言っていました。それからだんだん顎の下が腫れてきて、息苦しくなってきたそうです。外科医の判断が必要ということで、こちらに搬送したのですが、その間にもどんどん悪化していて・・・」
衛生兵も初めて見る症例なのか、どうしたらいいのか分からない様子だ。
新井が顎の下の硬い腫れに触れると、患者は朦朧とした意識の中で、うめき声とともに首を反らせた。口を開けさせようにもほとんど開かず、わずかな隙間は血色の悪い舌に塞がれている。膿瘍によって舌が持ち上げられているのだ。
こういう場合は切開して、膿瘍に管を差し込み、排膿すればいい。だが言葉では簡単でも、その実際的な手技は複雑で繊細だ。内臓や四肢の経験は豊富だが、顎近辺となると自分は専門外。歯科医が適任だが、この病院には歯科医はいない。
今、誤った処置をすれば逆に気管閉塞の進行や、大量出血の可能性もある。そうでなくとも顔や顎は血管、神経、筋肉が複雑に走り、手を出したくない場所だ。
「誰か、歯科医を知らないか!?」
新井は自分のプライドよりも患者の命を優先した。
「誰でもいい! 歯科医ならこの患者を助けられるはずだ!」
その呼びかけに、遠巻きにしていた通訳の少女がおずおずと手を挙げた。
「近くに新京の大学で勉強して歯医者さんになった人がいます。開業はしていないようですけど・・・」
「新京で免許を取ったのなら安心だ。すぐに呼んできてくれ」
「でも・・・ その人、私と同じ漢人です・・・」
「関係あるか! 誰か、すぐに行ってくれ」
新井は当然のように言うが、その場の看護婦や衛生兵たちは顔を見合わせるだけだった。このような病院内であっても、漢人に対する差別意識は支配的であり、新井のような人間のほうが少数派だった。
そんな中「あたしが行くよ」と進み出てきたのは夜勤明けで、ようやく勤務交代できたスミレだった。
「地図を書いてくれ。それと歯科医の名前も」
通訳の少女に鉛筆と看護記録用紙を渡して、スミレは患者の状態を観察する。
スミレはほんの数秒、患者を観察しただけで歯科医に伝えるべき内容を把握する。
「はい、お願いします。歯医者さんの名前は張(チャン)さんです」
「よし」
スミレは地図を受け取ると、周りの看護婦や衛生兵に目もくれず、走り出した。
スミレを見送った新井は、「気管切開術の準備を」と命じて、患者を慎重に診察室に運び込ませる。もし間に合わなければ自分が切るしかない、と覚悟をしながら。
スミレは地図を見ながら、三十分ほどで歯科医師がいるという北石鎮(ベイシージェン)という小さな町に到着する。中央に石畳の通りがあり、その左右に古い木造やレンガ造りの家が立ち並んでいる。
だが町の様子はもらった地図とは微妙に異なっており、張さんの家が分からない。
こんなことなら、時間がかかっても通訳の子と一緒に来るんだったと思うが、仕方ない。
「張先生ー!!」
スミレは通りの真ん中で声を張り上げた。
あちこちで何事かと窓を少しだけ開ける音や、自分は無関係だとドアを閉める音が聞こえてくる。漢人の町の真ん中で、女性が一人で日本語を叫ぶ。トラブルの種になりかねない行為だとは分かっているが、そんなことに構っている余裕はない。
「張先生ー!!」
もう一度スミレが叫ぶと、物陰のドアが開いて、一人の青年が作業途中と思われる荒縄を持ってやって来る。
『お前は日本人か!? こんなところで何を叫んでいる!?』
何事か中国語で言われるが、スミレには何を言われたのかさっぱり分からない。分かるのは友好的ではないということだけだ。
「日本語、分かりますか? 私は第五病院の看護婦で・・・」
スミレはゆっくり、はっきりと話すが、途中で遮られる。
『人の町で威張ってんじゃねぇ! さっさと帰れ! でねぇと・・・』
男は何事か怒鳴ると、持っていた荒縄を振り上げた。
その瞬間、スミレは『避けない』という選択をした。避けること自体は簡単だ。でもそれでは、脅せば逃げると思われてしまう。それよりは殴られてしまった方がいい。女を殴ったという引け目を感じさせることで、会話のきっかけが掴めるかもしれない。
スミレは両手を降ろしたまま、その男を見詰める。
男は荒縄を振り上げたまま、動けなくなる。
その時、開けっ放しのドアから、もう一人の男が駆け寄ってくる。
『兄さん、何やってるの!?』
『志明(ジーミン)、こいつが・・・』
二人は何事か交わしてから、後から出てきた方がスミレに向き直る。
「私ヲ探シテイルノデスカ?」
なまりはきついが、はっきりとした日本語だった。
「歯科医師の張先生ですか?」
「ソウデス」
「よかった。私は第五病院から来ました。張先生に急患をお願いしたいんです」
そうしてスミレは患者の様子を事細かく説明する。張さんの表情が真剣なものに変わっていった。
「・・・分カリマシタ。私ハ自転車デ行クノデ、道ヲ教エテクダサイ」
「大丈夫です。後ろから付いて行きます」
張さんは『本気か?』というような顔をするが、立派な診察バッグを肩から下げて、古い自転車で走り出すと、スミレはぴったりと付いて走った。
しばらくすると、何か思うところがあったのだろう、張さんが尋ねてくる。
「軍ノ病院デ私ガ処置シテモイイノデスカ?」
「うちの軍医は歯科医師を呼んで来いとしか言いませんでしたけど、日本人と漢人とでは顎の作りが違うものですか?」
「・・・イヤ、何モ違イマセン。 ・・・急ギマス」
「お願いします」
そして30分ほどが経った頃、スミレが病院の正門をくぐった。
「患者は!?」
スミレが叫ぶと、新井が玄関先で手を振って出迎える。
「もうほとんど意識がない。私が気管切開しようとしていたところだ」
少し遅れて張さんが入ってきて、自転車を止めると汗を拭きながら玄関へと走る。
「ア、 張 志明(チャン・ジーミン)デス。新京ノ大学、出マシタ」
「張先生、お疲れ様です。私は新井と申します。こちらの患者をお願いしたいのですが」
そう言って新井は張さんを手術室に案内する。
患者は担架から手術台に移され、首元に消毒液が塗りたくられていた。張は患者の顎から喉元にかけての腫れを撫でるように触る。患者がかすかなうめき声を漏らすが、もう反応は薄い。
「・・・口腔底蜂窩織炎デス。切開シテ排膿スル。マダ大丈夫。道具モアル」
張が手術台の横に並べられた器具を確認して言う。
張とスミレが手を洗って手術衣を着ている間に、新井が麻酔薬を注射する。
「五番」
張が言うと、スミレがすかさず小さな丸みを帯びた刃のメスを手渡す。
張は顎の下にメスを当てると、皮膚、皮下組織、筋膜と次々に切り開いていく。そしてそこからは切るのではなく、かき分けるように奥を探る。
「膿、アッタ」
張がそう言うと、プツンと膜が破れる音がして、黄白色の膿が吹き出した。強烈な腐敗臭が室内に充満するが、それに怯むものは一人もいない。スミレが素早く切開口にガーゼを差し入れる。
新井は安心したような顔をするが、張の顔はまだ真剣だ。
「マダ膿アル。内側モ切開スル」
張は手袋を替えながら言う。
「口、開ケル。舌、押サエル」
スミレがゆっくりと患者の口を開ける。さっきの排膿で負荷が減り、だいぶ開くようになっている。指を差し入れ、腫れあがった舌を横に押さえつけると、張が覗き込む。
張は奥歯の歯肉の膨隆を見つけると、素早くメスを刺し入れた。
またも大量の膿があふれ出す。新井は膿が喉へと流れ落ちないように、手動の吸引器で膿を吸い取る。
膿が出て行くにつれて、患者の呼吸音が軽くなっていくのが分かった。
やがて張の顔から緊張が消えるのを見て、排膿処置が無事終わったのだと分かった。
「ありがとう。張先生のおかげです」
手術衣を脱いだ張に新井が握手を求めると、張は頭を下げ、両手で新井の手を取る。
「オ役ニ立テテ光栄デス」
その張の言葉は、どこか定型文じみたものを感じさせた。
新井は張の手を両手で包み、張の目を見て、そして周りの看護婦や衛生兵たちにも聞こえるように言う。<
「いや、こちらこそ、勉強になりました。人を助ける行為に肩書や出自など関係ない。私は張先生を尊敬します。ありがとうございました」
張はわずかに目を見開き、新井の顔をまじまじと見た。
そして無言のまま、もう一度、だが今度はやや自然に頭を下げた。
「よし、患者をどこか外科のベッドに移してくれ。排膿が終わるまで、呼吸と感染症に注意」
それだけ指示すると、新井は張を伴って医局のある二階へと上がって行った。
だが、医者が「終わり」と言ってもそれはまだ終わりではない。一段落したに過ぎない。むしろこれからが看護婦の主戦場だ。
感染症、栄養失調、気分の落ち込みなど「敵」は多い。どれか一つでも見逃せば、患者の笑顔が「救えたはずの命」になってしまう。
スミレはそう気持ちを引き締めた。
「じゃあ、張さんを連れてきたのはスミレだったんだ」
シゲミが感心したように言う。
歯科医としての腕で兵の命を救った張さんは、その後、確かな腕を目の当たりにしている新井さんの仲介で、第五病院の常勤歯科医になった。肩書は嘱託歯科医だが、立派な病院スタッフの一員だ。
張さんからの条件は「日本人以外の患者も、差別なく受け入れること」だったらしい。その条件に反発する人間もいたらしいが、結局は『念願の歯科の常設』をとったのだろう。
「張さんって誰にも丁寧だし、いい人だよね」
「あれ、シゲミって、ああいう人がタイプ?」
「え、ち、違うよ・・・ ただ優しい人だなって思っただけで・・・」
スミレがからかうと、シゲミは赤くなりながら否定する。確かにシゲミにとっては、いかにも軍人ですって感じの強面の軍医よりは接しやすいのかもしれない。
そしてそれは他の看護婦たちにも言えることで、来たばかりのころはよそよそしかったが、人間性が分かるとすぐに受け入れられた感じだ。
「それよりもシゲミの武勇伝も聞かせてよ。シゲミの異常分娩救出事件」
「あ、私もそれ聞きたい。全部ひとりでやったっていうじゃない」
スミレが変なタイトルをつけて言うが、それには私も興味がある。一緒にいた看護婦からある程度の話は聞いたが、やっぱりシゲミ本人から聞きたい。
「わ、私のはそんな武勇伝とかじゃなくて・・・」
「いいから、いいから。何があったのよ」
第五病院では以前から軍の方針で、現地住民の患者の受け入れや、周辺地域への医療巡回を行っていたらしい。
それらは一時中断していたが、木内婦長の赴任と共に大々的に再開させたのだった。
だが、それまでの第五病院の評判は、そう簡単に覆るものではない。
現に、病院の正門に『現地住民の診療を受け付けます』という旨の看板を日本語と中国語で掲げているにもかかわらず、敷地内に現地住民の姿はほとんどなかった。現地雇いの通訳の少女たちは、見よう見まねで包帯の洗濯を手伝っていることが多かった。
歯科医の張さんが疑ったように、こちらが現地住民を拒絶する雰囲気を出していたのもあっただろうが、そもそも現地住民から信用されていないのだ。
もちろん、シゲミのいる巡回班も、その集落、三合屯(サンハートゥン)で同様の反応を受けた。事前に十分な根回しを行っていたにもかかわらず、だ。
その日の午前に、シゲミは通訳の少女を伴って、村のまとめ役ともいえる保甲長の家を訪れた。午後から衛生指導を行いたいので村の広場を使わせてほしい、できれば人を集めてほしいとお願いするためだ。
当然、『日本人が何しに来た』という態度だったが、高岡副婦長から交渉用資材として預かった桃缶二つの風呂敷包みを手渡すと、途端に態度を軟化させた。さらに木内婦長からもらった箱入りのキャラメルを、「お子さんがいると聞いたので・・・」と追加で渡す。それによって「広場は使ってもいい。人も声をかけてやる」という言葉をもらったのだ。シゲミが片言の中国語で何とか伝えようとする誠実さも、いくらかは効果があったのかもしれない。
シゲミは手応えを感じ、喜び勇んでトラックへと戻り、村の広場で衛生指導の準備を始める。第五臨時病院と書いてある古いテントを立てて、その支柱に『手洗いは大切』『ハエは病気の元』などと中国語で書かれたビラを貼り付けていく。長机の上には手洗いの方法を説明したチラシと、無料配布する腹痛の薬の小袋が沢山。テントの前には椅子代わりに藁束を並べておく。身だしなみを整えたシゲミたち看護婦5人とおしゃれ着を着た通訳の少女が長机の前に並び、トラックの運転手でもある衛生兵は威圧感を与えない程度に、通りに面したところで警備に立つ。準備は万全だ。
やがて昼過ぎになると、村人が次々とやって来る。子ども連れの母親も多い。そして最後に保甲長がやってきて、『始めてくれ』と合図を出す。
「今日は皆さんに病気の元をやっつける方法を説明したいと思います!」
シゲミは精一杯の大声を張り上げる。その横では通訳の少女も大声を張り上げる。
いろいろな病気はバイキンが原因であること。そのバイキンは口から入ってくること。手に付いたバイキンを食べてしまわないように、手を洗わなければならないということ。
シゲミはとにかく分かりやすさ第一で説明する。他の看護婦も絵を出したり身振り手振りで手伝ってくれる。シゲミが片言の中国語でわざと間違え、通訳の少女に訂正されるという小ネタを挟んで、笑いを誘ったりもした。
衛生指導は大成功と言えるだろう。
「手洗いの方法を説明した紙を用意しました。炊事場などに張ってください。あと、これは腹痛の薬です。これを飲んでもよくならないときは第五病院まで来てください」
そう結んで、広場に来た人に手洗いの紙と薬の小袋とを渡していく。看護婦たちも「ありがとうございました」と並んで村人を見送った。
「ここの人たちは話を聞いてくれてよかったですね」「小野さんのネタも受けてたし」「俺の仲間が行ったところは暴動寸前で話もできなかったとか言ってたからなぁ」などと話しながら会場の撤収作業に入る。
そしてシゲミは藁束をトラックに積み込もうとした時に、トラックの横の草むらに小さな白い包みが落ちているのを見つけた。
「あ・・・」
それは今配ったばかりの腹痛の薬だった。
注意してみれば、広場から家々へと向かう通りの道端に、いくつも投げ捨ててあった。
その瞬間に、今までの温かい雰囲気は何だったのか、と思ってしまった。手洗い指導で笑っていたのも、薬を受け取って喜んでいたのも、みんな演技だったのか。
シゲミの様子を見に来た看護婦が、同じものを目にしてため息をつく。
「そうだよね。こんな薬か毒かも分からないものなんてもらわないよね」と言いながら紙包みを拾い集める姿を見て、シゲミは涙があふれそうになる。
衛生兵も拾い集めながら「チラシのほうは落ちてねぇな」と言うと、「紙は使い道がありますからね・・・」と通訳の少女が言う。
シゲミは自分が恥ずかしくなった。村のみんなに衛生指導をした、分かってもらえた、と喜んでいたが、それらは全て自己満足でしかなかったのだ。
「そういうこともありますよ、少尉殿。暴動が起きなかっただけ吉ってもんです」
俯くシゲミに衛生兵がそう声をかけてくれる。
「そうですね・・・」
シゲミは力なく返し、最後の藁束を荷台に乗せると、トラックの助手席に乗り込む。
そうしてトラックは三合屯の村道をガタゴトと走っていくが、途中でシゲミが「あれ、何でしょう・・・」と声を上げる。
何の変哲もない民家だが、そこに数人の女性が慌てた様子で出入りしていたのだ。家の前では中年男性がひどく焦った様子で、道の向こうを伺っている。
衛生兵が気を利かせて民家の近くにトラックを止めると、通訳の少女が降りて行って様子を聞いてくれる。
「もうすぐ赤ちゃんが生まれそうだけど、産婆さんがまだ来ないそうです」
みんなは「なんだ、そうか」という雰囲気になるが、シゲミはそこに違和感を覚えた。
このあたりの村ではそれぞれの家での出産が普通だ。赤ちゃんを取り上げたことがある人もいるはずなのに、どうして焦って産婆さんを待っているのか。『異常分娩』という言葉が脳裏をよぎる。道具のそろった日本でも危険なのに、この辺りでは母子ともに致命的だろう。
シゲミはトラックを降りて行って、「産婆さんはいつ来るのですか?」と家の前に立つ男に尋ねた。それを通訳の少女が翻訳してくれる。
だが、それに対してその男はいきなり怒鳴り散らしてきた。それだけ焦っているのだろう。あまりの剣幕に通訳の少女が泣き出してしまう。それを聞きつけて、今度はトラックから衛生兵が降りてくる。
まずい、悪循環だ。
「この子と一緒にトラックで待ってて。私は大丈夫だから」
慌ててそう言うと、通訳の少女と一緒にトラックに戻ってもらう。
さっきの男の言葉はよく聞き取れなかったが、「日本人は手を出すな」というようなことを言ったようだ。
つまり、「危険な状態にある」という判断は間違っていない。
『私はシゲミといいます』『第五病院の看護婦です』と片言の中国語で説明するが、男はなおも早口で怒鳴りつけてくる。ところどころに『日本人』『帰れ』『毒』という言葉が聞こえる。このあたりでの日本人のイメージを考えれば、どんなことを言われているのかは想像がつく。
だがシゲミは説得を諦めなかった。男のことは怖いと思ったが、すぐそこで母子が死にかけているかと思うと、そちらのほうがずっと怖かった。
『妊婦さん、見せてください』『赤ちゃん、助けます』
その言葉を何度も繰り返していると、家の戸が開いて、女の人が出てきた。妊婦の様子を見に来ていた家族だろうか。
その人が男の人と何か話すと、男の人は渋々と言った様子で、シゲミを家に入れてくれた。
家の中は薄暗く、土間には血に汚れた藁が落ちていた。お世辞にも衛生状態は良くない。
そして奥の部屋に通されたとき、シゲミは目を見張った。
真ん中に寝かされた妊婦はもう血の気がなく、意識も朦朧としている。腰布はじわじわとした出血によって、赤黒く染まっていた。周りの女性はどうすることもできず心配そうに見守るばかり。老婆は神仏に祈っていた。そこにある道具は、熱湯に浸されている糸と、古いハサミだけだ。
『手を洗わせてください』と言うと家の裏手にある水瓶に案内される。当然、さっき配ったチラシは貼っていない。
シゲミは何度も何度も手を洗うと、『妊婦さん、触ります』と言って、触診する。明らかな骨盤位、つまり逆子だ。
妊婦を自分の膝を抱えるような態勢にすると、その顔の横で大きく息をして見せ、『大きく、息をする』と、その息に合わせるように促す。
やがて妊婦の力みが安定してくると、産道から赤ちゃんのお尻がゆっくりと出てくる。シゲミはそれを優しく支え、赤ちゃんの股関節や腰の位置を正しく戻してやる。幸い、足は絡んでいない。
そして赤ちゃんの肩に差し掛かる。そっと赤ちゃんの背中に手を回し、ゆっくりと自然な回旋を助けてやる。
次は頭だ。大きく息をして見せながら、妊婦に呼吸を止めないように促す。だがその首には臍帯が巻き付いているのが見えた。もう時間の勝負だ。
ゆっくりと赤ちゃんの頭を引き出すと、薄暗い中、温かい血でぬめる臍帯を慎重にほどく。そして赤ちゃんをそばの女性に預け、熱いのを我慢して糸を引き上げて臍帯の二か所を縛り、その中間をろうそくの火で炙ったハサミで切断する。
シゲミが赤ちゃんを抱え上げ、背中を軽くたたくと、ようやく小さな産声が上がった。
だが、その部屋の女性たちにほっとした顔が見えたのも束の間だった。
シゲミが用意されていた古布で赤ちゃんをくるむと、すぐにそれをそばにいた女性が奪うように取り上げる。老婆は『いつまでいるんだ。早く出て行け』というようなことを叫ぶ。シゲミは持っていた古布で血に濡れた手を拭って部屋を出る。そこでは妊婦の夫と思われる男にも睨まれた。
無言のまま、頭を下げて家を出るが、最後に思い出したことがあった。
『赤ちゃんが熱を出したら、おでこじゃなくて首筋を・・・』
何とか中国語で伝えようとするが、言い終わる前に、家の戸が乱暴に閉められた。
シゲミが道端で待っていたトラックにとぼとぼと戻ると、看護婦が「どうだった?」と聞いてくる。
「あ、うん、逆子だったけど、何とかなった。大丈夫だと思う。産婆さんも後で来るだろうし」
シゲミは無理に笑顔を作って答える。
「え~、小野さん、すご~い」「お疲れ様です。じゃあ、出発しますよ」
シゲミがトラックの助手席に戻ると、再びガタゴトと動き出す。
窓の外を眺めながら、シゲミは考えていた。自分は決して感謝されようとしてやったわけではない。でも自分の善意は届いていなかった。自分はなんて無力なのだろう、と。
「・・・そっか、それで元気なかったんだ」
私が言うと、シゲミは驚いて顔を上げる。
「え、気付いてたの?」
「まぁ、おなかすいてる顔じゃないなとは思ってたけどね」とスミレも言う。
「でも仕方ないんじゃない? その人たちにも長い歴史があるわけなんだから」
私は努めて軽く言う。これだけ根強く現地の住民から毛嫌いされているのだ。満州国が自主独立した理想国家だなどとは信じていない。
「でもシゲミの取り上げたその子が大きくなったら、きっと『日本人の中にもいい人はいる』って言ってくれるよ」
スミレに言われて、シゲミはにっこりとほほ笑む。
「そうだね。それまで頑張らないと」
そうして私たちは水汲みの仕事を終え、腰を叩きながらバケツを片付ける。ドラム缶のほうはすぐに雑務係さんが火を入れて沸かしてくれる。
食堂に行くと、包帯の洗濯をしていた人たちと、院内の清掃をしていた人たちも集まってくる。
今日のメニューは麦飯とみそ汁の汁だけとたくあん、ほうじ茶。みそ汁の具は患者のほうに優先的に回されるから、具なしにももう慣れてしまった。古参の衛生兵が新人に「麦飯のほうが体にいいんだぞ」と叱っているのが聞こえてくる。理屈は分かるが、私は柔らかい白米のほうが好きだ。
食堂ではゆっくりする暇もなく、食事を終えた人から次の仕事に行く。入院患者の対応であれば病室を回っているだけで一日が終わってしまうし、外来患者が運び込まれなくても、器材の洗浄、消毒、衣類や寝具の洗濯、繕い物、患者用の配膳、食器洗いなど、やることはいつも山積みだ。
と、その時、病院の正門のほうが急に騒がしくなる。早速患者が運ばれてきたのか。私たちはぬるいほうじ茶を飲み干すと、席を立った。
だが診察室に行ってみると、まだ患者は搬送されていない。何をやっているのかと窓から覗いてみると、正門のところで何かもめているようだ。後から衛生兵も駆け付けて行く。
「ちょっと、何かあったの?」
スミレが衛生兵の一人を捕まえて尋ねる。
「あ? あ、いえ、失礼しました。どうやら支那人が何人か押しかけて騒いでいるようです。『シゲミを出せ』『シゲミはどこだ』などと言って。すぐに追い払いますので、ご安心を」
「え、わ、わたし・・・?」
「らしいわね・・・」
シゲミは少し考えた後、正門に向かおうとする。
「ちょっと、止めときなって。何があるか分かんないんだから隠れてたほうがいいって」
私はそう止めるが、シゲミは「このままでは病院の迷惑になるから」と言って、さっさと行ってしまう。
仕方なく付いていくと、正門のところには三人のたくましい男が、衛生兵と一触即発の状態だった。横にある荷車には野菜が山積みになっているから、農作業の帰りだろうか。
「あの、私が小野シゲミです」
シゲミが三人の男たちに震える声で言うと、男たちはじろりとシゲミのことをねめまわす。
「三合屯ニ来タ『シゲミ』カ」
リーダー格の男が固い日本語で言う。
「はい、そうです」
三合屯と言えば、シゲミが分娩介助をした、あの村だ。その後、何か問題が起きたのだろうか。
だが男たちの態度は、シゲミを前にして一変した。
「俺の弟が馬鹿な真似をしてすまなかった。大切な嫁と子どもを助けてもらいながら、シゲミやこの病院のメンツを潰してしまった」
後から恐る恐る出てきた通訳の少女が、そう翻訳してくれる。よく見れば三人の顔はよく似ていて、一番後ろの男は申し訳なさそうに小さくなっている。
「村の連中にもよく言っておいた。お前たちは三合屯を無礼者の村にしたいのかと。お前からも謝れ」
そう言って、長男と思しき男は小さくなっていた男を押し出す。
「・・・あの時はすまなかった。嫁からも叱られた。相手が誰であっても、礼には礼で返すということを忘れていた。本当にすまなかった」
「あ、え、そんなわざわざ・・・」
強面の男たちに謝られて、シゲミはどぎまぎしていた。
「これは謝罪の品だ。二人の命の礼としては少ないが、受け取ってほしい」
そう言うと男たちは野菜に掛けられていたムシロを地面に敷くと、そこに野菜を降ろしていく。そして最後に男たちは日本式に頭を下げて帰って行った。
「えと・・・ これ、どうしよう・・・」
野菜の山を見て、シゲミが戸惑ったように言う。
「とりあえず、食糧庫に運んでもらわないとだね」
「でもよかったね。あの人たちなら、『日本人の中にもいい人はいる』って言ってくれるよ」
「うん」
シゲミは満面の笑みで応えた。
◇◇◇◇◇
「なるほど、そのような現地の方との軋轢、さまざまな『負債』がある中で医療活動をされていたわけですね・・・」
前任者の戦中における非人道的行為、満州国建国から続く差別問題、それらに端を発する現地の人々からの強い不信感。石塚さんたちは医療の提供と共に、それらにも向き合っていかねばならなかったのだと思うと、その意志の強さに改めて尊敬の念を抱く。
「石塚さんの訪れた黄牛屯とは、その後交流はありましたか?」
「私自身はありませんでしたが、木内婦長は何度も訪れていたようです。現地の人との友好は成立可能だと信じて疑わなかったんですよね。その姿に私も励まされました」
確かに、謝罪によって表面上は許された村に、真の友好関係を築こうと足繫く通う様子からは、木内婦長の信念が感じられる。
「スミレさんが呼びに行った張さんという歯科医師さんはそれからも病院で活躍されたのでしょうか?」
「はい。もともと第五病院は地域の中核病院と言う立ち位置にあったので、歯科医師の存在は周辺からも期待されていましたしね」
「当時の歯科治療と言うと、どういったものだったのでしょうか?」
「顎部の手術や排膿などもしますが、基本はそうなる前に適切に抜歯することですね」
「えぇ・・・」
私はその光景を想像して、顔をしかめてしまう。
「麻酔があればいいですけど、物資不足ですから、ない時もあります。そんな時は相当痛いですよ。でも、『どうせ痛い思いをするのならかわいい子にやってもらいたい』とスミレはよく患者さんから指名されていましたね。一思いに抜くので、スミレがやるとすぐ終わりますから」
「そういうのでも人気が出たりするものなんですね」
「でもスミレはお守りとして熊の牙を持っていたでしょう? そのことが知られるようになると『熊の牙を抜歯した女』とか言われるようになっちゃって。本人は困惑していましたね」
石塚さんは面白そうに笑う。
「シゲミさんが出産介助した赤ちゃんとは、その後会うことはありましたか?」
「えぇ、1か月くらい後だったと思いますが、その親子が馬車で訪ねてきて、『シゲミにあやかって名前を付けた』と言っていたんですよ。シゲミは喜んでいましたね」
「じゃあ、その三合屯とも友好的な関係になったのですね?」
「えぇ、その後は三合屯は重要な野菜の仕入れ先になっていましたね。そこからいい噂が広まったのか、病院の巡回もスムースに行くようになったような気がしていました」
「シゲミさんの活躍で産科が開設されたりということはなかったんですか?」
「産科の開設はありませんでしたね。専門知識のある看護師はいても専門知識のある医師がいませんでしたからね。ただ、シゲミはごく個人的に、村の産婆さんに知識や技術を教えていたようです」
「そのようにして、近隣の人たちを助けて友好関係を広げていったのですね」
そう尋ねると、石塚さんの表情が少し曇る。
「・・・私たちが助けられたのは、ごく一部の人たちだけです。私たち個人は無力なのです」