8月5日
◇◇8 追跡◇◇
8月5日。
ようやく日の出が近づき薄明るくなってきた頃、私たちは冷たい井戸水で、石炭の粉塵にまみれた髪や首筋を拭いていた。
「ほんと、うまくいったよな」
「私、心臓の音でバレるんじゃないかと思いました・・・」
「さすがにあそこまでやればね」
生き埋めさながらの圧迫感からの解放のせいか、笑顔も自然にあふれ出る。
日付が今日に変わったばかりの深夜、憲兵が接近しているとの合図を受けて、私たちはすぐにボイラー室へと逃げ込んだ。
そこの床は塵一つないくらいに清掃され、両開きのドアの蝶番にも十分に油が差され、音もなく開くように手入れされていた。
全員がボイラー室に入るとすぐに扉が閉められ、暗闇の中、荒い石炭の粉がドアの蝶番になすり付けられる。そして素早く防毒面を装着、黒い雨具を被って、ボイラーの横に掘られた窪みに伏せる。最後に紐を引いて、天井から吊るした袋から大量の粉塵を落下させて、私たちの上に山のように積もらせる。
憲兵たちがボイラー室のドアを開けようとすれば、蝶番になすり付けた石炭の粉が軋みを上げ、舞っていた粉塵が廊下へと流れだす。
憲兵からすれば全く手付かずの部屋のように見えたことだろう。
石炭の粉を舞わせることでランプの光を下げさせるのも狙い通りにいった。離れた場所から扉越しに差す光だけでは、天井から下がっている石炭袋や仕掛けのひもは見えない位置にある。
一見、手入れされていないドア。大量に溢れ出す粉塵と悪臭。足跡一つない粉塵の山。明かりを近づけられない環境。そして、女がそんな不潔なところに潜むわけはないという思い込み。
木内婦長の幾重もの策は、見事に私たちの存在を覆い隠したのだった。
私たちの足元には粉塵によって真っ黒になった防毒面がある。野戦病院の基本的な備品で、ずっと使われることも更新されることもなく放置されていたものだ。
「でも防毒面のフィルターが破れてなくて、ほんとによかった」
フィルターのカバーを外してみると、細かな粉塵がこぼれ落ち、フィルターが完全に詰まる寸前だったことが分かる。
「でもこれでみんな避難したことはバレたわけだし、軍がどう動くか、だな」
「手紙で私たちの立場が理解されればいいけど・・・」
「軍も統制とれなくてそれどころじゃないだろうし、見逃されるのを期待、かな」
「とにかく、もう時間との勝負。出発の準備しなきゃ」
私たちはボイラー室に隠しておいた缶の中から乾パンを回収したり、水筒に飲用水を詰めたりした。
吉川さんは倉庫から久しぶりにサイドカー付きのバイクを引っ張り出している。
「予備のガソリン缶があったと思って油断したっすわ。灯油で嵩増しされてるっすね。まぁ、動かないわけじゃないっすけど」と愚痴っている。ガソリンの混ぜ物まで分かってしまうのか、と感心する。
木内婦長は「交渉に使用してください」と、一番中国語ができるシゲミに銀元の入った袋を渡していた。
そうして準備が済むと、私たちは病院の正門前に並んぶ。
みんなが見守る中で、木内婦長が『北満 第五臨時病院』と墨書された看板を外し、塀の裏に立てかけた。
最後に病院の裏手に見えるライラックに向かって、みんなで手を合わせた。私は心の中で『ここに置いていくことを許してください』と謝罪した。
木内婦長は合掌を解くと、帽子を取ってこちらに向き直った。
「今まで、本当にご苦労様。これからは避難隊に合流し、副婦長の指揮下に入ってください」
「はい」
私たちはその短い激励の言葉に、敬礼で応える。
私のポケットの中には何度も確認した避難経路の地図とその日程表が入っている。
「気を付けて行くっすよ」と吉川さんも手を振ってくれる。
「お二人もどうぞご無事で」と再度敬礼をすると、避難先の村に向かって歩きだす。私たちはみんな、意図的に振り返らなかった。背後ではバイクのエンジン音がして、それが遠ざかっていくのが聞こえた。
目の前の赤茶けた土の道は、緩やかな起伏の続く平原に伸びている。その道の左右には収穫を待つトウモロコシとヒマワリ畑が広がっている。
私たち6人は、所々に荷馬車の跡が残された道を歩いていく。
最初こそ、遠足のようにわざと陽気に振舞ってみたりもしたが、すぐに口数も少なくなってしまう。
軍の捜索の他にも、野盗や暴徒と化した他の避難民や過酷な自然環境、精神的な疲労など、避難隊への心配は尽きない。自分たちが体調を崩せば何にもならないとは分かっているが、それでも移動は早足になりがちだった。
それに加え、私にはもう一つの心配事があった。木内婦長と吉川さんのことだ。
二人は私にだけ、ソ連国境へ向かう理由を「松島大佐の暴挙を止めるため」と説明した。その『暴挙』とは何なのかは言わなかったが、もう引き返せない覚悟の言葉であることは確かだ。
私は松島大佐には一度しかあったことはないし、その時も、わずかに言葉を交わしただけだった。だが、それでも松島大佐が底の知れない人物だということは十分に分かった。
果たして向こうでは何が起きているのか。いくら考えても答えは出ない。
そもそも自分にはそんなところに行く手段がない上に、自分一人行ってどうにかなるものとも思えない。
今は自分ができることを、予定通りに進めるしかない。
昼近くには、避難隊が最初の宿泊地にした村に辿り着く。今日が五日だから三日前のことだ。その時の様子は、互いに労わり合いながらの行軍で、笑い声も聞こえていたと聞き、一安心する。
私たちは村の小川で汗を拭かせてもらい、乾パンと水の昼食と休憩をして、また歩き出す。
雲一つない焼け付く日差しの中、休憩できる木陰も多くはない。意識的にペースを落として歩く。首に巻いた濡らした手拭いが乾くのを休憩の目安にした。
そして夕方前に、予定通りに村に到着する。この村ではすでに避難が進んでいたが、まだ残っている男性もいて、村の畑でまだ背の低いトウモロコシを刈り取っていた。
すぐに第五病院の看護婦だと気付き、『みんな行ったと思ってたけど、まだいたのか』と言われ、村に迎え入れてもらえる。
馬小屋の隅でいいから泊めてほしい、と頼むと『もう何も残っていないが、家に泊まったらいい。馬小屋よりはいいだろう』と言ってくれる。
この男性も明日には避難するつもりだという。トウモロコシを刈り取っていたのは食用ではなく、残していく家畜のためだった。
私たちはまだ時間も早いので、男性の刈り取ったトウモロコシを馬小屋に運ぶ手伝いをした。男性は刈り取りに専念し、それを私たちが六人がかりで馬小屋に運び込む。作業はあっという間に終わり、『ご苦労さん。後は家の方で休んでてくれ』ということになる。
その馬小屋には背の低いがっしりした馬が一頭と、背の高いほっそりした馬が二頭いた。
「これって、種類違うの? 子ども?」とシゲミが尋ねると、「小さいほうが力持ちの引馬、大きいほうは足の速い乗用馬」とスミレが教えていた。東北のマタギの村出身というだけあって、馬にも慣れているらしい。
スミレは乗用馬の方をペタペタと触りながら、いい馬だな、などと呟いていた。
「ミチヨ、馬って乗ったことある?」
「ううん。小さい頃、近所にはいたけど乗ったことはないな」
スミレの問いに、何のことかと思いながら答える。
「ふ~ん・・・ シゲミ、ちょっと」
そう言って、今度はシゲミを連れて、収穫の後片付けをしている男性の方に向かう。
しばらく家の前庭で休んでいると、スミレとシゲミが、男性と一緒に戻って来る。
「ミチヨ、乗用馬のほう、譲ってくれるって」
開口一番にスミレが言う。
「はぁ? 馬なんて乗れないって言ったでしょ。それに人数分いないし」
「二頭いれば、あたしとシゲミ、ミチヨで引き返すには十分でしょ」
「え?」
ここから引き返す? どうして? と、私は意表を突かれる。
だがそこにスミレが言葉を重ねて来る。
「木内婦長と吉川さんが国境へ向かったのって、ただの偵察とかじゃないんだろ? 二人だけで行かせて良かったのか? 後悔してるんじゃないのか?」
「どうして・・・」
「ずっと上の空だったもん、分かるよ。もう5年も一緒にいるんだよ」
シゲミもそう言って笑う。
「ミチヨの考えることは単純だからな。『二人のことが心配。でも私に何ができるんだろう。今は目の前の責務を果たさなきゃ』ってとこでしょ? でも、三人いればできることもあるんじゃない?」
「私も婦長と吉川さんのことが心配。だから、三人で戻らない?」
そう言われ、他の三人を見ると、「こっちは任せといて。ちゃんと副婦長には説明しとくから」と笑顔で返される。
いつの間にか話はまとまっているようだ。そこまで心配してくれていたのかと思うと、心強いような、自分が情けなくなるような気持だった。
だが、そこまで言われれば、こちらも決心がつく。
「分かった。明日の朝、引き返そう。 ・・・でも私、乗れるかな」
「ミチヨならすぐだよ。初心者用の馬がいるんだってさ」
スミレがそう言うと、男性が馬小屋から灰白色の乗用馬を連れて来る。
『小白(シャオバイ)だ。一番優しくて一番賢い』
その大きな目が、私を見詰めている気がした。
「小白・・・」
名前を呼びながら、温かな首筋に触れると、返事をするように大きく首を上下に動かした。
「とりあえず鞍もあるから乗ってみな」
それからスミレによる乗馬練習は日没まで続いた。一番賢いと言われるだけあって、こちらの意図を読み取ってくれているようだった。
男性は明日には残った荷物をまとめて引馬で避難するつもりだったが、乗用馬の方はどうしようかと迷っていたところだったらしい。
そして夜は家の中で眠ることができた。板場に薄い毛布を敷いただけなので寝心地は病院のベッドの下と変わらなかったが、緊張感がないだけでずっと体も心も休まった。
翌朝には、過分な銀元をもらったから、と塩漬けの魚を分けてくれた。
スミレに手伝ってもらって小白に乗り、少し足を締めると、意図したとおりに小白がゆっくり歩いてくれる。
「さっすがミチヨ。もう様になってるね」「うん、かっこいい」と二人は褒めてくれるが、多分これは小白だからだ。私が乗っているんじゃなくて、小白が乗せてくれているんだ。
スミレは馬小屋から引いてきた大栗(ダーリー)という大柄なほうの乗用馬に鞍を付け、その後ろに折り畳んだ薄手の毛布を縛り付ける。
スミレがひらりと大栗に跨り、シゲミを引っ張り上げて、毛布の上に跨らせる。シゲミは「ひぃ・・・」と悲鳴を上げていたが、スミレはうまく手綱を取って、大栗を動かさなかった。大栗に家の前庭を歩かせてみるが、シゲミは目を閉じて、必死の形相でスミレにしがみ付いていた。少し跳ねさせるだけで「ひぃ・・」「ふぁ・・・」と賑やかに悲鳴を上げる。だがそれでスミレは行けると判断したらしい。
見送りに出てくれた男性にお礼を言うと、「行くよ」とスミレが大栗を走らせる。小白の方は、私が何かする前に大栗について走り始める。
私は何もせずに跨っているだけでいいので、『視線が高くて風が気持ちいい』などと思っていたが、下から突き上げるような衝撃に、すぐにお尻が痛くなってくる。
前を走るスミレの様子を見て、馬の動きに合わせて体を上下させてみるが、そう簡単にはいかない。シゲミはしっかりとスミレの腰に腕を回してしがみついていて、姿勢自体は安定しているように見える。だが、風に乗って情けない悲鳴は絶えず聞こえてくる。
シゲミは本当に怖がりだ。でもシゲミがその恐怖に負けたところは一度も見たことがない。悲鳴を上げ、泣いたりすることもあるけど、足を止めることなく、ちゃんと前に進んでいく。
私も見習わなければ。そう思って、私は手綱を握り直し、スミレの動きをもう一度観察する。
「はぁ・・・」
誰からともなくため息がこぼれる。
すでに日が高く昇った中、四人の看護婦が、着の身着のままといういでたちで、道端の小さな木陰に座り込んでいる。時折、かすかに風が吹くが、熱気と砂埃しか運んでこない。
耳を澄ましても聞こえるのはセミの鳴き声だけで、道のどちらを見ても人気はなかった。
今日の朝、一緒に診療所を出たはずの軍医と衛生兵は、影も形も見えない。完全に見捨てられたと、誰もが思っていた。
そもそも避難命令だって急なものだった。いつものように村の下宿先から診療所に行ったら、急に「私物をまとめて来い」と軍医に言われたのだ。当の軍医と衛生兵はすでに私物をまとめていたし、診療所の帳簿類もいつもの場所になかった。多分、衛生兵の鞄の中に入っていたのだろう。
慌てて下宿先に戻り、私物をまとめて診療所に戻って来ると、「緊急の避難命令だ。遅れる奴は置いていくぞ」と目的地も告げられないまま、村を出たのだった。
「・・・まさか本当に置いて行かれるなんてね」
「・・・最初から足手まといは置いて、二人で逃げるつもりだったんじゃない?」
もう愚痴しか出てこない。
手元にあるのはわずかな私物と看護婦としての身分証だけ。食糧や水筒さえないのだ。土地勘のない所に置き去りにされ、しばらくは二人を探しもしたが、すぐに無駄だと悟った。
「どうする? 暑さが引いたら、どっちかに歩いてみる?」
「暗くなる前にどこかに着けるといいけど」
何となくそう言うが、もう歩く気力もなかった。
と、その時、遠くの木陰から人影が見えた。それも一人や二人ではない。人影は次々と増え、2~30人にもなる。
「何あれ・・・」
「さぁ・・・ でも軍の人みたい」
「だったら味方だよね」
「多分・・・」
そうして、近くまで来たところで声をかけてみる。
「あの、すみませんがお水をいただけませんか?」
「え、えぇ、どうぞ」と先頭にいた事務職員風の人が水筒を渡してくれる。他の事務職員や古い包帯を巻いた兵隊さんも、それぞれ水筒を差し出してくれる。ようやく人心地着いた気分だった。丁寧にお礼を言って水筒を返す。
「看護婦さんのようですけど、誰か待っているんですか?」とその人が聞いてくる。
「いえ、私たちは第267診療所の所属なんですが、道に迷っちゃって・・・ 軍医さんたちは先にどこか行っちゃうし・・・ 皆さんは?」
「私たちは第五病院の避難隊です。今日は信濃村までの予定です。第一目標はその先の泰来ですけど」
信濃村というのは聞いたことがなかったし、泰来というのは聞いたことはあったが、どのくらいかかるかは分からなかった。でも、第五病院というのは聞いたことがあった。チチハル方面の基幹病院で、エリート集団がいると、向こうで手当てを受けたことのある軍人さんが言っていた。
これこそ天の助けだと思った。
「あの、私たちもその避難隊に加えてもらえませんか」
『食糧も何もありませんが』という前に、その人は「えぇ、いいですよ」とあっさりと頷く。
「避難を希望する人は誰であっても受け入れるという方針なんです。私たちは先遣隊なので先に行きますが、本隊はあと2~3時間もすれば、通るはずです。そこにいる高岡副婦長に事情を話して合流してください」
つまり、もう少しここで待てということだ。
一度見捨てられているせいで、また今度も、と警戒してしまう。そうして顔を見合わせていると、その心境が伝わったのだろう。
「本隊の方には患者さんが200人以上います。私たちと行くよりも、そちらの患者さんの方を助けてもらえませんか」
「・・・分かりました。ここでもう少し待つことにします。お水、ありがとうございました」
「はい。信濃村で準備を整えていますから、そこでまたお会いしましょう」
彼女たちは、先遣隊だという20人ほどを送り出し、再び木陰に座り込む。
そうして、3時間後。騙されたんじゃないかと不安に思い出したころ、遠くに沢山の人影が現れた。
軍服姿の患者が中心で、その間を野戦服姿の看護婦や衛生兵が動き回っている。そして、他にも地元の民間人と思しき人たちも混ざっている。
その看護婦に「避難隊に加えてほしい」と言うと、慣れたように、後ろの方に人を呼びに行く。
やって来たのはやけに目つきの鋭い看護婦だった。他の看護婦同様に分厚い記録帳を持っていたので、健康管理の途中だったのだろうか。
「責任者の高岡だ。避難の意志があれば、誰であろうと歓迎する。ここでは元の所属や立場は関係ない。できることをやってもらうぞ。看護婦であれば看護婦として働いてもらう」
見れば民間人の格好の人も、軍服姿の患者の横で声を掛けながら歩いている。荷物を載せた荷車を衛生兵と一緒に引いているのも民間人だった。
自分たちは見捨てられた被害者なのだと思っていたが、これは負けていられない。
「はい、もちろんです」
彼女たちは自分の職務を全うするため、患者さんたちの中に入って行った。
私たちが馬で村を出てから、約4時間。さすがに馬は速い。
スミレは乗馬初心者の私や、後ろにしがみ付いているシゲミのために、小まめな休憩を入れてくれた。私とシゲミがへとへとになって倒れこんでいる横で、馬を水場に連れて行ったり、馬具を調整したり、乗り方のアドバイスをしたりしてくれる。
そうして休憩を挟みながらでも、お昼前にはもう二度と見ることはないと思っていた第五病院が見えてくる。昨日の今日なのに、ひどく懐かしい感じがして、視界が滲む。
スミレは速度を緩めることなく、大栗をそのまま走らせる。ここで止まってしまえば、何かしら気の迷いが生じると思ったのだろう。スミレとシゲミは病院の方をちらりと見ただけで、通り過ぎる。もちろん私も同じだ。ここからは木内婦長と吉川さんを追う道だ。
二人の目的地はソ連国境付近としか聞いていないが、ここからサイドカー付きバイクで行ける道は、軍の補給路として整備された一本しかない。あとはほとんど整備されていないデコボコ道だったり、急な山道だったりで、車幅のあるバイクには無理だろう。逆にそういった道を使って先回りできれば、二人に追いつける可能性もある。
休憩時にそう相談して、持っていた地図に破線で記されている、昔の交易路らしきものを進むことにした。
最近踏みならされた跡があるのは、向こうの村からこちら側へ避難民が通った跡だろう。道が通じている証拠にはなるが、それでも馬がすれ違えないくらい細い所もある。
途中のつり橋は馬から降りて渡る。スミレが最初に大栗を引いて行き、対岸で小白を呼ぶと、小白は手綱も取っていないのに、てくてくと歩いて行く。大栗の様子を見て、安全な道だと判断したのだろうか。一応過重制限にかからないように、私とシゲミは小白が渡り終わってから、つり橋を渡った。
そうして夕方前に辿り着いた村はすでに無人だった。家の戸は全て閉められており、逆に家畜小屋の柵は全て開け放たれていた。連れて行けない家畜を解放したのだろう。村の中では、放し飼い状態になったヤギが数頭、草を食んでいた。
スミレは大栗を近くにあった馬小屋に繋ぎ、私もその隣に小白を繋ぐ。飼葉や水がそのまま残されているのは幸いだった。
「さすがに避難済みか・・・」
「国境もすぐそこだからね」
二人は村の中を見回しながら言うが、私はそこにかすかな疑問が浮かんだ。
『誰が避難させたんだろう・・・』
木内婦長たちがこの村を通ったのは昨日のはずだ。たった一日でここまで整然と避難できるはずがない。こんな所まで都市部の噂が流れて来るとは思えないし、国境の近くとはいえ、何か見えるほど近いわけでもない。
だがそれもスミレの言葉で、すぐに霧散する。
「ミチヨも卵探して」
「卵?」
「ニワトリがいたの。まだどこかに卵産んでるかも」
そう言いながら二人は納屋の中や、母屋の床下を覗いたりしている。
確かに、避難済みの村で放置されているニワトリの卵を拾うくらいなら、泥棒にはならないだろう。
そう言い訳しながら、村の中を散策する。
納屋を見つけて中を覗くと、奥の方に座り込んでいる茶色いニワトリと目が合う。そっと近づくが逃げる様子はない。これは当たりだ。
「ごめんね~」と言いながらゆっくりと鶏のおなかの下に手を入れると、温かい卵が二つあった。それを割れないように一つずつ、上着のポケットに入れる。
村の中には未熟なプラムがいくつかなっている木もあったが、こちらは村人が避難前に全部収穫していったのだろう。
結局、収穫はニワトリの卵が四つだけだった。衛生状態を考え、固ゆでにして食べることにする。「慣れないことして大変だったでしょ」とスミレが残りの一つを譲ってくれたので、シゲミと半分に分けた。朝もらった塩漬けの魚と一緒に食べると、塩気と相まって元気が湧いてくる気がした。
「人の家に勝手に上がるのも悪いから、納屋で寝ることにする?」
私がそう提案すると、シゲミはあからさまにほっとしていた。
「何、お堅いミチヨはともかく、シゲミもそういうの気にするタイプ?」
そうスミレが茶化してくる。
「え、気にするよ。だって夜中に『そこは俺の場所だ』って言われたら嫌じゃない・・・」
「・・・いや、怖い怖い」
突然のホラー展開に、私とスミレは声をそろえた。思わず戸口の暗がりに目をやってしまう。
とにかく私たちはきれいそうな納屋の中で、藁を束ねて寝床を作る。昼はあれだけ暑かったのに、もう肌寒くなっている。薄い毛布にくるまり、ぱりぱりしたコーリャン藁に寝転ぶと、しばらくしてから熱が籠ってじんわりと暖かくなってくる。
明日には国境に辿り着けるだろうが、木内婦長たちに出会えるかは、また別の問題だ。とりあえず国境付近で探して、見つけられなかった場合は、その時にまた考えよう。
そうして、私はお尻や内腿に痛みを感じながら、眠りについた。
8月7日。
その日も木内と吉川は徒歩で国境付近の偵察を続けていたが、木内は遅れがちだった。
昨日の夜は少し夜更かししたが、それよりも今朝早くに無線で聞いた内容の衝撃の方が大きいだろう。
『8月6日午前8時過ぎ、一発の爆弾によって広島市が壊滅』
木内はすぐにそれが連合軍の新型兵器、原子爆弾だと分かった。そしてそれがもう一発あるという情報も得ている。今、世論は絶望感と報復感情が半々だろう。そこで強力なウイルス兵器が存在すると知られれば、世論は一気に継戦に傾くだろう。そうなれば更なる地獄が世界中で展開されることになる。
今、止めなければならない。
木内は焦っていた。
「婦長、今日は休んでていいっすよ。偵察くらいは一人でできるっすから」
吉川が振り返って言うが、「こんな時に休んでいられないでしょ」と返してくる。
その顔には精神的疲労と共に、わずかな罪悪感も見られた。
「こんな時だからっすよ。婦長にはいざという時に、万全でいてもらわないといけないっすからね」
「・・・分かってるわ。無理はしないようにするから」
それを聞いて、吉川は歩く速さを少し抑えるだけにする。
確かにこんな時に何もするなという方が精神的負担になるだろう。
そうしてしばらく歩くと、二階建ての建物がぽつんと立っているのが見えてくる。
「あそこにも監視がいるっすね」
物陰に潜み、双眼鏡を覗いていた吉川が呟く。
「ここから見えるだけで三人。今、中に一人入って行ったっすね」
その横で木内が古い地図を広げ、現在地を確認する。
「昔の気象観測所ね」
背後の丘から見下ろしたその施設は、中央に直径10メートル以上もあろうかという縦穴を備えたものだった。建てられた当時は白い外壁の最新研究施設だったのだろうが、今では茶色い錆に覆われた廃墟だ。
「車道もまだ使えそうだし、ここも候補にしておきましょう」
木内はそう言って、地図に鉛筆で印をつける。これで三つ目だ。
二人は5日に病院をバイクで出発してから、ずっと国境付近で、松島が新型ウイルスを散布する場所を探していた。
今年二月のヤルタ会談の内容から、ソ連軍の満洲侵攻開始は8月9日の0時と見て間違いない。だとすれば、松島の新型ウイルス散布は8日の夕方から夜間にかけてとなる。
それと、松島の執務室に掛けられていた作戦地図、ウイルスが空気感染するという発言、ソ連軍の予想侵攻経路、現地の気象条件と地理的条件を重ね合わせた結果、絞り込まれたのが三か所だった。
松島に誘い出されたようなものだが、今はそれに乗るしかない。
一つ目が陸軍の旧無線中継所で、大きな鉄塔と給水塔があり、高台にあることからも、散布、観測が容易な場所だ。給水塔の下には何かの装置が置かれ、警備の人間も常駐していた。
二つ目が国境近くの塹壕跡だ。こちらは半地下の施設で、人影は見えないが、つい最近にトラックが出入りしていた痕跡が残っていた。午後から夜間にかけてはソ連側に向かって風が吹くため、地下から散布するのには好条件となる。
そして三つ目が、今見つけた気象観測所だ。建物の中央の縦穴が風洞実験施設だとすれば、そこから風に乗せてウイルスを散布することもできるだろう。
「決行は明日の夕方以降ってことっすから、一旦戻るっすか? 松島も貴重なウイルスを設備の整っていない前線に置いておいたりしないっしょ」
「そうね。本番は明日、大佐が現れてからね」
警備の兵もいる以上、迂闊に手を出すこともできない。せっかく候補地を三か所にまで絞ったのに、警戒されて全く別のところで散布されては防ぎようがなくなってしまう。
そうして二人は周囲の地形を確認して立ち去ろうとしたが、吉川がふと何かを見つけたように斜面の下に目をやる。
「ちょっと先に戻ってもらってていいっすか? いいもの見つけたんで」
そうして吉川は、丘の急斜面を降りて行こうとする。いつも通りの軽い口調だが、吉川は遊びや冗談でこんなことをする人間ではない。吉川による単独行動が最良と判断してのことだろう。
木内は「見つからないようにだけ、注意してくださいね」と言って、ここ数日の拠点にしている集落跡に戻る。
6年前のノモンハン事件の国境紛争はあちこちに飛び火し、この辺でも紛争によっていくつかの集落が廃墟と化した。ここはそんな集落跡の一つだった。その中の一軒の窓を板で塞いで、明かりが外に漏れないようにしてある。バイクも少し離れた小屋の陰に隠しておいた。
古びたかまどで火をおこし、飯盒でお湯を沸かしていると、布の袋を下げた吉川が戻って来る。
「お待たせっす。石イチゴがあったんで、取って来たっす」
そう言って差し出された袋の中には、小さな赤い実がたくさん入っていた。
「石苺(シーメイ)って言って、岩場や河原になる木苺の仲間っすね。疲労回復にもいいっすよ」
そう言いながら吉川はかまどの番を代わり、木内は仕方なくかまどに面した居間の端に腰を下ろす。
「いただきます」と言って、石イチゴに手を伸ばす。日本で食べていた木苺よりも大振りで、色も少し濃かったが、甘酸っぱい味は懐かしい木苺そのままだった。
わざわざ自分のために、崖のようなところを下って、取りに行ってくれたのだろうか。
木内はかまどの火を見ている吉川の大きな背中を見詰めていた。昨夜のこともあり、なんとなく気まずい空気を感じる。
「あの、いつもありがとうございます」
「ん? 大したことないっすよ」
「それに、今までさんざん汚れ役をやらせてしまって、済まないと思っています」
木内がそう言うと、吉川はこちらを振り向かずに、ふっと笑った。
「それこそ、大したことないっすよ。いいじゃないっすか、汚れ役。俺には最初っから正々堂々なんて似合わないっすからね。俺こそ、どっちつかずの卑怯者を拾ってもらって感謝してるっす」
そう言われ、木内は初めて吉川を見た時のことを思い出す。
最初は部隊内の雑務係だった。全てに無関心で、目の前のことだけを黙々とこなす。そんな風に見えた。だがすぐに木内はその男がただものではないと気付く。鋭い観察眼と身のこなし、そして軍の思想に染まっていない価値観。
そしてそれがはっきりしたのは、軍事教練と称したシゴキの場面を目にした時のことだった。
教官がその男に指導に見せかけた憂さ晴らしの暴力を振るっており、周りの兵も顔をしかめるほどだった。木内はすぐに止めさせようとするが、声を出す寸前で男の視線に気づく。その視線は教官の動きをしっかりと捉えており、先読みさえしているようだった。派手に殴られているようで、全く効いていない。これはただの軍属などではない。『本物』だと直感した。
木内はすぐにその吉川という男を呼び出した。
「衛生隊の雑務係。志願理由は生活のため。今までに従軍の経験はなし。間違いない?」
「間違いないっす」
吉川は平然として即答する。
「そう。ここで軍の一員としてやっていけそうですか?」
「軍の一員だなんてもったいないっす。自分は生きるためにここにいるだけっすから」
「他の生き方を考えたことはありませんか? 私がこれから立ち上げようとしている部隊は、軍の論理に縛られず、人の命のために動きます。当然、綺麗ごとだけでは務まりません」
「・・・もうバレてるんすよね、国も経歴も。何をすればいいんすか?」
木内の言葉を一種の脅迫と取ったのか、吉川はそう尋ねた。
「私と一緒に部隊を育ててほしいのです」
「・・・育てる?」
「お願いできますか?」
「・・・分かったっす」
そうして吉川は辞令も契約書もなく、握手だけで木内の副官に抜擢されることになった。
その時からずっと吉川は表でも裏でも、木内の信念に沿って活動していた。
「あなたは卑怯者なんかじゃない。畢竟の者よ」
『畢竟』とは仏教用語で『究極の、最終的な』というような意味であり、『畢竟の者』と言えば、『極限に至った者、真理に到達した者』となる。吉川にはその意味はピンと来ていないようだったが、木内の口調から、単なる皮肉などではないと分かったのだろう。
「畢竟の者・・・ 後で調べておくっす」
照れ隠しか、そう言って、流してしまう。
そうしてしばらくの沈黙の後、今度は吉川が口を開く。
「婦長はいつまで軍にいるつもりっすか?」
「・・・いつまで、というのは?」
「もうすぐこの戦争も終わるっすよね? それを機に軍から離れるのもいいんじゃないっすか・・・」
「え・・・」
吉川は木内の方を振り返る。その眼差しは真剣そのものだった。
『軍を辞めて、こっちで三人で暮らさないか』
吉川は流暢な中国語でそう言った。
木内の手が無意識のうちにお腹に伸びる。そして木内も流暢な中国語で応える。
『・・・それは呉 吉川(ウー ジーチュアン)としての言葉として取っていいのね?』
『もちろん』
『・・・最後の一仕事が終われば、もうやり残したことはありません。その時に、もう一度聞かせてもらえますか』
『分かった。だが、俺は最後まで、一生をかけて香を守ると決めている』
その返事に、木内はクスリと笑う。
『でも、三人で、なんてさすがに気が早いんじゃないかしら。もしかして四人になるかもしれないのに・・・』
木内が冗談めかしてそう言うが、吉川は手を挙げて、それを制した。木内は緊張した面持ちで口を閉じる。
「・・・お客さんっすね」
そう言って吉川が外に出ると、しばらくして賑やかな声と共に戻って来る。
「はぁ、やっと見つけた」
「見つけてもらった、でしょ」
「うぅ、もう会えないんじゃないかと思いました・・・」
そう口々に言いながら、ミチヨ、スミレ、シゲミが入って来る。
「あなたたち、どうして・・・」
「助けになればと思い、引き返してきました。何か手伝わせてください」
木内婦長の言葉に、ミチヨが敬礼で応える。
「もう、あなたたちは・・・」と、木内婦長は困ったように言うが、吉川さんは「優秀すぎるのも考え物っすね」と茶化していた。
「これはね、命の危険があることなのよ」
「つまり、今までと同じ、ということですね?」
木内婦長の言葉に、生意気だとは思いつつも、私はそう応えた。もちろんみすみす危険を冒すわけではないが、私たちだってそのくらいの覚悟はできている。
「・・・分かりました。ではしっかり働いてもらいますからね」
そう言って木内婦長は私たちを居間に上げて、私たちは車座になる。
「相手は松島大佐。第731部隊の幹部でしたが、今は恐らく独自に行動しているはずです。大佐は明日、侵攻してくるはずのソ連軍に対して、強力なウイルス兵器を散布しようとしています。私たちの目的はそれを止めることです」
そうして私たちの前に、古い地図を広げて指を指していく。
「散布地点の候補は三か所。左の気象観測所は私が、右の無線中継所は吉川さんが監視するので、あなたたちは中央の塹壕跡を監視してください。散布の時間は夕方から夜にかけてでしょうが、念のため、朝からそれぞれ監視に入ります。ただ、重要なのは9日の0時にはソ連軍が侵攻を開始するということです。8日の20時には、相手方に動きがあろうがなかろうが、撤退を開始してください。それが侵攻してくるソ連軍から逃げ切れるギリギリの時間になります」
「そのウイルス兵器の散布というのは、どういうものなんでしょうか」
私はそう質問する。木内婦長の口ぶりからして、私たちが松島大佐と遭遇する確率は低いのだろうが、そこは聞いておかなければならない。
「候補地には何らかの装置が設置されていたので、おそらく細胞浮遊液の容器を大佐本人が持参するはずです。それを装置にいれて散布するのでしょう。大佐は『あ号ウイルス』と言っていましたが、空気感染する高感染力、高毒性の新型ウイルスだそうです。このウイルス兵器によって、ソ連軍は壊滅すると言っていましたが、大佐ははったりを言ったり、自分の成果を過大評価するような人ではありません。壊滅すると言えば、本当に壊滅するでしょう」
そうして木内婦長は言葉を区切った。
「・・・ここからは私の推測ですが、おそらく散布後、数日で症状が出始め、ソ連軍は機能不全となるでしょう。その時点で全く動かなければ被害は限局し、死者は数万人規模。ただし、感染者が後方に移送されたり、連絡将校が感染したりすれば、そこからさらに感染は広がり、数十万人規模の被害もあり得ます」
その被害予測を聞いて、私たちは沈黙した。たった一人で運べるようなウイルス兵器が、巨大な爆弾以上の被害をもたらしてしまうのだ。
「それを止めるためには、射殺することも選択肢に入れておいてください」
その言葉で、病院船での訓練で、拳銃を構えた時のことが思い起こされる。
看護婦の私が、人を殺す。人を救うために、人を殺さなければならないのだろうか。
その答えは出そうにないが、もしかしたらそんな極限状態に立たされるかもしれないというわけだ。
「あと、ここに来る途中の村がすでに避難していましたが、あれは木内婦長が避難させたのでしょうか」
私は話題を変えようと、ふと思い出した疑問を尋ねる。
「いいえ、私たちが通過した時にはもう避難済みでした。おそらく大佐が、よりきれいなデータが取れるよう、あらかじめ避難させておいたのでしょう。データで動く人ではあるけれど、いつもデータと人道が対立するわけではないということね」
「なるほど・・・」
そう聞くと、複雑な気分だった。どうせなら、悪の根源のような邪悪な人物であった方が、思い切りもつくというのに・・・
そうして一通りの説明が終わった後、木内婦長は横から布袋を出してきた。
「吉川さんが取ってきてくれたの。石イチゴって言って、岩場や河原に生える木苺の仲間よ。疲労回復にもいいのよ」
そう言われ、私たちは袋の中の大振りな果実を覗き込む。さすが木内婦長、現地の植物にも詳しいなんて、と感心する。
一粒もらって口に放り込めば、甘酸っぱさが体中に染みわたるようだった。「私たちは先に食べたから」と木内婦長と吉川さんが私たちに勧めてくれたので、結局三人で全部食べてしまった。
「じゃあ、そろそろ火、落とすっすよ」
「は~い」
私たちが毛布にくるまって並ぶと、吉川さんはかまどの火に灰をかけて小さくする。
いよいよ明日だ、という緊張感もあったが、良く眠ることができたと思う。
それは久しぶりにたくさん食べたからか、頼れる人が近くにいるという安心感からか。
8月5日。
ようやく日の出が近づき薄明るくなってきた頃、私たちは冷たい井戸水で、石炭の粉塵にまみれた髪や首筋を拭いていた。
「ほんと、うまくいったよな」
「私、心臓の音でバレるんじゃないかと思いました・・・」
「さすがにあそこまでやればね」
生き埋めさながらの圧迫感からの解放のせいか、笑顔も自然にあふれ出る。
日付が今日に変わったばかりの深夜、憲兵が接近しているとの合図を受けて、私たちはすぐにボイラー室へと逃げ込んだ。
そこの床は塵一つないくらいに清掃され、両開きのドアの蝶番にも十分に油が差され、音もなく開くように手入れされていた。
全員がボイラー室に入るとすぐに扉が閉められ、暗闇の中、荒い石炭の粉がドアの蝶番になすり付けられる。そして素早く防毒面を装着、黒い雨具を被って、ボイラーの横に掘られた窪みに伏せる。最後に紐を引いて、天井から吊るした袋から大量の粉塵を落下させて、私たちの上に山のように積もらせる。
憲兵たちがボイラー室のドアを開けようとすれば、蝶番になすり付けた石炭の粉が軋みを上げ、舞っていた粉塵が廊下へと流れだす。
憲兵からすれば全く手付かずの部屋のように見えたことだろう。
石炭の粉を舞わせることでランプの光を下げさせるのも狙い通りにいった。離れた場所から扉越しに差す光だけでは、天井から下がっている石炭袋や仕掛けのひもは見えない位置にある。
一見、手入れされていないドア。大量に溢れ出す粉塵と悪臭。足跡一つない粉塵の山。明かりを近づけられない環境。そして、女がそんな不潔なところに潜むわけはないという思い込み。
木内婦長の幾重もの策は、見事に私たちの存在を覆い隠したのだった。
私たちの足元には粉塵によって真っ黒になった防毒面がある。野戦病院の基本的な備品で、ずっと使われることも更新されることもなく放置されていたものだ。
「でも防毒面のフィルターが破れてなくて、ほんとによかった」
フィルターのカバーを外してみると、細かな粉塵がこぼれ落ち、フィルターが完全に詰まる寸前だったことが分かる。
「でもこれでみんな避難したことはバレたわけだし、軍がどう動くか、だな」
「手紙で私たちの立場が理解されればいいけど・・・」
「軍も統制とれなくてそれどころじゃないだろうし、見逃されるのを期待、かな」
「とにかく、もう時間との勝負。出発の準備しなきゃ」
私たちはボイラー室に隠しておいた缶の中から乾パンを回収したり、水筒に飲用水を詰めたりした。
吉川さんは倉庫から久しぶりにサイドカー付きのバイクを引っ張り出している。
「予備のガソリン缶があったと思って油断したっすわ。灯油で嵩増しされてるっすね。まぁ、動かないわけじゃないっすけど」と愚痴っている。ガソリンの混ぜ物まで分かってしまうのか、と感心する。
木内婦長は「交渉に使用してください」と、一番中国語ができるシゲミに銀元の入った袋を渡していた。
そうして準備が済むと、私たちは病院の正門前に並んぶ。
みんなが見守る中で、木内婦長が『北満 第五臨時病院』と墨書された看板を外し、塀の裏に立てかけた。
最後に病院の裏手に見えるライラックに向かって、みんなで手を合わせた。私は心の中で『ここに置いていくことを許してください』と謝罪した。
木内婦長は合掌を解くと、帽子を取ってこちらに向き直った。
「今まで、本当にご苦労様。これからは避難隊に合流し、副婦長の指揮下に入ってください」
「はい」
私たちはその短い激励の言葉に、敬礼で応える。
私のポケットの中には何度も確認した避難経路の地図とその日程表が入っている。
「気を付けて行くっすよ」と吉川さんも手を振ってくれる。
「お二人もどうぞご無事で」と再度敬礼をすると、避難先の村に向かって歩きだす。私たちはみんな、意図的に振り返らなかった。背後ではバイクのエンジン音がして、それが遠ざかっていくのが聞こえた。
目の前の赤茶けた土の道は、緩やかな起伏の続く平原に伸びている。その道の左右には収穫を待つトウモロコシとヒマワリ畑が広がっている。
私たち6人は、所々に荷馬車の跡が残された道を歩いていく。
最初こそ、遠足のようにわざと陽気に振舞ってみたりもしたが、すぐに口数も少なくなってしまう。
軍の捜索の他にも、野盗や暴徒と化した他の避難民や過酷な自然環境、精神的な疲労など、避難隊への心配は尽きない。自分たちが体調を崩せば何にもならないとは分かっているが、それでも移動は早足になりがちだった。
それに加え、私にはもう一つの心配事があった。木内婦長と吉川さんのことだ。
二人は私にだけ、ソ連国境へ向かう理由を「松島大佐の暴挙を止めるため」と説明した。その『暴挙』とは何なのかは言わなかったが、もう引き返せない覚悟の言葉であることは確かだ。
私は松島大佐には一度しかあったことはないし、その時も、わずかに言葉を交わしただけだった。だが、それでも松島大佐が底の知れない人物だということは十分に分かった。
果たして向こうでは何が起きているのか。いくら考えても答えは出ない。
そもそも自分にはそんなところに行く手段がない上に、自分一人行ってどうにかなるものとも思えない。
今は自分ができることを、予定通りに進めるしかない。
昼近くには、避難隊が最初の宿泊地にした村に辿り着く。今日が五日だから三日前のことだ。その時の様子は、互いに労わり合いながらの行軍で、笑い声も聞こえていたと聞き、一安心する。
私たちは村の小川で汗を拭かせてもらい、乾パンと水の昼食と休憩をして、また歩き出す。
雲一つない焼け付く日差しの中、休憩できる木陰も多くはない。意識的にペースを落として歩く。首に巻いた濡らした手拭いが乾くのを休憩の目安にした。
そして夕方前に、予定通りに村に到着する。この村ではすでに避難が進んでいたが、まだ残っている男性もいて、村の畑でまだ背の低いトウモロコシを刈り取っていた。
すぐに第五病院の看護婦だと気付き、『みんな行ったと思ってたけど、まだいたのか』と言われ、村に迎え入れてもらえる。
馬小屋の隅でいいから泊めてほしい、と頼むと『もう何も残っていないが、家に泊まったらいい。馬小屋よりはいいだろう』と言ってくれる。
この男性も明日には避難するつもりだという。トウモロコシを刈り取っていたのは食用ではなく、残していく家畜のためだった。
私たちはまだ時間も早いので、男性の刈り取ったトウモロコシを馬小屋に運ぶ手伝いをした。男性は刈り取りに専念し、それを私たちが六人がかりで馬小屋に運び込む。作業はあっという間に終わり、『ご苦労さん。後は家の方で休んでてくれ』ということになる。
その馬小屋には背の低いがっしりした馬が一頭と、背の高いほっそりした馬が二頭いた。
「これって、種類違うの? 子ども?」とシゲミが尋ねると、「小さいほうが力持ちの引馬、大きいほうは足の速い乗用馬」とスミレが教えていた。東北のマタギの村出身というだけあって、馬にも慣れているらしい。
スミレは乗用馬の方をペタペタと触りながら、いい馬だな、などと呟いていた。
「ミチヨ、馬って乗ったことある?」
「ううん。小さい頃、近所にはいたけど乗ったことはないな」
スミレの問いに、何のことかと思いながら答える。
「ふ~ん・・・ シゲミ、ちょっと」
そう言って、今度はシゲミを連れて、収穫の後片付けをしている男性の方に向かう。
しばらく家の前庭で休んでいると、スミレとシゲミが、男性と一緒に戻って来る。
「ミチヨ、乗用馬のほう、譲ってくれるって」
開口一番にスミレが言う。
「はぁ? 馬なんて乗れないって言ったでしょ。それに人数分いないし」
「二頭いれば、あたしとシゲミ、ミチヨで引き返すには十分でしょ」
「え?」
ここから引き返す? どうして? と、私は意表を突かれる。
だがそこにスミレが言葉を重ねて来る。
「木内婦長と吉川さんが国境へ向かったのって、ただの偵察とかじゃないんだろ? 二人だけで行かせて良かったのか? 後悔してるんじゃないのか?」
「どうして・・・」
「ずっと上の空だったもん、分かるよ。もう5年も一緒にいるんだよ」
シゲミもそう言って笑う。
「ミチヨの考えることは単純だからな。『二人のことが心配。でも私に何ができるんだろう。今は目の前の責務を果たさなきゃ』ってとこでしょ? でも、三人いればできることもあるんじゃない?」
「私も婦長と吉川さんのことが心配。だから、三人で戻らない?」
そう言われ、他の三人を見ると、「こっちは任せといて。ちゃんと副婦長には説明しとくから」と笑顔で返される。
いつの間にか話はまとまっているようだ。そこまで心配してくれていたのかと思うと、心強いような、自分が情けなくなるような気持だった。
だが、そこまで言われれば、こちらも決心がつく。
「分かった。明日の朝、引き返そう。 ・・・でも私、乗れるかな」
「ミチヨならすぐだよ。初心者用の馬がいるんだってさ」
スミレがそう言うと、男性が馬小屋から灰白色の乗用馬を連れて来る。
『小白(シャオバイ)だ。一番優しくて一番賢い』
その大きな目が、私を見詰めている気がした。
「小白・・・」
名前を呼びながら、温かな首筋に触れると、返事をするように大きく首を上下に動かした。
「とりあえず鞍もあるから乗ってみな」
それからスミレによる乗馬練習は日没まで続いた。一番賢いと言われるだけあって、こちらの意図を読み取ってくれているようだった。
男性は明日には残った荷物をまとめて引馬で避難するつもりだったが、乗用馬の方はどうしようかと迷っていたところだったらしい。
そして夜は家の中で眠ることができた。板場に薄い毛布を敷いただけなので寝心地は病院のベッドの下と変わらなかったが、緊張感がないだけでずっと体も心も休まった。
翌朝には、過分な銀元をもらったから、と塩漬けの魚を分けてくれた。
スミレに手伝ってもらって小白に乗り、少し足を締めると、意図したとおりに小白がゆっくり歩いてくれる。
「さっすがミチヨ。もう様になってるね」「うん、かっこいい」と二人は褒めてくれるが、多分これは小白だからだ。私が乗っているんじゃなくて、小白が乗せてくれているんだ。
スミレは馬小屋から引いてきた大栗(ダーリー)という大柄なほうの乗用馬に鞍を付け、その後ろに折り畳んだ薄手の毛布を縛り付ける。
スミレがひらりと大栗に跨り、シゲミを引っ張り上げて、毛布の上に跨らせる。シゲミは「ひぃ・・・」と悲鳴を上げていたが、スミレはうまく手綱を取って、大栗を動かさなかった。大栗に家の前庭を歩かせてみるが、シゲミは目を閉じて、必死の形相でスミレにしがみ付いていた。少し跳ねさせるだけで「ひぃ・・」「ふぁ・・・」と賑やかに悲鳴を上げる。だがそれでスミレは行けると判断したらしい。
見送りに出てくれた男性にお礼を言うと、「行くよ」とスミレが大栗を走らせる。小白の方は、私が何かする前に大栗について走り始める。
私は何もせずに跨っているだけでいいので、『視線が高くて風が気持ちいい』などと思っていたが、下から突き上げるような衝撃に、すぐにお尻が痛くなってくる。
前を走るスミレの様子を見て、馬の動きに合わせて体を上下させてみるが、そう簡単にはいかない。シゲミはしっかりとスミレの腰に腕を回してしがみついていて、姿勢自体は安定しているように見える。だが、風に乗って情けない悲鳴は絶えず聞こえてくる。
シゲミは本当に怖がりだ。でもシゲミがその恐怖に負けたところは一度も見たことがない。悲鳴を上げ、泣いたりすることもあるけど、足を止めることなく、ちゃんと前に進んでいく。
私も見習わなければ。そう思って、私は手綱を握り直し、スミレの動きをもう一度観察する。
「はぁ・・・」
誰からともなくため息がこぼれる。
すでに日が高く昇った中、四人の看護婦が、着の身着のままといういでたちで、道端の小さな木陰に座り込んでいる。時折、かすかに風が吹くが、熱気と砂埃しか運んでこない。
耳を澄ましても聞こえるのはセミの鳴き声だけで、道のどちらを見ても人気はなかった。
今日の朝、一緒に診療所を出たはずの軍医と衛生兵は、影も形も見えない。完全に見捨てられたと、誰もが思っていた。
そもそも避難命令だって急なものだった。いつものように村の下宿先から診療所に行ったら、急に「私物をまとめて来い」と軍医に言われたのだ。当の軍医と衛生兵はすでに私物をまとめていたし、診療所の帳簿類もいつもの場所になかった。多分、衛生兵の鞄の中に入っていたのだろう。
慌てて下宿先に戻り、私物をまとめて診療所に戻って来ると、「緊急の避難命令だ。遅れる奴は置いていくぞ」と目的地も告げられないまま、村を出たのだった。
「・・・まさか本当に置いて行かれるなんてね」
「・・・最初から足手まといは置いて、二人で逃げるつもりだったんじゃない?」
もう愚痴しか出てこない。
手元にあるのはわずかな私物と看護婦としての身分証だけ。食糧や水筒さえないのだ。土地勘のない所に置き去りにされ、しばらくは二人を探しもしたが、すぐに無駄だと悟った。
「どうする? 暑さが引いたら、どっちかに歩いてみる?」
「暗くなる前にどこかに着けるといいけど」
何となくそう言うが、もう歩く気力もなかった。
と、その時、遠くの木陰から人影が見えた。それも一人や二人ではない。人影は次々と増え、2~30人にもなる。
「何あれ・・・」
「さぁ・・・ でも軍の人みたい」
「だったら味方だよね」
「多分・・・」
そうして、近くまで来たところで声をかけてみる。
「あの、すみませんがお水をいただけませんか?」
「え、えぇ、どうぞ」と先頭にいた事務職員風の人が水筒を渡してくれる。他の事務職員や古い包帯を巻いた兵隊さんも、それぞれ水筒を差し出してくれる。ようやく人心地着いた気分だった。丁寧にお礼を言って水筒を返す。
「看護婦さんのようですけど、誰か待っているんですか?」とその人が聞いてくる。
「いえ、私たちは第267診療所の所属なんですが、道に迷っちゃって・・・ 軍医さんたちは先にどこか行っちゃうし・・・ 皆さんは?」
「私たちは第五病院の避難隊です。今日は信濃村までの予定です。第一目標はその先の泰来ですけど」
信濃村というのは聞いたことがなかったし、泰来というのは聞いたことはあったが、どのくらいかかるかは分からなかった。でも、第五病院というのは聞いたことがあった。チチハル方面の基幹病院で、エリート集団がいると、向こうで手当てを受けたことのある軍人さんが言っていた。
これこそ天の助けだと思った。
「あの、私たちもその避難隊に加えてもらえませんか」
『食糧も何もありませんが』という前に、その人は「えぇ、いいですよ」とあっさりと頷く。
「避難を希望する人は誰であっても受け入れるという方針なんです。私たちは先遣隊なので先に行きますが、本隊はあと2~3時間もすれば、通るはずです。そこにいる高岡副婦長に事情を話して合流してください」
つまり、もう少しここで待てということだ。
一度見捨てられているせいで、また今度も、と警戒してしまう。そうして顔を見合わせていると、その心境が伝わったのだろう。
「本隊の方には患者さんが200人以上います。私たちと行くよりも、そちらの患者さんの方を助けてもらえませんか」
「・・・分かりました。ここでもう少し待つことにします。お水、ありがとうございました」
「はい。信濃村で準備を整えていますから、そこでまたお会いしましょう」
彼女たちは、先遣隊だという20人ほどを送り出し、再び木陰に座り込む。
そうして、3時間後。騙されたんじゃないかと不安に思い出したころ、遠くに沢山の人影が現れた。
軍服姿の患者が中心で、その間を野戦服姿の看護婦や衛生兵が動き回っている。そして、他にも地元の民間人と思しき人たちも混ざっている。
その看護婦に「避難隊に加えてほしい」と言うと、慣れたように、後ろの方に人を呼びに行く。
やって来たのはやけに目つきの鋭い看護婦だった。他の看護婦同様に分厚い記録帳を持っていたので、健康管理の途中だったのだろうか。
「責任者の高岡だ。避難の意志があれば、誰であろうと歓迎する。ここでは元の所属や立場は関係ない。できることをやってもらうぞ。看護婦であれば看護婦として働いてもらう」
見れば民間人の格好の人も、軍服姿の患者の横で声を掛けながら歩いている。荷物を載せた荷車を衛生兵と一緒に引いているのも民間人だった。
自分たちは見捨てられた被害者なのだと思っていたが、これは負けていられない。
「はい、もちろんです」
彼女たちは自分の職務を全うするため、患者さんたちの中に入って行った。
私たちが馬で村を出てから、約4時間。さすがに馬は速い。
スミレは乗馬初心者の私や、後ろにしがみ付いているシゲミのために、小まめな休憩を入れてくれた。私とシゲミがへとへとになって倒れこんでいる横で、馬を水場に連れて行ったり、馬具を調整したり、乗り方のアドバイスをしたりしてくれる。
そうして休憩を挟みながらでも、お昼前にはもう二度と見ることはないと思っていた第五病院が見えてくる。昨日の今日なのに、ひどく懐かしい感じがして、視界が滲む。
スミレは速度を緩めることなく、大栗をそのまま走らせる。ここで止まってしまえば、何かしら気の迷いが生じると思ったのだろう。スミレとシゲミは病院の方をちらりと見ただけで、通り過ぎる。もちろん私も同じだ。ここからは木内婦長と吉川さんを追う道だ。
二人の目的地はソ連国境付近としか聞いていないが、ここからサイドカー付きバイクで行ける道は、軍の補給路として整備された一本しかない。あとはほとんど整備されていないデコボコ道だったり、急な山道だったりで、車幅のあるバイクには無理だろう。逆にそういった道を使って先回りできれば、二人に追いつける可能性もある。
休憩時にそう相談して、持っていた地図に破線で記されている、昔の交易路らしきものを進むことにした。
最近踏みならされた跡があるのは、向こうの村からこちら側へ避難民が通った跡だろう。道が通じている証拠にはなるが、それでも馬がすれ違えないくらい細い所もある。
途中のつり橋は馬から降りて渡る。スミレが最初に大栗を引いて行き、対岸で小白を呼ぶと、小白は手綱も取っていないのに、てくてくと歩いて行く。大栗の様子を見て、安全な道だと判断したのだろうか。一応過重制限にかからないように、私とシゲミは小白が渡り終わってから、つり橋を渡った。
そうして夕方前に辿り着いた村はすでに無人だった。家の戸は全て閉められており、逆に家畜小屋の柵は全て開け放たれていた。連れて行けない家畜を解放したのだろう。村の中では、放し飼い状態になったヤギが数頭、草を食んでいた。
スミレは大栗を近くにあった馬小屋に繋ぎ、私もその隣に小白を繋ぐ。飼葉や水がそのまま残されているのは幸いだった。
「さすがに避難済みか・・・」
「国境もすぐそこだからね」
二人は村の中を見回しながら言うが、私はそこにかすかな疑問が浮かんだ。
『誰が避難させたんだろう・・・』
木内婦長たちがこの村を通ったのは昨日のはずだ。たった一日でここまで整然と避難できるはずがない。こんな所まで都市部の噂が流れて来るとは思えないし、国境の近くとはいえ、何か見えるほど近いわけでもない。
だがそれもスミレの言葉で、すぐに霧散する。
「ミチヨも卵探して」
「卵?」
「ニワトリがいたの。まだどこかに卵産んでるかも」
そう言いながら二人は納屋の中や、母屋の床下を覗いたりしている。
確かに、避難済みの村で放置されているニワトリの卵を拾うくらいなら、泥棒にはならないだろう。
そう言い訳しながら、村の中を散策する。
納屋を見つけて中を覗くと、奥の方に座り込んでいる茶色いニワトリと目が合う。そっと近づくが逃げる様子はない。これは当たりだ。
「ごめんね~」と言いながらゆっくりと鶏のおなかの下に手を入れると、温かい卵が二つあった。それを割れないように一つずつ、上着のポケットに入れる。
村の中には未熟なプラムがいくつかなっている木もあったが、こちらは村人が避難前に全部収穫していったのだろう。
結局、収穫はニワトリの卵が四つだけだった。衛生状態を考え、固ゆでにして食べることにする。「慣れないことして大変だったでしょ」とスミレが残りの一つを譲ってくれたので、シゲミと半分に分けた。朝もらった塩漬けの魚と一緒に食べると、塩気と相まって元気が湧いてくる気がした。
「人の家に勝手に上がるのも悪いから、納屋で寝ることにする?」
私がそう提案すると、シゲミはあからさまにほっとしていた。
「何、お堅いミチヨはともかく、シゲミもそういうの気にするタイプ?」
そうスミレが茶化してくる。
「え、気にするよ。だって夜中に『そこは俺の場所だ』って言われたら嫌じゃない・・・」
「・・・いや、怖い怖い」
突然のホラー展開に、私とスミレは声をそろえた。思わず戸口の暗がりに目をやってしまう。
とにかく私たちはきれいそうな納屋の中で、藁を束ねて寝床を作る。昼はあれだけ暑かったのに、もう肌寒くなっている。薄い毛布にくるまり、ぱりぱりしたコーリャン藁に寝転ぶと、しばらくしてから熱が籠ってじんわりと暖かくなってくる。
明日には国境に辿り着けるだろうが、木内婦長たちに出会えるかは、また別の問題だ。とりあえず国境付近で探して、見つけられなかった場合は、その時にまた考えよう。
そうして、私はお尻や内腿に痛みを感じながら、眠りについた。
8月7日。
その日も木内と吉川は徒歩で国境付近の偵察を続けていたが、木内は遅れがちだった。
昨日の夜は少し夜更かししたが、それよりも今朝早くに無線で聞いた内容の衝撃の方が大きいだろう。
『8月6日午前8時過ぎ、一発の爆弾によって広島市が壊滅』
木内はすぐにそれが連合軍の新型兵器、原子爆弾だと分かった。そしてそれがもう一発あるという情報も得ている。今、世論は絶望感と報復感情が半々だろう。そこで強力なウイルス兵器が存在すると知られれば、世論は一気に継戦に傾くだろう。そうなれば更なる地獄が世界中で展開されることになる。
今、止めなければならない。
木内は焦っていた。
「婦長、今日は休んでていいっすよ。偵察くらいは一人でできるっすから」
吉川が振り返って言うが、「こんな時に休んでいられないでしょ」と返してくる。
その顔には精神的疲労と共に、わずかな罪悪感も見られた。
「こんな時だからっすよ。婦長にはいざという時に、万全でいてもらわないといけないっすからね」
「・・・分かってるわ。無理はしないようにするから」
それを聞いて、吉川は歩く速さを少し抑えるだけにする。
確かにこんな時に何もするなという方が精神的負担になるだろう。
そうしてしばらく歩くと、二階建ての建物がぽつんと立っているのが見えてくる。
「あそこにも監視がいるっすね」
物陰に潜み、双眼鏡を覗いていた吉川が呟く。
「ここから見えるだけで三人。今、中に一人入って行ったっすね」
その横で木内が古い地図を広げ、現在地を確認する。
「昔の気象観測所ね」
背後の丘から見下ろしたその施設は、中央に直径10メートル以上もあろうかという縦穴を備えたものだった。建てられた当時は白い外壁の最新研究施設だったのだろうが、今では茶色い錆に覆われた廃墟だ。
「車道もまだ使えそうだし、ここも候補にしておきましょう」
木内はそう言って、地図に鉛筆で印をつける。これで三つ目だ。
二人は5日に病院をバイクで出発してから、ずっと国境付近で、松島が新型ウイルスを散布する場所を探していた。
今年二月のヤルタ会談の内容から、ソ連軍の満洲侵攻開始は8月9日の0時と見て間違いない。だとすれば、松島の新型ウイルス散布は8日の夕方から夜間にかけてとなる。
それと、松島の執務室に掛けられていた作戦地図、ウイルスが空気感染するという発言、ソ連軍の予想侵攻経路、現地の気象条件と地理的条件を重ね合わせた結果、絞り込まれたのが三か所だった。
松島に誘い出されたようなものだが、今はそれに乗るしかない。
一つ目が陸軍の旧無線中継所で、大きな鉄塔と給水塔があり、高台にあることからも、散布、観測が容易な場所だ。給水塔の下には何かの装置が置かれ、警備の人間も常駐していた。
二つ目が国境近くの塹壕跡だ。こちらは半地下の施設で、人影は見えないが、つい最近にトラックが出入りしていた痕跡が残っていた。午後から夜間にかけてはソ連側に向かって風が吹くため、地下から散布するのには好条件となる。
そして三つ目が、今見つけた気象観測所だ。建物の中央の縦穴が風洞実験施設だとすれば、そこから風に乗せてウイルスを散布することもできるだろう。
「決行は明日の夕方以降ってことっすから、一旦戻るっすか? 松島も貴重なウイルスを設備の整っていない前線に置いておいたりしないっしょ」
「そうね。本番は明日、大佐が現れてからね」
警備の兵もいる以上、迂闊に手を出すこともできない。せっかく候補地を三か所にまで絞ったのに、警戒されて全く別のところで散布されては防ぎようがなくなってしまう。
そうして二人は周囲の地形を確認して立ち去ろうとしたが、吉川がふと何かを見つけたように斜面の下に目をやる。
「ちょっと先に戻ってもらってていいっすか? いいもの見つけたんで」
そうして吉川は、丘の急斜面を降りて行こうとする。いつも通りの軽い口調だが、吉川は遊びや冗談でこんなことをする人間ではない。吉川による単独行動が最良と判断してのことだろう。
木内は「見つからないようにだけ、注意してくださいね」と言って、ここ数日の拠点にしている集落跡に戻る。
6年前のノモンハン事件の国境紛争はあちこちに飛び火し、この辺でも紛争によっていくつかの集落が廃墟と化した。ここはそんな集落跡の一つだった。その中の一軒の窓を板で塞いで、明かりが外に漏れないようにしてある。バイクも少し離れた小屋の陰に隠しておいた。
古びたかまどで火をおこし、飯盒でお湯を沸かしていると、布の袋を下げた吉川が戻って来る。
「お待たせっす。石イチゴがあったんで、取って来たっす」
そう言って差し出された袋の中には、小さな赤い実がたくさん入っていた。
「石苺(シーメイ)って言って、岩場や河原になる木苺の仲間っすね。疲労回復にもいいっすよ」
そう言いながら吉川はかまどの番を代わり、木内は仕方なくかまどに面した居間の端に腰を下ろす。
「いただきます」と言って、石イチゴに手を伸ばす。日本で食べていた木苺よりも大振りで、色も少し濃かったが、甘酸っぱい味は懐かしい木苺そのままだった。
わざわざ自分のために、崖のようなところを下って、取りに行ってくれたのだろうか。
木内はかまどの火を見ている吉川の大きな背中を見詰めていた。昨夜のこともあり、なんとなく気まずい空気を感じる。
「あの、いつもありがとうございます」
「ん? 大したことないっすよ」
「それに、今までさんざん汚れ役をやらせてしまって、済まないと思っています」
木内がそう言うと、吉川はこちらを振り向かずに、ふっと笑った。
「それこそ、大したことないっすよ。いいじゃないっすか、汚れ役。俺には最初っから正々堂々なんて似合わないっすからね。俺こそ、どっちつかずの卑怯者を拾ってもらって感謝してるっす」
そう言われ、木内は初めて吉川を見た時のことを思い出す。
最初は部隊内の雑務係だった。全てに無関心で、目の前のことだけを黙々とこなす。そんな風に見えた。だがすぐに木内はその男がただものではないと気付く。鋭い観察眼と身のこなし、そして軍の思想に染まっていない価値観。
そしてそれがはっきりしたのは、軍事教練と称したシゴキの場面を目にした時のことだった。
教官がその男に指導に見せかけた憂さ晴らしの暴力を振るっており、周りの兵も顔をしかめるほどだった。木内はすぐに止めさせようとするが、声を出す寸前で男の視線に気づく。その視線は教官の動きをしっかりと捉えており、先読みさえしているようだった。派手に殴られているようで、全く効いていない。これはただの軍属などではない。『本物』だと直感した。
木内はすぐにその吉川という男を呼び出した。
「衛生隊の雑務係。志願理由は生活のため。今までに従軍の経験はなし。間違いない?」
「間違いないっす」
吉川は平然として即答する。
「そう。ここで軍の一員としてやっていけそうですか?」
「軍の一員だなんてもったいないっす。自分は生きるためにここにいるだけっすから」
「他の生き方を考えたことはありませんか? 私がこれから立ち上げようとしている部隊は、軍の論理に縛られず、人の命のために動きます。当然、綺麗ごとだけでは務まりません」
「・・・もうバレてるんすよね、国も経歴も。何をすればいいんすか?」
木内の言葉を一種の脅迫と取ったのか、吉川はそう尋ねた。
「私と一緒に部隊を育ててほしいのです」
「・・・育てる?」
「お願いできますか?」
「・・・分かったっす」
そうして吉川は辞令も契約書もなく、握手だけで木内の副官に抜擢されることになった。
その時からずっと吉川は表でも裏でも、木内の信念に沿って活動していた。
「あなたは卑怯者なんかじゃない。畢竟の者よ」
『畢竟』とは仏教用語で『究極の、最終的な』というような意味であり、『畢竟の者』と言えば、『極限に至った者、真理に到達した者』となる。吉川にはその意味はピンと来ていないようだったが、木内の口調から、単なる皮肉などではないと分かったのだろう。
「畢竟の者・・・ 後で調べておくっす」
照れ隠しか、そう言って、流してしまう。
そうしてしばらくの沈黙の後、今度は吉川が口を開く。
「婦長はいつまで軍にいるつもりっすか?」
「・・・いつまで、というのは?」
「もうすぐこの戦争も終わるっすよね? それを機に軍から離れるのもいいんじゃないっすか・・・」
「え・・・」
吉川は木内の方を振り返る。その眼差しは真剣そのものだった。
『軍を辞めて、こっちで三人で暮らさないか』
吉川は流暢な中国語でそう言った。
木内の手が無意識のうちにお腹に伸びる。そして木内も流暢な中国語で応える。
『・・・それは呉 吉川(ウー ジーチュアン)としての言葉として取っていいのね?』
『もちろん』
『・・・最後の一仕事が終われば、もうやり残したことはありません。その時に、もう一度聞かせてもらえますか』
『分かった。だが、俺は最後まで、一生をかけて香を守ると決めている』
その返事に、木内はクスリと笑う。
『でも、三人で、なんてさすがに気が早いんじゃないかしら。もしかして四人になるかもしれないのに・・・』
木内が冗談めかしてそう言うが、吉川は手を挙げて、それを制した。木内は緊張した面持ちで口を閉じる。
「・・・お客さんっすね」
そう言って吉川が外に出ると、しばらくして賑やかな声と共に戻って来る。
「はぁ、やっと見つけた」
「見つけてもらった、でしょ」
「うぅ、もう会えないんじゃないかと思いました・・・」
そう口々に言いながら、ミチヨ、スミレ、シゲミが入って来る。
「あなたたち、どうして・・・」
「助けになればと思い、引き返してきました。何か手伝わせてください」
木内婦長の言葉に、ミチヨが敬礼で応える。
「もう、あなたたちは・・・」と、木内婦長は困ったように言うが、吉川さんは「優秀すぎるのも考え物っすね」と茶化していた。
「これはね、命の危険があることなのよ」
「つまり、今までと同じ、ということですね?」
木内婦長の言葉に、生意気だとは思いつつも、私はそう応えた。もちろんみすみす危険を冒すわけではないが、私たちだってそのくらいの覚悟はできている。
「・・・分かりました。ではしっかり働いてもらいますからね」
そう言って木内婦長は私たちを居間に上げて、私たちは車座になる。
「相手は松島大佐。第731部隊の幹部でしたが、今は恐らく独自に行動しているはずです。大佐は明日、侵攻してくるはずのソ連軍に対して、強力なウイルス兵器を散布しようとしています。私たちの目的はそれを止めることです」
そうして私たちの前に、古い地図を広げて指を指していく。
「散布地点の候補は三か所。左の気象観測所は私が、右の無線中継所は吉川さんが監視するので、あなたたちは中央の塹壕跡を監視してください。散布の時間は夕方から夜にかけてでしょうが、念のため、朝からそれぞれ監視に入ります。ただ、重要なのは9日の0時にはソ連軍が侵攻を開始するということです。8日の20時には、相手方に動きがあろうがなかろうが、撤退を開始してください。それが侵攻してくるソ連軍から逃げ切れるギリギリの時間になります」
「そのウイルス兵器の散布というのは、どういうものなんでしょうか」
私はそう質問する。木内婦長の口ぶりからして、私たちが松島大佐と遭遇する確率は低いのだろうが、そこは聞いておかなければならない。
「候補地には何らかの装置が設置されていたので、おそらく細胞浮遊液の容器を大佐本人が持参するはずです。それを装置にいれて散布するのでしょう。大佐は『あ号ウイルス』と言っていましたが、空気感染する高感染力、高毒性の新型ウイルスだそうです。このウイルス兵器によって、ソ連軍は壊滅すると言っていましたが、大佐ははったりを言ったり、自分の成果を過大評価するような人ではありません。壊滅すると言えば、本当に壊滅するでしょう」
そうして木内婦長は言葉を区切った。
「・・・ここからは私の推測ですが、おそらく散布後、数日で症状が出始め、ソ連軍は機能不全となるでしょう。その時点で全く動かなければ被害は限局し、死者は数万人規模。ただし、感染者が後方に移送されたり、連絡将校が感染したりすれば、そこからさらに感染は広がり、数十万人規模の被害もあり得ます」
その被害予測を聞いて、私たちは沈黙した。たった一人で運べるようなウイルス兵器が、巨大な爆弾以上の被害をもたらしてしまうのだ。
「それを止めるためには、射殺することも選択肢に入れておいてください」
その言葉で、病院船での訓練で、拳銃を構えた時のことが思い起こされる。
看護婦の私が、人を殺す。人を救うために、人を殺さなければならないのだろうか。
その答えは出そうにないが、もしかしたらそんな極限状態に立たされるかもしれないというわけだ。
「あと、ここに来る途中の村がすでに避難していましたが、あれは木内婦長が避難させたのでしょうか」
私は話題を変えようと、ふと思い出した疑問を尋ねる。
「いいえ、私たちが通過した時にはもう避難済みでした。おそらく大佐が、よりきれいなデータが取れるよう、あらかじめ避難させておいたのでしょう。データで動く人ではあるけれど、いつもデータと人道が対立するわけではないということね」
「なるほど・・・」
そう聞くと、複雑な気分だった。どうせなら、悪の根源のような邪悪な人物であった方が、思い切りもつくというのに・・・
そうして一通りの説明が終わった後、木内婦長は横から布袋を出してきた。
「吉川さんが取ってきてくれたの。石イチゴって言って、岩場や河原に生える木苺の仲間よ。疲労回復にもいいのよ」
そう言われ、私たちは袋の中の大振りな果実を覗き込む。さすが木内婦長、現地の植物にも詳しいなんて、と感心する。
一粒もらって口に放り込めば、甘酸っぱさが体中に染みわたるようだった。「私たちは先に食べたから」と木内婦長と吉川さんが私たちに勧めてくれたので、結局三人で全部食べてしまった。
「じゃあ、そろそろ火、落とすっすよ」
「は~い」
私たちが毛布にくるまって並ぶと、吉川さんはかまどの火に灰をかけて小さくする。
いよいよ明日だ、という緊張感もあったが、良く眠ることができたと思う。
それは久しぶりにたくさん食べたからか、頼れる人が近くにいるという安心感からか。