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作者: ディエ
8月8日
8月8日。
まだ肌寒い中、起きだすと、吉川さんはすでにかまどでお湯を沸かしていた。
「おはようございます」「おはよっす」
まだスミレとシゲミが寝ていたので、小声で挨拶する。
「木内婦長は?」
「散歩っすかね」
「こんな早くから?」
「歩きながら段取り立ててるんすよ。それぞれの持ち場の配置や天候、風向き、時間まで。婦長も緊張してるんすよ」
「吉川さんは平気そうですね」
「大人なんで、誤魔化すのがうまいだけっす。ずっと自分も他人も誤魔化してきたっすからね」
「じゃあ、本心は?」
「・・・みんなには生き残ってほしいってことっすかね。特にミチヨさんたちは若いんすから、どんなことをしてでも生き残ってほしいっすね」
「そうですね・・・ みんなで帰りましょう・・・」
そんな話をしているとスミレとシゲミも起きてきて、木内婦長も戻って来る。
みんなでとる最後の朝食は、白湯と乾パンだった。
その後、私は持ち場の印をつけてもらった地図を見て、ここからの経路を想像していた。
スミレは靴がしっくりこないのか、何度も靴紐を結んだり緩めたりしていた。
シゲミは肩掛けカバンの当たり具合が気になるのか、中身を入れ直していた。
吉川さんは井戸水をかけて、かまどの火を消した。
「最後の連絡事項です」
そう言って木内婦長がみんなを呼び集める。
「まずここを出たら、それぞれの持ち場に向かい、以降は各自での行動になります。連絡を取り合う時間はありません」
私は緊張しながら折り畳んだ地図をポケットの上から触る。
「各自、時計は確認しておくこと。20時になった時点で、何が起きていようとも退避開始。これがソ連軍から逃げ切れるギリギリの線になります」スミレが腕時計の時刻を確認する。
「拳銃の使用については躊躇しないこと。どのような使用であっても、私が責任を取ります」
シゲミがわずかに左の腰に目を落とす。
「最上の成功はウイルス散布の阻止ですが、それにはこだわらないこと。生還できれば、それで成功とします」
吉川さんが頷く。
そうして木内婦長はみんなの顔を見回す。
「以上。皆さんの幸運を祈ります」
私たちは敬礼で応え、長年放置され草だらけになった道を、塹壕跡へと歩き出す。

避難七日目の朝、できるだけ暑くなる前に距離を稼ごうと、朝靄の中を避難隊がのろのろと歩いて行く。
当初の予定では明日には第一避難地点と設定した泰来に到着予定だったが、今ではその見通しさえ立たない。道中での避難民の合流は予想を遥かに上回り、それに伴って進行速度は日に日に遅くなる。隊列の中では子どもの泣き声や老人の咳込む音などが至る所から聞こえてくる。
もう、本隊と後衛隊の区別はなくなっていた。みんな同じように体調が悪化しているからだ。みんな、ただ気力だけで歩いている。
食糧はもちろん、飲料水の供給さえままならない状況だった。先遣隊が前方の村から食糧を持って戻って来るが、それは本隊がその村に到達した時の物資を前借しているに過ぎない。荷車には煮沸消毒した水を積んでいるが、この暑さの中ではすぐに底をついてしまう。
高岡も、このような補給線の途絶を予想していないわけではなかった。だが、その訪れはあまりに早かった。
患者や避難民だけでなく、看護婦の限界も近い。看護婦が倒れるようなことになれば、そこで避難隊は総崩れだ。先遣隊にしても、何度も前方の村と往復させているため、疲労が蓄積しているはずだ。責任感から無理をさせてはいけない。自身は丸一日以上何も食べていないにも関わらず、高岡は看護婦たちの様子にも注意を払っていた。
「もう少しで休憩地点だ、頑張れ」
高岡は自身でもその言葉を虚しく感じていた。休憩と言っても、そこに食糧や十分な水があるわけではない。日陰で休めるのもほんのわずかな時間だけだ。日付が変わるころにはソ連軍が侵攻してくる。このペースで、どこまで逃げられるだろうか。
高岡は「頑張れ」「もう少しだ」と声を掛けながら、第一特務救護小隊の面々と一緒に避難民の様子を見て回った。
泣いている子どもがいれば、しゃがみこんで視線を合わせ、足を引きずる負傷兵には肩を貸して一緒に歩いてやる。そんな小隊員の様子を見て、また歩き出す人もいる。
誰もが限界を感じている中、それでも進めるのは、小隊員たちの献身的な姿を見ているからだろう。
高岡は改めて『優秀な部下を持った』と誇りに思う反面、このような一時しのぎでどこまで行けるのかと、その後のことを考えないわけにはいかなかった。

「夏草や、か・・・」
私はその光景を見て、小さく呟いた。
目的の塹壕跡をわずかに見下ろす丘の上からの眺めは、かつての塹壕だけが茶色く、一筋に横切っているだけで、すっかり夏草に覆われ、まさしく松尾芭蕉の句のようだった。だが、ノモンハン事件の頃というから、ほんの6年前にはここは戦場だったわけだ。そして今またそこに兵が戻ってこようとしている。
緩やかな起伏の続く草原が地平線まで続いているが、まだソ連軍の姿は見えない。そして最も警戒すべき日本軍の姿も。
だが、塹壕戦の拠点として作られた半地下の施設の周囲には、確かにトラックのタイヤ痕が残されていた。
「中には誰もいないみたいだな・・・」
「そうね。とりあえず監視は、あの建物と、道路の両端でいいかな」
「チチハルの軍医部附属庁舎から来るんだったら、こっちから来ることになるよね」
私たちは地図を見ながら、監視場所を選定する。こちらが身を隠せて、広い視界を確保でき、いざという時はすぐに行動できるくらいには近い場所だ。
その上で手信号の合図を決めて、監視が漫然としたものにならないように、三十分ごとに持ち場を変えていくことにする。
午前の日差しはまだそれほど強くもなく、時々かすかに吹き抜ける風も心地よい。今日も暑くなりそうだ。そんなことを考えながら、丘の中腹に腹ばいになり、長く伸びた草陰から、塹壕の施設を監視する。
時々鳥の鳴き声が聞こえるだけで、時間はゆっくりと流れていく。

「そろそろ交代かな」
私は体を起こして手で合図を送ると、スミレが腰をかがめたまま、こちらにやって来る。
「異常なし。何の気配もないね」
スミレの小声に頷くと、私はシゲミの方へと向かう。
移動中は監視場所から目を離していることになるが、そこはスミレとシゲミがカバーしてくれる。
シゲミのしゃがみ込んでいた木陰に潜り込むと、「こっちは異常なし」「こっちも安全」と小声で報告し合う。
そして今度はシゲミがスミレのいた窪地へ忍び足で移動し、そこにすっぽりと収まる。
最後に配置完了の手信号を交わして、監視が続行される。
交代の度に体勢と視点が変わるので、また一からという気持ちで監視でき、同じ姿勢で居続けることの身体的負担も減る。
そしてそのような監視の三交代目。
私は「異常なし」と報告するが、スミレは「さっき、野兎がいた」と言ってくる。
「野兎?」
「あぁ、耳しか見えなかったけど、こっちを見つけたみたいで、建物の方に逃げて行った。あの建物、完全な無人だな」
「なるほど・・・」
マタギとしての経験も豊富なスミレが言うのなら、間違いないだろう。
私はシゲミに合図を送り、こっちに来てもらう。
「あの建物、今は無人みたいなんだけど・・・」
そう言うと、シゲミもすぐに意図を察してくれる。
「・・・今のうちに中を確認しておけば、安心材料にはなるかも」
そうして私とシゲミが建物内を確認し、その間はスミレがこの丘から全域を監視することにした。
出来るだけ草を倒さないように、斜面を崩さないように、慎重に丘を降りていく。
何の理由もなく軍のトラックがこんな所まで来るわけがない。あの建物の中には何があるのか。状況的に、松島大佐のウイルス散布に関係するものだろう。
そして草地を抜けて、建物に近づいたとき、後ろから付いて来ていたシゲミから小声で警告が飛ぶ。
「ミチヨ、動かないで!」
ピタリと動きを止め、慎重に振り返ると、シゲミは顔を地面すれすれにまで下げて、真横から地面を見るようにしていた。
「何か埋められてる。多分、地雷じゃないかと思う・・・」
私も恐る恐る顔を下げて、シゲミと同じように地面を見ると、かすかに円形の凹凸が見て取れた。それも一つや二つではない。
私は深呼吸をして、震えだしそうになる体を無理やり落ち着かせる。
「シゲミは戻って。私は建物の中だけ確認する」
シゲミは何か反論しようとするが、この状況で二人で行動する意義は薄い。渋々といった感じで頷く。

シゲミが草地の所まで戻るのを待って、私は地雷の位置を確かめながら、地面を這うようにして、建物のコンクリート製の土台部分にまで辿り着く。
だが、ここにも罠が仕掛けられているかもしれない。そう思いながら、細いワイヤーのようなものが張られていないか注意しながら、土台部分を半周して、建物への入り口に回り込む。
建物とは言っても、もうドアも窓もなく、ただコンクリート製の枠組みだけが残されているような状態だ。
その階段を一歩一歩、慎重に降りていく。半地下の空間にはまだ温められていない空気が淀んでいた。
そして大して広くもない空間は窓枠から差し込む明かりで、仄かに照らし出されていた。
その真ん中には緑色の防水テントが無造作にかけられた、木箱の山があった。よく軍が物資の配給で使っているのと同じものだった。
防水テントの新しさや、床に残る無数の足跡から、トラックはこの物資を運び込んだのだろう。
私は防水テントには触れずに、慎重に木箱を覗き込む。すると、そこに一本の細い光の筋が見えた。
「ワイヤーか・・・」
目で追うと、防水テントの裏側から、木箱の中へとピンと張られている。
物資を取ろうと防水テントを剝ぎ取ると、木箱の中の爆発物が起爆するという仕掛けだろう。
私は来た時と同様に、スミレとシゲミが見守っている地点まで慎重に引き返す。

こんな狭い室内に爆発物を仕掛けても、被害人数はせいぜい5、6人だ。だがこの建物の片方には沢山の地雷が埋められている。
これはソ連軍に対する罠だ。建物内の爆発でパニックを起こさせ、さらに地雷によって、進行方向を制限する。無理に直進する必要はないのだから、ソ連軍は容易に誘導されるだろう。そして、その誘導された先には、気象観測所がある。つまり、ウイルス散布地点は気象観測所だ。
その私の説に、二人も頷く。
「確かに爆発物や地雷で進路を誘導するのはありだと思う」
「じゃあ、ここは完全にハズレか。どうする?」
確かに地雷まで仕掛けた場所にわざわざ戻って来るとは思えない。でもそれは私たちの勝手な判断であって、私たちがここで監視をしていることの意義が全くなくなったとは言えない。個々の判断は往々にして戦術的失敗の元となる。
「監視を続けましょう。松島大佐の部隊が来なくても、ソ連軍の先遣隊が来るかもしれないし」
「一応、車道も使える状態だし、私もここで監視を続けた方がいいと思う」
「まぁ、二人がそう言うなら、あたしもそれでいいけど」
そうして意思を統一すると、私たちはまた、視線を分散させ、監視体制に入る。
日は高く昇り、じりじりと気温も上昇してくる。時折風に吹かれて揺れる草陰や蝉の声の背後に、わずかな変化がないか、私は改めて集中した。

朝からの単独、長時間の監視は、夕方になってようやく報われた。
陽が落ちかけた頃になって小型車両が近づいてくる音を聞き、木内は銃を確認する。
やってきた車には、思った通り、松島しか乗っていない。警備の兵に出迎えられて車を停めると、大きな黒革製の鞄を下げて降りて来る。松島は警備の兵とわずかに言葉を交わし、彼らが気象観測所から出て行くと、それと入れ替わるように、裏手の外階段から、建物の二階に入って行く。
松島には第731部隊内に、本当の意味での協力者はいない。松島は新型ウイルスの詳細は誰にも知らせず、一人で完成させたはずだ。当然、その散布も他人任せにはせずに、自ら行うはずだ。
それが木内の読みであり、勝機でもあった。
警備の兵の乗ったトラックの音が遠ざかるのを待って、木内は足早に外階段を上り、松島を追う。そして、廃墟となった気象観測所の中を悠然と歩く松島に銃を向けた。
「大佐」
松島はその呼びかけに、驚く様子も見せずに、振り返る。
「君一人かね。だとすれば、わざわざ小細工を弄した甲斐もあったというものだ」
拳銃を向けられているというのに、松島は平然としている。
「それが、あ号ウイルスですね?」
「その通り」
そうして松島は床に鞄を置くと、自慢気にそれを開けて見せた。
中には500mlほどのガラス瓶が一本だけ入っていた。中身はかすかに白味がかった懸濁液だ。おそらく、あ号ウイルスを充満させた細胞が無数に浮遊しているのだろう。
「これが世界を変える第一手だ。この瓶を壊せば、私も君も確実にウイルスに感染する。慎重に行動してくれたまえ」
「大佐、その鞄から離れてください」
「そうはいかん。このあ号ウイルスは私の命よりも大事なものだ。そういう君こそ、銃を降ろしたまえ。私は君を殺すつもりなどないんだ」
松島がそう言うと同時に、音もなく背後から伸びた手がのび、木内の銃口が横に逸らされ、首筋に冷たい鉄の感触が押し当てられる。銃口だ。
「木内中佐、お静かに」
耳元で男がささやく。
木内は咄嗟に体を捻って銃口を交わすと同時に、足を絡めて相手の体勢を崩そうとする。
だが背後の男はわずかに体を引いて、易々とかわす。握ったままの手首を捻ると、腕の関節を決めて、木内を押し倒してしまう。
「くっ・・・」と息が漏れる。
木内が次の一手を繰り出す前に拳銃は跳ね飛ばされ、腕を極められた状態で、カチリと金属の輪が両手首を締めあげた。
「どういう風に思っていたかは知らんが、私もそのくらいの用心はするということだよ」
勝ち誇るでもなく、淡々と言うと松島は鞄を閉じる。
「まぁ、変な気は起こさずについて来たまえ。いいものを見せてやろう」
そう言って松島は歩いて行き、木内は手錠を掛けられたまま、その男に連行される。

行きついた場所は、外部からも見えた、巨大な縦穴のふちだった。
そこは屋根も壁もあちこちが崩落しており、外の景色がよく見渡せた。縦穴の真ん中には作業用の足場が渡されているが、それも錆びだらけで、今にも崩れ落ちそうだった。そして底の方は外部と通じているのか、わずかな上昇気流と、水の匂いが感じられた。
そしてそこに鉄板で覆われた無骨な機械が据え付けられていた。
「これがウイルス散布装置だよ」
振り返った松島がポンポンと叩きながら、紹介する。
「これには時限装置を組み込んである。ソ連軍がここに到達する頃に、丁度散布が開始される」
木内は目的のものを目の前に、拘束を抜け出そうとするが、単純な力比べでは敵うはずもない。
「みっともない真似は止めたまえ」
松島は不快そうに言うと、連行していた男に目配せをする。
「木内君のことはそこの柵にでもつなげて、君も戻りたまえ。ご苦労だった」
そう指示されると男は一度片方の手錠を外して、古びた鉄柵に通してから、はめ直す。そして手錠のカギを松島に渡してから去っていく。
そうしてその場に二人きりになると、松島は何気ない手つきで散布装置の扉を開けて、ウイルスの瓶をはめ込んだ。
木内は目を見張るが、松島はかすかに笑う。
「安心したまえ。まだ作動はさせない。今一度、君とは話がしたいと思っていてね」
そう言いながら、松島はしっかりと装置の扉に鍵を掛ける。これでいつでも散布可能ということだろう。
「君が第五病院に残してきた置手紙を読ませてもらったよ。そこには記録はすでに移送済みとあったが、あれは嘘だね?」
それはごく当たり前のことを確認する口調だった。
「どうして嘘だとお思いになるのですか?」
「君があそこに赴任してからの5年間に渡る膨大な資料、活動記録、人員名簿。そのようなものを安全、確実に保管して置ける場所など、君の手元以外には存在しない。君の収集した資料は、病院の地下に埋設されている。違うかね?」
「・・・その通りです」
木内は観念したように言う。
「では我々の利害は一致している」
松島は我が意を得たりと頷く。
「ウイルスを散布すればソ連軍も異常を察知し、進軍速度は鈍る。その間に資料を回収して、後年、公表することもできるだろう。だが、ウイルス散布を阻止すれば、ソ連軍を妨げるものは何もなく、電撃的に侵攻して来る。対する陸軍は焦土戦術を取らざるを得なくなり、その過程で第五病院も爆破され、君の資料は永久に失われる」
松島は言葉を区切り、木内の反応を確かめるようにした。
「君や君の部下たちが命がけで集めた資料が、何も知らない者たちの手で無に帰するとは、なんとももったいない話ではないかね。つまり現状は、二人とも成功するか、二人とも失敗するかなんだよ」
「・・・小隊員や病院の皆さんには申し訳ないですが、私は過去を断罪することよりも、未来を守ることを選びます」
「そうかね。その判断によって731は今後30年以上に渡って秘匿されることになる。中枢にいた者は裁きを受けることもなくのうのうと暮らし、末端にいた者は誰にも言えぬ苦しみを抱え続けることになる。そしてようやく口が開けるようになった頃には、全貌は闇の中だ。それでいいのかね」
松島は木内の苦悩を見透かしたように言う。
「第731部隊に所属している大佐がそのようなことをおっしゃるのですか」
「私はもう731などには興味はない。用済みだからね。私にはもう軍も国も関係ない。私がこれから相手をするのは世界だからね」
そうして松島が散布装置を操作しようとした時、銃声が響いた。
それは立て続けに二発目、三発目と響き渡る。
木内が腰の後ろに隠し持っていた、もう一丁の小型拳銃をようやく抜き取り、体を捻って後ろ手のまま撃ったのだ。
松島の腹部から、鮮血があふれ出る。

監視場所の交代のために立ち上がった私は、ふと立ち止まり、気象観測所の方を見た。折からの風に乗って、『タン、タン、タン』と聞こえたような気がしたのだ。今のはもしかして・・・
とりあえず私はシゲミの待つ木陰に入り込むと、合図をしてスミレを呼ぶ。
「どうした?」
「今、銃声みたいなのが聞こえて・・・」
「銃声?」
それが聞こえたのは、私がたまたま立ち上がっていたからだ。草の中にうつ伏せになっていたスミレや木陰にしゃがみ込んでいたシゲミに、あの微かな音が聞こえたとは思えない。
「・・・だったと思う。風に乗って、気象観測所の方から」
時間的にも松島大佐が何か行動を起こしていてもいい頃だ。
「だったらもう、行くしかないよな」
「そうだね」
スミレが言うと、シゲミもすぐに同意して、鞄を担ぎ直す。
これで二度目の任務放棄か、と罪悪感がちらつく。一度目は避難隊への合流を放棄して、木内婦長のもとに戻ってきたこと。そして今度は監視を任された場所を放棄して、何があったかも分からない状況で駆け付けようとしていること。
でもあの音は確かに銃声だった。それを見過ごすなんてできない。私たちは地図を確認すると、気象観測所へと急ぐ。
「私が木内婦長に説明しますから」
「あたしが婦長に怒られてやるよ」
「私がきちんと謝りますから・・・」
私たちは同時にそう言った。

「さすがに君は一筋縄ではいかないね。だからこそ私の敵にふさわしい」
松島は脇腹を押さえながらも、木内に掴みかかって来る。木内は小型拳銃を撃とうとするが、存在を知られてしまえば、不自然な体勢のなか、そう当たるものではない。不意打ちとはいえ、一発当たっただけでも奇跡に近い。
松島は小型拳銃をもぎ取ると、手錠の鍵と一緒に、縦穴へと投げ捨てた。数秒後にドボンという水音が聞こえた。
「まったく・・・ 君のことは解放するつもりだったが、そうもいかなくなってしまった。私が死ぬ以上、君にはここに残って、感染源となってもらう。誰もいない所で無駄に散布されるわけにはいかないからね」
そうして散布装置をいじると、低いモーター音が聞こえてくる。
「君のことだから、あ号ウイルスのことは記録済みだろう。あとは実践で使用されたという事実があれば、私の名は世界を変えた者として残ることになる」
松島はよろめきながら、その場に腰を下ろす。「ここまで、長かったよ」そう呟いた松島の脳裏には様々な記憶が浮かんでいた。

フランス、ドイツ留学時代の屈辱的な日々。『黄色い未開人』と嘲笑され、ウイルス学の論文を盗用された時には、抗議しても相手にもされなかった。
実験動物のサルから新型ウイルスを分離した時は、当然誰にも言わなかった。これは使えるという直感があったのだ。実験動物の管理だけを押し付けられていたのは、むしろ好都合だった。
そして動物実験が完了した時、次の研究先として目を付けたのが、石井の第731部隊だった。石井たちは、確かに欧米から笑われてしかるべきレベルだったが、だからこそ功を焦っていた。わずかに助言を与えるだけで重用され、自由に研究を進めることができた。
その中で知った、木内と第一特務救護小隊の存在。
松島の執務室の引き出しには、第一特務救護小隊設立時の集合写真と、設立概要、訓練内容をまとめた資料が入っている。
松島は第一特務救護小隊に対して、『不合理』『机上の空論』と否定しながらも、気付けば資料がボロボロになるまで読み込み、至るところに書き込みを加えていた。
それは松島が生涯をかけた新型ウイルスの対極にありながらも、松島の追い求める理想の形の一つだった。

「ところで・・・」
松島は力なく、顔を挙げた。
「避難隊は高岡君が指揮しているようだが、本当に300人からの、いや、道中もっと膨れ上がっているはずの避難民をさばき切れると思っているのかね」
それは以前にもした質問だった。
「それは・・・」
木内自身、それは絶望的だと考えていた。木内のとった作戦は自己弁護にもならないような悪あがきでしかなかった。だが、高岡はそうと知りながら、指揮官を引き受けてくれた。負けると分かっている戦いの矢面に立ってくれたのだ。
それなのに、最初から避難は不可能だったなどとは、口が裂けても言えない。
だがその感情は松島には伝わったようだ。
「・・・君はまだ読みが甘い。君では避難民は助けられない。 ・・・私の勝ちだ」
松島は最後ににやりと笑うと、静かに息を引き取った。

その時、高岡は決断を迫られていた。
日は傾き、暑さは和らいだものの、食糧も飲料水も尽きている。道端に座り込む避難民の顔からは、皆一様に生気が失われている。もう子どもの泣き声さえも聞こえない。看護婦ですら疲労と空腹、渇きで足元が覚束ない状態だ。隊列はすでに崩れ、どのくらい伸び切っているのかも分からないほどだ。
ここまで1週間もかけて歩いてきたが、ソ連軍は早ければ二、三日で到達するだろう。
全員で避難するのは不可能だ。
最初から分かっていたはずの現実が付きつけられる。
この時点で避難隊の解散を宣言すれば、まだ自力で動ける者は助かる可能性がある。だがそれは、大部分の患者や避難民を見捨てることに他ならない。
今日だって、途中で諦めて道端に座り込む人々を何とかなだめながら、ここまで連れて来たのだ。皆、肉体的にも精神的にも限界だろう。そんな彼らを連れて行くのは、ともすれば自分のエゴではないかとさえ思えてしまう。
最後は一緒にという思いなのか、我が子を抱きしめている母親がいる。もう進むつもりはないのか、自分の衣服や履物まで若者に分け与えている老人がいる。空の水筒を手に、無力感に打ちひしがれている看護婦がいる。
婦長ならばもっとうまくできたのかもしれないが、自分ではこれが限界か・・・
高岡が立ち上がり、避難隊の解散を宣言しようとした時、遠くに軍用トラックの影が見えた。
始めは見間違いかと思ったが、夕日の逆光のなか、その影は少しずつ大きくなっていく。しかも、見る間にその数は増え、土煙を挙げながら、真っ直ぐにこちらに向かってくる。
この時期にあれだけの数の軍用トラックが稼働できるとは信じ難かった。
先頭のトラックのヘッドライトが短く二度、長く一度、瞬いた。
高岡は腰のカーバイドランプを掲げると、相手は誰か分からないままに、同じように信号を返した。
憲兵隊だろうか。今更、軍規違反で追ってくるとも思えないが、それならそれで構わないという思いもあった。
やがて夕日の中に、物資を満載した軍用トラックが10台以上もずらりと並ぶ。あまりに非現実的な光景に、避難民たちは誰もが声を上げずに、ただ茫然とその様子を見守っていた。
運転台から次々と降りて来たのは、20人ほどの野戦服姿の男たちだった。鋭い目つきと全く無駄のない動き、無言のまま整列する姿は、訓練されつくした特殊部隊のようだった。
高岡が全責任を取るつもりで彼らの前に進み出ると、向こうからも指揮官らしき男が進み出て来る。彼は軍帽の庇を押さえ、高岡に敬礼を送る。
「我々は第一特務救難医師団です。高岡副婦長の指揮下に入るよう命令されてまいりました。これが物資のリストです。ご指示を」
手渡されたリストは詳細で、食糧、水、医薬品から衣料や燃料まで、避難隊に必要な物を網羅していた。
「命令されたって、誰に・・・」
リストから目を上げ、呆然と尋ねる高岡に対し、指揮官は誇らしげに答えた。
「松島大佐です」

私たちは丘の麓を走り、ようやく目的の気象観測所だった廃墟に辿り着いた。
今のところ人影は見えず、静かなものだ。
すぐに入り口に駆け寄るが、鉄製の扉には鍵が掛けられ、びくともしない。近くの窓にはまった格子は錆び付いているが、まだしっかりとしていた。
「どこか入り口は・・・」
あれから銃声が聞こえることはなかったが、何が起きたのだろうか。それが分からないだけに、気ばかり急いてしまう。
私たちは壁沿いに入り口を探す。途中の窓には全て鉄格子がはまっていたし、ドアには鍵が掛かっていた。
その中で、シゲミが壁を指さす。
「あそこ、隙間ができてる」
シゲミが壁板のふちを押すと、ギシ、と小さく動いた。二階部分の崩落の影響で、歪みが生じたのだろう。
「ここなら入れそう」
「よしっ・・・」
スミレが思い切り壁の金属板を引くが、通れるほどには開かない。そして手を離せばすぐに戻ってしまう。
「ダメだな」
「私も手伝うから、シゲミが入って」
私がそう言うと、シゲミは首を振る。
「中に入るのはミチヨの方がいい。ミチヨの方がいざという時の対応力がある」
そう言って、スミレと一緒に隙間を開けるために壁に手をかける。
「・・・分かった」
今は時間をかけて考えている暇はない。私はすぐに鞄を降ろし、身構えた。
「いくよ。せーのっ!」「ふー・・・!」
二人が力を合わせた瞬間に、私は思い切って壁の隙間に滑り込む。壁のふちが少し背中に引っ掛かるが、気にしてはいられない。
薄暗い中に転がり込んだ直後に、二人が手を離したのか、ボンと壁が元に戻る音がした。
「大丈夫か?」とスミレが壁の向こうから尋ねてくる。
「うん」
「良かった。早く行って」
「あたしたちも何とかして行くから」
「分かった」
そうして私は一足先に、薄暗い廃墟の中を歩きだした。

一階部分は暗く、壁のあちこちの歪みから細く差し込んでくる光だけが頼りだった。目が慣れてくると、廊下の隅に寄せられた机や木箱、空になった棚などが見えて来る。光の差している範囲内には足跡などは見られない。大声で木内婦長を呼びたくなるが、他に誰かが潜んでいないとも限らない。
私は足音を押さえながら、階段を昇った。
二階部分は壁が崩落しているので、夕日に照らされていた。風雨に晒され続けたため、壁際には砂が溜まり、そこから草が生えていた。
その壁沿いに進むと、大きな縦穴のある、別の建物が見えて来た。
その縦穴の向こう側には廃墟には場違いな大きな機械があり、その近くには男女の姿があった。
男性の方は床に倒れているが、女性の方、木内婦長は手を後ろに回して、ぐったりと座り込んでいるだけのようだ。
「木内婦長!」
窓枠越しに叫ぶと、木内婦長はすぐに顔を上げた。怪我をしているわけではなさそうだ。
だが、こちらと木内婦長がいるところには三メートルほども隙間が空いている。到底、跳び越えられる距離ではない。
「布村さん、来ないで!」
何か向こうへ行く方法はと、考えていると、木内婦長が立ち上がり、制止してくる。両手を手錠で柵につながれているようだ。
「ウイルス散布装置が作動しています。早く逃げて!」
「でも・・・」
いくらウイルスの散布が近いとはいえ、ここまで来て木内婦長を見捨てるなんてできない。
だが木内婦長は、躊躇する私に更なる要求をしてきた。
「・・・布村さん、拳銃は持っているわね。それで私を撃ちなさい」
「はい?」
「もうすぐウイルスが散布されます。その時に生きている人間がそばにいれば感染し、ウイルスが増殖して次の感染源になります。生きている人間がいてはならないの。私を撃ってから行きなさい!」
そう言って木内婦長は、縦穴の中央に渡された錆びだらけの足場を、こちらに2メートルほど進む。
わずかに近くなったが、それ以上は手錠の鎖が柵に引っ掛かって、こちらに来ることはできない。
「早く! 散布されればどうせ死ぬんです! 今死ねばウイルスの感染を抑えることができます!」
それは生体への感染力は極めて強いが、環境中ではそれほど長い間生存できないということなのだろうか。だからと言って、木内婦長を撃つなんて・・・
そう躊躇っていると、木内婦長はしびれを切らしたように命令してくる。
「布村さん、拳銃を出しなさい!」
私は命令に従って、上着のポケットに手を入れて、拳銃を取り出した。
「構えて!」
私は拳銃を両手で握りしめ、ゆっくりと銃口を上げた。
「撃ちなさい!」
木内婦長はそう命令するが、私は指を動かせなかった。
「でも・・・ 他に方法は・・・」
「他に方法などありません! その銃は飾りで与えていたわけではありません! 銃の使用には躊躇するなとも言ったはずです!」
「ですが・・・」
「・・・最初に会った時のことを覚えていますか。あなたは助かる見込みのない兵が自死を望んでいたら、どうすると答えました?」
その時、私は自分の手で毒薬を渡して、自死させると言ったのだ。私はそれだけの覚悟をしていたつもりだった。
「今がその時です。私はウイルスの媒体としてではなく、きれいなまま、あなたの手で死にたいのです。 ・・・お願い」
私は木内婦長の目に、光るものを見た。
一発の銃声と、カーンという金属音が響いた。
私の銃弾は木内婦長のいる足場のどこかに当たったようだ。
「もう一度。よく狙って」
木内婦長は全く動じることなく、優しく言う。その優しさが、私にはつらかった。
「涙を拭いて。最後に立派な姿を見せて頂戴」
「・・・はい」
私は二発目を撃ち、木内婦長は胸から血を流し、膝から崩れ落ちた。
「ありがとう・・・ 早く行きなさい・・・」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、木内婦長の立っていた足場が、ギシリと傾き、轟音と共に崩落する。そして大きな水音が廃墟の中に反響する。

「ミチヨ! どこ!?」
「大丈夫か!?」
拳銃を持ったまま、呆然として水音を聞いていた私は、駆け寄って来た二人の声で我に返った。
「もうウイルスが散布されるかもしれない。早く逃げないと!」
私たちはすぐに廃墟の中を引き返し、鉄骨を噛ませて広げた壁の隙間から外に出る。
そしてそのまま最後に泊まった集落跡まで一目散で逃げ帰った。その間、スミレもシゲミも、廃墟の中で何があったのか聞かなかった。銃声も聞こえたはずだし、大体の察しは付いているだろう。
やっと集落跡まで戻って来て、息が整ってくると、今度は木内婦長を殺してしまったという罪悪感が襲ってくる。
「あ、あの・・・ 私が、木内婦長を、撃ったんだ・・・」
二人は何も言わずに、小さく頷いた。
「ウイルスがもう散布されるからって・・・ 生きている人間がいたら、ウイルスが増殖するからって・・・」
うなだれる私の肩に、手が回された。
「ミチヨ・・・ 最後に大変な役目、させてしまったな・・・」
そこにもう一つの手も重なる。
「ミチヨは何も悪いことはしていないよ。ミチヨの判断は、私たちの判断だから・・・」
そう言われ、私も二人の肩に手を回す。
この感覚はいつ以来だろうか。私が折れそうになっても、二人が支えてくれる。
一人だったなら感情を押し殺していただろう。
でも私には二人が付いている。二人がそばにいるからこそ、流せる涙がある。
私は二人に支えられながら、思い切り泣いた。
それは自分の中で折り合いをつけるための第一歩だった。
そうしてひとしきり泣いた私は、涙を拭って顔を上げる。二人の妹を見守るような顔が照れ臭かった。
「・・・馬、見て来る」
そう言って、先頭に立って村の馬小屋に向かう。
だが、そこにしっかりと繋いでおいたはずの馬はおらず、地面の蹄の跡だけが、場所を間違えたわけではないと告げていた。
『どうして・・・』と一瞬、絶望が広がりかけるが、隣の納屋の陰に鈍く光るものを見つけた。
木内婦長と吉川さんが乗って来た、サイドカー付きのバイクだ。
「これ、使えない?」私が広い所に出そうとすると、スミレも手伝ってくれる。
「でも、吉川さんが使うんじゃ・・・」とシゲミが言うが、スミレは「いや、使わせてもらおう」と、サイドカー部分の石を乗せられた紙を見て言った。
そこには吉川さんからの注意書きがあった。

『低品質な燃料のせいで最初は吹け上りが悪い。アクセルはゆっくり。
・・・ある物は何でも使え』

私は最後までそつのない吉川さんのことを思って、胸が熱くなった。
「これで生き延びろってことなんだね」
シゲミもそう言って頷いた。
私は吉川さんの置き手紙を折り畳むと、胸ポケットに入れた。
「スミレ、バイクの運転もできる?」
「いや、やったことない・・・」
「私、エンジンの掛け方なら覚えてるかも・・・ 陸軍病院時代に教わったんだ・・・」
そう言いながら、シゲミがバイクの横にしゃがみ込む。
「キーはここで、ギアがこれ、チョークはこれで、キックペダルはここ・・・ うん、大丈夫、覚えてる」
「その後は?」
私がそう聞くと、シゲミは首を振った。
「怖いから、乗ったことはない・・・」
「じゃあ、運転はあたしが何とかするよ。ハンドル持ってるだけでいいんでしょ?」
スミレは胸元の熊の牙のお守りを握りながら言う。
「ミチヨはサイドカーに乗って、カーブの時にバランス取って。サイドカーの方に振られるはずだから」
「分かった」
そうしてシゲミはシートの先端部分に腰を下ろして、手早くエンジンを操作する。
「これでいいはず。ペダルを蹴って」
シートの後ろの方に座ったスミレは、シゲミを抱えるようにハンドルを握り、キックペダルを体重をかけて踏み下ろした。
濁ったエンジン音が響き、灰色の排気が吹き出る。
「おぉ・・・」と三人の声が重なる。
「後はクラッチを入れてから、アクセルを回せば・・・」
シゲミがそう言った途端、バイクはガクンと跳ねて止まってしまう。
「・・・なるほど、そういうことね」
再びシゲミは操作して、エンジンを掛けてもらう。
「もう一度。アクセルはもっとゆっくり回してみて」
「このくらい?」
スミレが慎重にアクセルを回すと、ガタガタ鳴っていたエンジンが安定し始める。そしてゆっくりとバイクが動き始める。
「やった。あとはお願いね」
「任しときな。行くよ!」
乾いた道に、三人を乗せたバイクが灰色の排気を吐き出しながら走っていく。
三人とも暑さではなく、緊張のせいで汗びっしょりだ。
「カーブだ。 ・・・行くよ!」
スミレが声を張って、ハンドルをぎゅっと握りしめる。
「きゃー! 倒れる倒れる!」
シゲミがバイクの本体にしがみ付くようにして叫ぶ。
「ちょっと! 急ハンドルすぎるって!」
私はサイドカーの中で中腰になって、外側に体重をかけてバランスを取ろうとする。
三人の声が入り乱れ、サイドカーの車輪をかすかに浮かせながら、バイクはカーブを曲がりきる。
「うん、何か掴めて来た」
「何も掴まなくていいから、安全運転してよ!」
「こんなことなら、私が運転まで習っておけばよかった・・・」
夕日の中、私たちのバイクは、笑いとも悲鳴ともつかない声を残しながら、ガソリンが尽きるまで走り続けた。
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