2-7. 幕引き
〈水薙〉を収めた明が水晶と共に釣り船に舞い戻ると、ヘンリーが喉からひきつった声を出して後退りした。
化け物を見るような目つきで自分を見るヘンリーに対し、明は普段と同じ口調で話しかける。
「これで気が済んだだろ? すぐにカササギのところに案内するか、何か隠している事があるなら、今この場で話してくれ」
数珠を身体の前で構えつつも、嘘偽りない気持ちが伝わるように、真剣な眼差しで切々と訴えかける。
「できれば、脅すような真似はしたくないんだ。話せない事情があるなら、その事情を教えてほしい。何か、協力できる事が」
「そういう事じゃねえんだよ……」
怒気を含んだ声が、明の言葉を遮った。
怯えていると見えていたヘンリーの表情が、いつの間にか敵愾心に満ちたものへと変化している。
「さっきから黙って聞いてりゃあ、いかにも聖人ぶった良い格好しいの、歯が浮くような台詞ばかり並べやがって……!」
ヘンリーは腕を伸ばして明と水晶を交互に指差すと、口角泡を飛ばして喚き散らしてきた。
「いいかっ!? お前みたいな尻の青いガキが女の前で一丁前に格好つけてるのを見ると、むかっ腹が立つんだよ! 全身濡れ鼠になって泣きながら足元に這いつくばって命乞いでもさせねえと、腹の虫が収まらねえ!」
「……よく分かんねえけど、まだ続けるって事か?」
「当たり前だろ! その式神娘の前で無様を晒すのを見届けるまでは、諦めねえからな!」
「マジかよ……」
明はげんなりした。ヘンリーの言ってる内容はほとんどが理解不能だったものの、言葉による説得では情報を引き出すのは非常に困難であるという事だけは理解できた。
(霊力は意外と残ってるから、あと2回までなら付き合えそうだな。それ以上かかるなら、もう強硬手段に出るしかない)
明は、気の進まない思いで数珠を構え直した。
今の自分にとって最も優先すべきはカナの依頼の遂行であり、それはそのまま、朝霧まりかの身辺の安全に直結する。そのためなら、例え海洋怪異対策室の悪評判が世間に流布される事態になろうと、致し方なしである。
明は腹を括ると、水晶にも戦闘続行の意思を伝えようとした。
「水晶」
ところが、この僅か数秒後、高架下を流れる川を舞台にした一大活劇は、誰もが想像だにしなかった形で幕を下ろすこととなる。
「見てろ!」
ヘンリーは、くたびれたコートの内側からトランプの束を取り出すと、鮮やかな手つきで扇形に広げた。
「これは、カトリネルから昨日教わったばかりの」
「カトリネルって誰?」
「ヒイッ!?」
知らない女性の声が割って入ると同時に、この場にいる全員が、幽世から現世へと一瞬で引き戻された。
「現世!? 一体どうして」
驚愕しながら周囲を見回してみると、身体が半透明の女性が、川面から上半身だけを出してヘンリーを睨みつけているのを発見する。
「ウンディーネ!?」
「ナオミさん!」
「水晶、知り合いか?」
「はい」
水晶はこくんと頷くと、ナオミと呼んだウンディーネの方をしきりに気にしながら説明した。
「山下公園の噴水広場に、海から時々遊びに来ている精霊です。人間の愛によって実体を得たエリカさんほどではありませんが、それでも、精霊としてはかなり強い力を持っています」
「そういえば、朝霧が前にそんな話をしてたな。でも、まさかあの男と関係を持ってたとは……」
「私も、お付き合い中の男性がいるという事まではナオミさんから聞いて知っていたのですが、まさか、そのお相手が〈両替屋〉のヘンリーだったなんて……」
明と水晶が小声でやり取りする間にも、ヘンリーとナオミの間の空気は刻一刻と悪化していく。
ヘンリーが、哀れなほどに怖気づいた様子でナオミに訊ねた。
「ナオミ、いつからそこに?」
「最初からずっとよ!」
ナオミが、水でできた髪を振り乱しながら吐き捨てた。透き通った顔の内部では、その怒りを表すようにコポコポと水泡が沸き立っている。
「待ち合わせの時間よりも早く着いて公園を散歩してたら、あなたが水晶ちゃんを連れて歩いているのを見つけて、こっそり後をつけてみたのよ。訳ありっぽかったら静観してたけど、65番目だの298番目だの、挙げ句の果てに『昨日』ですって!?」
「そ、そうか……。いつもはゆっくりなのに、今日は早く来てくれたんだな、嬉しいぜ……」
「黙りなさいっ!」
ナオミが、ずいっと前に出た。その動きに呼応して、周囲の川面にざわざわと不吉なさざ波が立つ。
「もう一度聞くわ」
ナオミは、戦々恐々と身を縮こまらせるヘンリーに狙いを定めると、最初の問いを空恐ろしい声で繰り返した。
「カトリネルって誰?」
「申し訳ございませんでしたーーっ!!」
ヘンリーが、絶句するほどに見事な土下座を披露した。
直後、巨大な水塊がヘンリーに襲いかかり、抵抗する間もなく釣り船から掻っ攫われる。
「ゴボオッ!?」
高架すれすれまで高々と持ち上げられたかと思うと、すぐに反転し、1秒と経たずに川面に突き落とされた。
「ゴボボボボッ! 許してくれえ、ナオミ!」
「その名前、もういらない!」
「ゴボボボ、ゴボボッ!」
情けない悲鳴を上げながら川の中で激しく藻掻く怪異の男と、その男を般若の形相で水責めにする精霊の女。完全に置いてけぼりにされた明と水晶は、下手に口を出すわけにもいかず、ただただ傍観するしかない。
「これは、どうすればいいんだ……」
明は途方に暮れながら、水飛沫でぐっしょりと濡れた髪や顔をタオルハンカチで拭う。
そこへ、羽ばたき音と共に空から声がかかってきた。
「助けてやることはねえぜ」
「カササギ!?」
カラスよりひと回り小さい、長い尾羽を持つ白と黒のツートーンカラーの鳥が、大道芸の道具が入ったバッグの上に降り立った。
その鳥がカナの目撃したカササギであると直感した明は、前のめりになって詰問しようとする。
「お前、話を」
「せっつくなよ。状況が落ち着いたら、あのスケコマシに喋らせてやるから」
カササギは、びしょ濡れになったバッグの上で足踏みをして丁度良い位置を定めると、呑気に羽繕いをし始める。
「俺はレジーだ。お前は?」
「……菊池明だ」
少しだけ迷ったものの、明は正直に名乗ることにした。下手に隠したところで、公的機関に所属する人間の名前を調べ上げるなど、彼らにとっては朝飯前だろう。
続いて水晶も、渋々ながらも自己紹介をしようとする。
「水晶よ」
「いや、お前には聞いてねえから」
「なっ」
反射的に言い返そうとするも、主である明の手前、ギリギリのところで自制する。
(こいつの事だから、わざと私を怒らせて楽しもうとしているに決まってるわ。ここは、明様の式神として我慢しなくちゃ)
両翼をワナワナさせて怒りを堪える水晶をよそに、レジーは羽繕いを続けながら、ヘンリーという男について勝手気ままに解説する。
「65番目だの298番目だの、過去に付き合った女をさも得意そうに語ってただろ? まあ、あいつが女を惑わす事に長けているのは確かなんだがよ、その後がいけねえ。何せ、今まで何千人という女と付き合ってきて、最後にはその全員から捨てられてるんだからな」
「全員じゃねえ!! ひとりだけっ、ゴボゴボボッ!」
遠くからヘンリーが喚く声が聞こえてきたものの、すぐに泡沫の中へと沈められてしまう。
「おい、見ろよ。ヘンリーが、また女に締められてるぞ」
「昔から全然変わらねえな」
川沿いでは、近隣住民と見られる老人たちが、怪異と精霊の男女による真昼の珍騒動を平然と見物している。
「その聖水は俺に効くっ! 効き過ぎるうっ!」
「テメェが無様を晒してどうすんだよ……」
羽繕いを終えたレジーが、激しい水責めを受ける相棒に生暖かい視線を注ぐ。
「ナオミさんのこと、これから何て呼べばいいのかしら……」
水晶が、困り果てた顔でポツリと呟いた。
「うーん、そうだな……」
明は、川の水で濡れた髪や服がじわじわと体温を奪いつつあるのを感じながら、早く終わってくれと切に願うのだった。
化け物を見るような目つきで自分を見るヘンリーに対し、明は普段と同じ口調で話しかける。
「これで気が済んだだろ? すぐにカササギのところに案内するか、何か隠している事があるなら、今この場で話してくれ」
数珠を身体の前で構えつつも、嘘偽りない気持ちが伝わるように、真剣な眼差しで切々と訴えかける。
「できれば、脅すような真似はしたくないんだ。話せない事情があるなら、その事情を教えてほしい。何か、協力できる事が」
「そういう事じゃねえんだよ……」
怒気を含んだ声が、明の言葉を遮った。
怯えていると見えていたヘンリーの表情が、いつの間にか敵愾心に満ちたものへと変化している。
「さっきから黙って聞いてりゃあ、いかにも聖人ぶった良い格好しいの、歯が浮くような台詞ばかり並べやがって……!」
ヘンリーは腕を伸ばして明と水晶を交互に指差すと、口角泡を飛ばして喚き散らしてきた。
「いいかっ!? お前みたいな尻の青いガキが女の前で一丁前に格好つけてるのを見ると、むかっ腹が立つんだよ! 全身濡れ鼠になって泣きながら足元に這いつくばって命乞いでもさせねえと、腹の虫が収まらねえ!」
「……よく分かんねえけど、まだ続けるって事か?」
「当たり前だろ! その式神娘の前で無様を晒すのを見届けるまでは、諦めねえからな!」
「マジかよ……」
明はげんなりした。ヘンリーの言ってる内容はほとんどが理解不能だったものの、言葉による説得では情報を引き出すのは非常に困難であるという事だけは理解できた。
(霊力は意外と残ってるから、あと2回までなら付き合えそうだな。それ以上かかるなら、もう強硬手段に出るしかない)
明は、気の進まない思いで数珠を構え直した。
今の自分にとって最も優先すべきはカナの依頼の遂行であり、それはそのまま、朝霧まりかの身辺の安全に直結する。そのためなら、例え海洋怪異対策室の悪評判が世間に流布される事態になろうと、致し方なしである。
明は腹を括ると、水晶にも戦闘続行の意思を伝えようとした。
「水晶」
ところが、この僅か数秒後、高架下を流れる川を舞台にした一大活劇は、誰もが想像だにしなかった形で幕を下ろすこととなる。
「見てろ!」
ヘンリーは、くたびれたコートの内側からトランプの束を取り出すと、鮮やかな手つきで扇形に広げた。
「これは、カトリネルから昨日教わったばかりの」
「カトリネルって誰?」
「ヒイッ!?」
知らない女性の声が割って入ると同時に、この場にいる全員が、幽世から現世へと一瞬で引き戻された。
「現世!? 一体どうして」
驚愕しながら周囲を見回してみると、身体が半透明の女性が、川面から上半身だけを出してヘンリーを睨みつけているのを発見する。
「ウンディーネ!?」
「ナオミさん!」
「水晶、知り合いか?」
「はい」
水晶はこくんと頷くと、ナオミと呼んだウンディーネの方をしきりに気にしながら説明した。
「山下公園の噴水広場に、海から時々遊びに来ている精霊です。人間の愛によって実体を得たエリカさんほどではありませんが、それでも、精霊としてはかなり強い力を持っています」
「そういえば、朝霧が前にそんな話をしてたな。でも、まさかあの男と関係を持ってたとは……」
「私も、お付き合い中の男性がいるという事まではナオミさんから聞いて知っていたのですが、まさか、そのお相手が〈両替屋〉のヘンリーだったなんて……」
明と水晶が小声でやり取りする間にも、ヘンリーとナオミの間の空気は刻一刻と悪化していく。
ヘンリーが、哀れなほどに怖気づいた様子でナオミに訊ねた。
「ナオミ、いつからそこに?」
「最初からずっとよ!」
ナオミが、水でできた髪を振り乱しながら吐き捨てた。透き通った顔の内部では、その怒りを表すようにコポコポと水泡が沸き立っている。
「待ち合わせの時間よりも早く着いて公園を散歩してたら、あなたが水晶ちゃんを連れて歩いているのを見つけて、こっそり後をつけてみたのよ。訳ありっぽかったら静観してたけど、65番目だの298番目だの、挙げ句の果てに『昨日』ですって!?」
「そ、そうか……。いつもはゆっくりなのに、今日は早く来てくれたんだな、嬉しいぜ……」
「黙りなさいっ!」
ナオミが、ずいっと前に出た。その動きに呼応して、周囲の川面にざわざわと不吉なさざ波が立つ。
「もう一度聞くわ」
ナオミは、戦々恐々と身を縮こまらせるヘンリーに狙いを定めると、最初の問いを空恐ろしい声で繰り返した。
「カトリネルって誰?」
「申し訳ございませんでしたーーっ!!」
ヘンリーが、絶句するほどに見事な土下座を披露した。
直後、巨大な水塊がヘンリーに襲いかかり、抵抗する間もなく釣り船から掻っ攫われる。
「ゴボオッ!?」
高架すれすれまで高々と持ち上げられたかと思うと、すぐに反転し、1秒と経たずに川面に突き落とされた。
「ゴボボボボッ! 許してくれえ、ナオミ!」
「その名前、もういらない!」
「ゴボボボ、ゴボボッ!」
情けない悲鳴を上げながら川の中で激しく藻掻く怪異の男と、その男を般若の形相で水責めにする精霊の女。完全に置いてけぼりにされた明と水晶は、下手に口を出すわけにもいかず、ただただ傍観するしかない。
「これは、どうすればいいんだ……」
明は途方に暮れながら、水飛沫でぐっしょりと濡れた髪や顔をタオルハンカチで拭う。
そこへ、羽ばたき音と共に空から声がかかってきた。
「助けてやることはねえぜ」
「カササギ!?」
カラスよりひと回り小さい、長い尾羽を持つ白と黒のツートーンカラーの鳥が、大道芸の道具が入ったバッグの上に降り立った。
その鳥がカナの目撃したカササギであると直感した明は、前のめりになって詰問しようとする。
「お前、話を」
「せっつくなよ。状況が落ち着いたら、あのスケコマシに喋らせてやるから」
カササギは、びしょ濡れになったバッグの上で足踏みをして丁度良い位置を定めると、呑気に羽繕いをし始める。
「俺はレジーだ。お前は?」
「……菊池明だ」
少しだけ迷ったものの、明は正直に名乗ることにした。下手に隠したところで、公的機関に所属する人間の名前を調べ上げるなど、彼らにとっては朝飯前だろう。
続いて水晶も、渋々ながらも自己紹介をしようとする。
「水晶よ」
「いや、お前には聞いてねえから」
「なっ」
反射的に言い返そうとするも、主である明の手前、ギリギリのところで自制する。
(こいつの事だから、わざと私を怒らせて楽しもうとしているに決まってるわ。ここは、明様の式神として我慢しなくちゃ)
両翼をワナワナさせて怒りを堪える水晶をよそに、レジーは羽繕いを続けながら、ヘンリーという男について勝手気ままに解説する。
「65番目だの298番目だの、過去に付き合った女をさも得意そうに語ってただろ? まあ、あいつが女を惑わす事に長けているのは確かなんだがよ、その後がいけねえ。何せ、今まで何千人という女と付き合ってきて、最後にはその全員から捨てられてるんだからな」
「全員じゃねえ!! ひとりだけっ、ゴボゴボボッ!」
遠くからヘンリーが喚く声が聞こえてきたものの、すぐに泡沫の中へと沈められてしまう。
「おい、見ろよ。ヘンリーが、また女に締められてるぞ」
「昔から全然変わらねえな」
川沿いでは、近隣住民と見られる老人たちが、怪異と精霊の男女による真昼の珍騒動を平然と見物している。
「その聖水は俺に効くっ! 効き過ぎるうっ!」
「テメェが無様を晒してどうすんだよ……」
羽繕いを終えたレジーが、激しい水責めを受ける相棒に生暖かい視線を注ぐ。
「ナオミさんのこと、これから何て呼べばいいのかしら……」
水晶が、困り果てた顔でポツリと呟いた。
「うーん、そうだな……」
明は、川の水で濡れた髪や服がじわじわと体温を奪いつつあるのを感じながら、早く終わってくれと切に願うのだった。