2-1. 依頼人カナ
11月上旬のとある土曜日のこと。突然の呼び出しを受けて日本大通りの某コーヒーチェーン店に赴いた菊池明と水晶を待ち構えていたのは、大人の姿に変化したカナだった。
「カナ!?」
「カナさん!?」
「まあ、聞きたいことは色々とあるじゃろうが、まずは座って茶でも飲め」
当惑を隠しきれずにその場に立ち尽くす2人に対して、カナは澄ました顔で自分の向かいにあるガーデンチェアを指差す。
明は一旦その場を離れると、カウンターでカフェオレとリンゴジュースを注文して受け取り、カナの待つテラス席へと引き返した。
水晶にリンゴジュースを手渡して席に着くと、カフェオレにガムシロップを注ぎながらカナに話しかける。
「まさか、鏡を介して思念伝達ができるなんてな。カナの声が聞こえた時は本気で驚いたぞ」
およそ1時間前、水晶と共に朝の公園を散策していたところ、何の前触れもなく、カナの声が頭の中に響いてきたのだ。
『明、聞こえるか!? お前さんに要件があるんじゃが、今からこっちに来れるか?』
『へっ!? カナ、だよな? 一体どこから』
『鏡、鏡じゃ! それは後で説明するから、とにかく水晶と一緒に来い! 場所は――』
そういうわけで、明と水晶は公園散策を切り上げて、横浜の観光名所であり、朝霧海事法務事務所にもほど近い日本大通りに向かったのである。
「言ったはずじゃろう、あの鏡は海と繋がっておると」
カナが、フレーバーティーをストローでかき混ぜながら解説する。フレーバーティーの量があまり減っていないところを見ると、店に来てそれほど時間は経っていないらしい。
「海から離れぬ限りにおいては、例え地球の反対側にいようと、わしとお前さんは鏡を介して意思疎通を図ることが可能となるのじゃ」
「つくづく、とんでもねえ鏡だな……」
先月、東京湾で発生した〈海異〉への対処の過程で、カナは衆人環視の中、無限の力を秘めた魔性の鏡、〈海原之氷面鏡〉を創造し、明に託していた。とはいえ、あえて呼び出さない限りはその姿を見る事も、気配を感じる事すらないため、日常生活においては完全に意識の外に置いていたのだ。
明は、落ち着かない気分で頭の後ろを掻きながら、鏡の次に気になる点について遠慮がちに切り出してみた。
「鏡の事はそれで分かったけどさ、どうしてまた、大人の格好で……」
カナが大人の姿にもなれるという事実については、特に驚いていない。カナに限らず、実体を持たない怪異や妖の姿形というのは、あくまで仮の姿に過ぎず、本人の気分や状況次第で簡単に変わるものだという事は、怪異に関わる人間にとっては常識の範疇の話に過ぎない。
明が気にしているのは、今目の前にいるカナの背格好である。外見年齢はおおよそ20代前半、褐色の肌と青色の入れ墨、金色のピアスやチョーカーはそのままで、ウェーブのかかった豊かな白髪はヘアクリップですっきりとまとめられている。服装は、長袖のシャツと膝よりも短いタイトスカートにハイヒール、極めつけに赤縁の眼鏡という、服嫌いを公言し、ゆったりとした服しか身に着けない普段のカナからは想像もつかないものとなっていた。
「ふふん、これか?」
カナが、何故か得意気な顔になって赤縁の眼鏡をクイッと掛け直した。
「これはだな、依頼人としてふさわしい形を整えたというまでよ。ほれ、人間というのは、礼儀やら作法やらの『形式』を重んじる社会的な生き物なんじゃろう? 大海の支配者たるもの、人間の流儀に合わせる程度の事は出来て当然というものじゃ」
「うん、まあそうだな、その通りだな」
明は曖昧に頷くと、自分が身に着けている服を一瞥し、さり気なく周囲を見渡してみる。
ボサッとしたトレーナーとズボン、スニーカーというパッとしない見た目の若者と、どこぞの女教師か某法務事務所の秘書といった風情の女性。傍から見ると、どのような関係に見えるのだろうか。そんな疑問が頭に浮かんだものの、カナがすぐに本題に入ったため、それきり頭の中から消えてしまった。
「というわけで、明。わしからお前さんに、正式な依頼じゃ」
カナが、ビシッと背筋を伸ばした。それにつられて、明も、横で話を聞いていた水晶も、姿勢を正してカナの言葉を待ち受ける。
カナは、取っ手付きのファイルケースの中から1枚の画用紙を取り出すと、スッと明の前に差し出した。
「昨日、不審な陸鳥が事務所の様子を伺っておった。こやつの正体を突き止め、目的を吐かせてやってくれぬか」
「鳥……」
「鳥ですか……」
「こやつが海鳥なら、まだやりようがあるのじゃがな。わしは陸の事情には疎いし、それでなくとも、海から離れると力が発揮できぬのじゃ。だから、お前さんらに……。なんじゃ、この絵がそんなに気になるか?」
カナは、画用紙をしげしげと見つめる2人の様子に気がつくと、はたと思い出したように説明を付け加えた。
「いやなに、わしほどの者ともなれば、念写くらいは余裕で使えるのじゃよ。ただ、念写で絵を創ると、それはそれで扱いが面倒になってしまうからのう。そういう訳で、妖力も使わず、何時間もかけて手描きで仕上げたのじゃ。わし渾身の作品、ありがたく頂戴するがよい」
「うん、ありがとう」
明は慌てて頷くと、軽く咳払いをして、依頼人に対する聞き取り調査を開始した。
「この鳥の正体に心当たりは? 今までにも見かけた事はあるか?」
「無い。見たのも、昨日が初めてじゃ」
「霊力が強いだけの普通の鳥か、霊獣か、それとも怪異化してるのか、その見当はつくか?」
「距離も遠く、一瞬のことではあったが、はっきりとした意思を感じたな。霊獣という感じもせんかったし、幽世寄りの存在と考えて良いじゃろう」
「こいつは、この街に住んでいると思うか? 既に街を出ていたら、探すのは難しいと思うぞ」
「構わぬ。できる限りの事をやってくれ」
明は、カナが陸鳥を発見したときの状況や印象、その他の細々とした情報を全て聞き出すと、最後に最も重要な事を確認した。
「この話は、朝霧にはしたのか?」
「しておらん。あやつに、余計な心労を負わせたくない」
「了解した」
明は、水晶と顔を見合わせて頷くと、真剣な表情でカナに向き直った。
「朝霧は、俺の大事な友人だ。事務所を探ろうとしている存在がいるとすれば、俺としても看過するわけにはいかない」
「私もです。まりかさんはもちろん、事務所に住んでいるキヌちゃんやタマちゃん、トネちゃんの生活を脅かそうとする何者かがいるというのなら、全力で排除します!」
「うむ! 任せた!」
ふたりの心意気に、カナは大いに満足したという表情で頷いた。
そこへ、明が何気ない口調で疑問を投げかける。
「そういえば、朝霧は今どうしてるんだ? 休日はいつも、ふたり一緒にいるものとばかり思ってたけど」
「……まりかは、今日は大学の同窓会とやらで夕方までおらん」
カナの表情が、とてつもなく微妙なものへと変化した。
「…………」
それきり無言のまま、残りのフレーバーティーを一気に吸い上げると、ガーデンチェアから立ち上がり、眼鏡の奥からギロリと明を睨めつける。
「言い忘れておったがな。まりかには、お前さんらとこうして会っている事だけではなく、鏡を介して思念伝達が可能な事も、わしが大人の姿に変化できる事も、一切話しておらん」
「えっ、そうなのか」
「ああ、そうじゃ。だから、くれぐれも内密にな」
カナは、陰が差した金色の瞳で明に念押しすると、ハイヒールの音を響かせながら去っていった。
明は、大人になったカナのすらりとした後ろ姿を見送りながら、依頼という割には調査費用や対価の話が出なかった事に初めて気がつく。
(まあ、お小遣いもそんなに沢山は貰ってないのだろうし、別に良いか……)
明は、イチョウの木と歴史的建造物が立ち並ぶ日本大通りの風景に視線を移すと、さて何から手を付けたものかと、甘いカフェオレを片手に思考を巡らせる。
「我が主よ、この絵なのですが……」
水晶が、陸鳥の絵を見ながら困惑顔で明に話しかけてきた。
明は、絵が描かれた画用紙を手に取ると、微笑ましい思いで表面をトントンと優しく叩く。
「俺も絵にはあんまり詳しくないけどさ、特徴はしっかり捉えられてるし、調査に支障はないよ」
秋の柔らかい陽光が降り注ぐ中、クレヨンと色鉛筆を駆使して描かれた「前衛的な」陸鳥の絵が、キラキラと輝いていた。
「カナ!?」
「カナさん!?」
「まあ、聞きたいことは色々とあるじゃろうが、まずは座って茶でも飲め」
当惑を隠しきれずにその場に立ち尽くす2人に対して、カナは澄ました顔で自分の向かいにあるガーデンチェアを指差す。
明は一旦その場を離れると、カウンターでカフェオレとリンゴジュースを注文して受け取り、カナの待つテラス席へと引き返した。
水晶にリンゴジュースを手渡して席に着くと、カフェオレにガムシロップを注ぎながらカナに話しかける。
「まさか、鏡を介して思念伝達ができるなんてな。カナの声が聞こえた時は本気で驚いたぞ」
およそ1時間前、水晶と共に朝の公園を散策していたところ、何の前触れもなく、カナの声が頭の中に響いてきたのだ。
『明、聞こえるか!? お前さんに要件があるんじゃが、今からこっちに来れるか?』
『へっ!? カナ、だよな? 一体どこから』
『鏡、鏡じゃ! それは後で説明するから、とにかく水晶と一緒に来い! 場所は――』
そういうわけで、明と水晶は公園散策を切り上げて、横浜の観光名所であり、朝霧海事法務事務所にもほど近い日本大通りに向かったのである。
「言ったはずじゃろう、あの鏡は海と繋がっておると」
カナが、フレーバーティーをストローでかき混ぜながら解説する。フレーバーティーの量があまり減っていないところを見ると、店に来てそれほど時間は経っていないらしい。
「海から離れぬ限りにおいては、例え地球の反対側にいようと、わしとお前さんは鏡を介して意思疎通を図ることが可能となるのじゃ」
「つくづく、とんでもねえ鏡だな……」
先月、東京湾で発生した〈海異〉への対処の過程で、カナは衆人環視の中、無限の力を秘めた魔性の鏡、〈海原之氷面鏡〉を創造し、明に託していた。とはいえ、あえて呼び出さない限りはその姿を見る事も、気配を感じる事すらないため、日常生活においては完全に意識の外に置いていたのだ。
明は、落ち着かない気分で頭の後ろを掻きながら、鏡の次に気になる点について遠慮がちに切り出してみた。
「鏡の事はそれで分かったけどさ、どうしてまた、大人の格好で……」
カナが大人の姿にもなれるという事実については、特に驚いていない。カナに限らず、実体を持たない怪異や妖の姿形というのは、あくまで仮の姿に過ぎず、本人の気分や状況次第で簡単に変わるものだという事は、怪異に関わる人間にとっては常識の範疇の話に過ぎない。
明が気にしているのは、今目の前にいるカナの背格好である。外見年齢はおおよそ20代前半、褐色の肌と青色の入れ墨、金色のピアスやチョーカーはそのままで、ウェーブのかかった豊かな白髪はヘアクリップですっきりとまとめられている。服装は、長袖のシャツと膝よりも短いタイトスカートにハイヒール、極めつけに赤縁の眼鏡という、服嫌いを公言し、ゆったりとした服しか身に着けない普段のカナからは想像もつかないものとなっていた。
「ふふん、これか?」
カナが、何故か得意気な顔になって赤縁の眼鏡をクイッと掛け直した。
「これはだな、依頼人としてふさわしい形を整えたというまでよ。ほれ、人間というのは、礼儀やら作法やらの『形式』を重んじる社会的な生き物なんじゃろう? 大海の支配者たるもの、人間の流儀に合わせる程度の事は出来て当然というものじゃ」
「うん、まあそうだな、その通りだな」
明は曖昧に頷くと、自分が身に着けている服を一瞥し、さり気なく周囲を見渡してみる。
ボサッとしたトレーナーとズボン、スニーカーというパッとしない見た目の若者と、どこぞの女教師か某法務事務所の秘書といった風情の女性。傍から見ると、どのような関係に見えるのだろうか。そんな疑問が頭に浮かんだものの、カナがすぐに本題に入ったため、それきり頭の中から消えてしまった。
「というわけで、明。わしからお前さんに、正式な依頼じゃ」
カナが、ビシッと背筋を伸ばした。それにつられて、明も、横で話を聞いていた水晶も、姿勢を正してカナの言葉を待ち受ける。
カナは、取っ手付きのファイルケースの中から1枚の画用紙を取り出すと、スッと明の前に差し出した。
「昨日、不審な陸鳥が事務所の様子を伺っておった。こやつの正体を突き止め、目的を吐かせてやってくれぬか」
「鳥……」
「鳥ですか……」
「こやつが海鳥なら、まだやりようがあるのじゃがな。わしは陸の事情には疎いし、それでなくとも、海から離れると力が発揮できぬのじゃ。だから、お前さんらに……。なんじゃ、この絵がそんなに気になるか?」
カナは、画用紙をしげしげと見つめる2人の様子に気がつくと、はたと思い出したように説明を付け加えた。
「いやなに、わしほどの者ともなれば、念写くらいは余裕で使えるのじゃよ。ただ、念写で絵を創ると、それはそれで扱いが面倒になってしまうからのう。そういう訳で、妖力も使わず、何時間もかけて手描きで仕上げたのじゃ。わし渾身の作品、ありがたく頂戴するがよい」
「うん、ありがとう」
明は慌てて頷くと、軽く咳払いをして、依頼人に対する聞き取り調査を開始した。
「この鳥の正体に心当たりは? 今までにも見かけた事はあるか?」
「無い。見たのも、昨日が初めてじゃ」
「霊力が強いだけの普通の鳥か、霊獣か、それとも怪異化してるのか、その見当はつくか?」
「距離も遠く、一瞬のことではあったが、はっきりとした意思を感じたな。霊獣という感じもせんかったし、幽世寄りの存在と考えて良いじゃろう」
「こいつは、この街に住んでいると思うか? 既に街を出ていたら、探すのは難しいと思うぞ」
「構わぬ。できる限りの事をやってくれ」
明は、カナが陸鳥を発見したときの状況や印象、その他の細々とした情報を全て聞き出すと、最後に最も重要な事を確認した。
「この話は、朝霧にはしたのか?」
「しておらん。あやつに、余計な心労を負わせたくない」
「了解した」
明は、水晶と顔を見合わせて頷くと、真剣な表情でカナに向き直った。
「朝霧は、俺の大事な友人だ。事務所を探ろうとしている存在がいるとすれば、俺としても看過するわけにはいかない」
「私もです。まりかさんはもちろん、事務所に住んでいるキヌちゃんやタマちゃん、トネちゃんの生活を脅かそうとする何者かがいるというのなら、全力で排除します!」
「うむ! 任せた!」
ふたりの心意気に、カナは大いに満足したという表情で頷いた。
そこへ、明が何気ない口調で疑問を投げかける。
「そういえば、朝霧は今どうしてるんだ? 休日はいつも、ふたり一緒にいるものとばかり思ってたけど」
「……まりかは、今日は大学の同窓会とやらで夕方までおらん」
カナの表情が、とてつもなく微妙なものへと変化した。
「…………」
それきり無言のまま、残りのフレーバーティーを一気に吸い上げると、ガーデンチェアから立ち上がり、眼鏡の奥からギロリと明を睨めつける。
「言い忘れておったがな。まりかには、お前さんらとこうして会っている事だけではなく、鏡を介して思念伝達が可能な事も、わしが大人の姿に変化できる事も、一切話しておらん」
「えっ、そうなのか」
「ああ、そうじゃ。だから、くれぐれも内密にな」
カナは、陰が差した金色の瞳で明に念押しすると、ハイヒールの音を響かせながら去っていった。
明は、大人になったカナのすらりとした後ろ姿を見送りながら、依頼という割には調査費用や対価の話が出なかった事に初めて気がつく。
(まあ、お小遣いもそんなに沢山は貰ってないのだろうし、別に良いか……)
明は、イチョウの木と歴史的建造物が立ち並ぶ日本大通りの風景に視線を移すと、さて何から手を付けたものかと、甘いカフェオレを片手に思考を巡らせる。
「我が主よ、この絵なのですが……」
水晶が、陸鳥の絵を見ながら困惑顔で明に話しかけてきた。
明は、絵が描かれた画用紙を手に取ると、微笑ましい思いで表面をトントンと優しく叩く。
「俺も絵にはあんまり詳しくないけどさ、特徴はしっかり捉えられてるし、調査に支障はないよ」
秋の柔らかい陽光が降り注ぐ中、クレヨンと色鉛筆を駆使して描かれた「前衛的な」陸鳥の絵が、キラキラと輝いていた。