残酷な描写あり
3.蓮蕾の女王-2
「アイリーの婚約を開始条件に、『デヴァイン・シンフォニア計画』は動きだしたんだ……」
不器用ながらも、リュイセンは、ぽつりぽつりと語っていった。
あらゆることを事細かに話していたらキリがないことは、口下手なリュイセンでも理解できた。だから、アイリーにとって関係の深いことを――『ライシェン』へと繋がる内容のみを選んだ。
リュイセンにとっては因縁深い〈蝿〉の話も、本筋ではないので大きく端折り、『ライシェン』の肉体を作るために、セレイエの〈影〉だったホンシュアが死んだ天才医師を生き返らせた、と伝えるに留めた。誤解から敵対していたが、最後には和解して、ルイフォンとメイシアに『ライシェン』が託された、と。
また、つい最近、ルイフォンが王宮に行って、ヤンイェンに直接、会ったことも伏せた。
ヤンイェンとの対面が、話すべき内容であることは、重々、承知している。しかし、あのとき、弟分は女装して、『仕立て屋の助手の少女』として、アイリーと顔を合わせているのだ。
その事実を勝手に明かすのは、あまりにも忍びなく……。今後の連絡のためにと、携帯端末の番号を交換したので、あとでルイフォンに断りを入れてから、改めて伝えることにしたのだ。それが道理だろう、と。
リュイセンの話術は相変わらず拙いものであったが、次期総帥となってから人に説明する機会が増えたためか、少しだけマシになっていたらしい。話を終えたときには、レモンティーのグラスから、すっかり氷が消えていたものの、時計の針は思ったよりも進んでいない。彼は安堵して、ぬるくなったレモンティーを飲み干した。
「長い話をありがとう」
向かいのソファーから、アイリーが静かに労ってくれた。しかし、謝意を示す微笑には、失敗している。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、何人もの人間を傷つけ、ときに命をも奪った。そんな話を聞かされて、穏やかな気持ちでいられるわけがない。ましてや、彼女はセレイエの〈影〉となる前の『侍女のホンシュア』を知っている。セレイエに続いて、また親しい人の死を告げられたのだから。
「リュイセン……」
青灰色の瞳が揺らめく。
再び泣き出されたとしても、慌てずに受け止めようと、リュイセンは身構える。しかし、アイリーは、ぐっと頤を上げ、長身の彼をまっすぐに見つめた。
「私に、何ができるかな……」
ぽつりと落とされた声は、細く掠れていた。けれど、口にしたのは、どこまでも現実と向き合おうとする言葉だった。
無力の無念を知る彼女は、こんなにも儚げでありながらも、心は強くあろうとする。
蒼天を映したような瞳に、リュイセンは惹き込まれる。
「ねぇ、リュイセン」
白金の髪をなびかせ、思い詰めたような表情のアイリーが、ふわりと身を乗り出した。
彼我の間には、空のグラスと茶菓子の載ったテーブルがある。しかし、リュイセンは懐に入られたような感覚に陥り、どきりとする。
「セレイエは『ライシェン』に、ふたつの道を用意したのよね?」
「あ、ああ……」
アイリーの問いかけは、ただの確認のはずだ。けれど、不可思議な強さを帯びており、リュイセンは気圧されたように頷く。
そんな自分に狼狽え、それから神速で『デヴァイン・シンフォニア計画』へと頭を切り替え、彼はセレイエの遺した、ふたつの道を反芻する。
実父ヤンイェンのもとで、王となるか。
あるいは、優しい養父母のもとで、平凡な子供として生きるか。
「でも、私は三つ目の道があると思うの」
アイリーは唇を尖らせ、強気な口調で告げた。
名案であると、自信ありげに見せかけているが、明らかに虚勢だった。
その証拠に、瞳の奥が怯えたように揺れている。それでも言わずにはいられない。そんな必死の思いが伝わってきた。
「ヤンイェンお異母兄様は、本当に心からライシェンを愛していたの。だから、あの子の遺伝子を引き継いだ『ライシェン』を、お異母兄様から引き離すなんて考えられないわ。でも、カイウォルお兄様が中心となっている今の王宮で、『ライシェン』が王となることが幸せとは思えない」
そこでアイリーは、ごくりと唾を呑み、「だから!」と、声高に言を継ぐ。
「ヤンイェンお異母兄様に、『ライシェン』を連れて王宮を出てもらうの。『ライシェン』は王族ではなく、平凡な子供として生きるのよ。ただし、養父母のもとで、ではなくて、お異母兄様の子供として」
「なっ!?」
「四年前。お異母兄様とセレイエは、ライシェンを生き返らせたら、三人で、どこか静かな外国で暮らしたいと言っていたわ。国内では〈神の御子〉の容姿は目立つし、王位継承問題に巻き込まれてしまうから、って。……セレイエは亡くなってしまったし、『ライシェン』は、ライシェンじゃないけれど、その思いを受け継ぐの」
「そんなことが……」
リュイセンは反射的に言いかけ、その先で自分は、なんと続けようとしていたのかに迷う。
『そんなことが可能なのか』だろうか。
それとも、『そんなことが許されるのか』なのだろうか。
声をつまらせた彼に、アイリーが畳み掛ける。
「今の私は、四年前とは違うわ。国で一番偉い、『女王様』なんだから、どうにかして、お異母兄様と『ライシェン』が国外で暮らせるよう、手配できるはずよ」
「アイリー……」
名を呟いたまま、リュイセンは、またもや押し黙る。
彼女の示した、第三の道の是非は、リュイセンには分からない。
多分に同情の余地があるとはいえ、ヤンイェンは先王殺しの犯罪者だ。罪人が償いもせずに自由の身となるのは、無責任のように感じる。その一方で、『ライシェン』にとっては最善の道なのかもしれないと思う。
ただ、懸命な言葉の裏に、アイリーの祈りが見えた。
大好きな異母兄と義姉に、幸せになってほしかった。それがもう叶わぬ願いであるのなら、せめて、できるだけ近い形の未来を贈りたいのだと。
リュイセンとしては、彼女の気持ちを傷つけたくはない。しかし……。
そのとき、不意に、摂政カイウォルの存在が頭をよぎり、はっと彼は気づく。
「おい。実のところ、現在の国の最高権力者は、お前じゃなくて摂政だろう? あの摂政が睨みをきかせている以上、ヤンイェンも、『ライシェン』も、国外に出るのは無理じゃないか?」
だから、第三の道は現実的ではないのだ。
是非を論じるより先に――彼女に否定的なことを言うよりも前に、『無理』なのだと分かり、リュイセンは無意識に安堵する。
「そうね。カイウォルお兄様は、なんて言うかしらね」
アイリーの声が沈み、テーブルの上へと視線が落とされた。
かすかな罪悪感が、リュイセンの胸をちくりと刺すが、それは仕方ない。――と、思った瞬間、彼女は、ぱっと顔を上げ、「でもね」と鋭く続けた。
「もし、『ライシェン』が、私の次の王になるのなら、私は『ライシェン』の後見人には、父親のヤンイェンお異母兄様ではなくて、カイウォルお兄様を推すわ。――現女王として、それは譲れない」
「!?」
リュイセンは短く息を呑む。
「けど、それじゃあ、ヤンイェンお異母兄様から『ライシェン』を奪うようなものでしょう? だから、『ライシェン』には王にならずに、平凡な子供として生きてほしいのよ」
「…………!?」
「そんな顔、しないでよ」
切れ長の目を見開いたまま、固まっているリュイセンに、アイリーは拗ねたように唇を尖らせた。それから、「そんなに意外だった?」と、可愛らしく、小首をかしげながら尋ねる。
「ああ。ヤンイェンは『ライシェン』の実父だし、お前は摂政を煙たがっているみたいだったからな」
リュイセンが率直に述べると、アイリーは「そうよね」と相槌を打つ。
「カイウォルお兄様とヤンイェンお異母兄様、どちらが好きかと訊かれたら、私は迷わずヤンイェンお異母兄様と答えるわ。カイウォルお兄様は口うるさいし、気難しいし、差別的なところがあるし、本当は周りを見下しているくせに、あの綺麗な外面で欺いているのよ。――嫌いだわ」
日ごろの小言の鬱憤が溜まっているのか、アイリーは、ぷうっと頬を膨らませた。けれど、やや演技めいたその仕草からは、口で言うほどには嫌っていないのが感じられる。
案の定、彼女の語調は、そこで一転し、「でもね」と、穏やかなものへと変わった。
「私が女王でも、この国がなんとかなっているのは、カイウォルお兄様が摂政を務めてくださっているおかげなの。お兄様が退けば、あっという間に、この国は立ち行かなくなるわ」
あたかも、天空神が地上を見守るが如く。蒼天を映したような青灰色の瞳が、静かに王国を見つめる。
限りなく頼りなくとも、彼女は間違いなく『この国の王』なのだ。
「お兄様は、他の誰よりも、国を治めることに優れている。……そうなるようにと、努力を続けて生きてきた人だから」
「……?」
不思議な色合いを帯びた語尾に、リュイセンは秀眉を寄せた。それを受け、アイリーは切なげに目を細める。
「〈神の御子〉ではないカイウォルお兄様は、決して王にはなれない。それを承知しながら、いずれ生まれてくる弟妹の助けとなるために、お兄様は子供のころから勉学に励んできたの。それが、王族の努めであり、正妃の長男の役目だと割り切ってね」
頭を振り、彼女は寂しげに微笑んだ。
「カイウォルお兄様は好きじゃない。……でも、尊敬しているし、やっぱり大切な兄なの」
小さな溜め息をつくと、この国で唯一の白金の髪が、ふわりと肩から流れ落ちた。その儚げな姿を見つめながら、リュイセンは呟く。
「だから、『ライシェン』はヤンイェンと暮らしてほしい。けれど、王の道は選ばないでほしい――という第三の道を、お前は推すわけか。……って、いや、待てよ!」
彼は得心しかけ、途中で顔色を変えた。
「『ライシェン』がいなくなったら、次の王はどうするんだ? 過去の王の遺伝子は、すべて廃棄されたんだぞ?」
もはや過去の王のクローンは作れない。
そして、〈神の御子〉が自然に生まれてくる確率は、極めて低いのだ。
アイリーが〈神の御子〉を産むことを強要される光景を想像し、リュイセンは戦慄する。彼女が道具のように扱われる未来など、あってはならない。
「大丈夫よ。〈神の御子〉なら、いくらでも作れるわ」
彼の昂ぶりとは裏腹に、落ち着いた天界の音色が響いた。
「なんだって!?」
「私のクローンを作ればいいのよ」
「――!?」
リュイセンの耳は、きちんとアイリーの声を捉えていた。なのに、思考がついていかない。凍りついたような顔と心で、彼はただ、呆然と彼女を見つめる。
視界を鮮やかに彩る、輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳。
天空神の姿を写した、綺羅の美貌が告げる。
「王位を継ぐだけならば、『仮初めの王』の女王で充分よ。むしろ、知りたくもない他人の心が読めてしまう〈神の御子〉の男子なんて、もう生まれないほうがいいわ」
神の代理人たる王でありながら、その言葉は神のものではない。人である、彼女の思い。人の害意を浴びて、不幸な運命をたどったライシェンを憂えての――。
「カイウォルお兄様には、私の次の王の後見人になってもらうと約束するわ。そうすれば、『ライシェン』に執着することはないと思うの。――ね? 私の考えた三つ目の道なら、皆が幸せになれるでしょう?」
「いや、待て! お前のクローン、って……、そんなのは!」
理屈ではない。直感が、どこか間違えていると訴える。しかし、説得力のある言葉で言い表すことができず、リュイセンは歯噛みする。
「『私のクローン』というのは、今、思いついた話じゃなくて、ずっと前から考えていたことよ。だって、先々王は、『過去の王のクローン』だった先王に冷たかったんでしょう? それは、やっぱり、本当の子供じゃないから、他人としか思えなかったからだと思うの」
「……」
「だから、私は、自分が『過去の王のクローン』に頼る事態になったときには、知らない人のクローンじゃなくて、自分のクローンを作ろう、って決めていたの。私のクローンなら、きっとあんまり優秀じゃないけれど、『私の『遺伝子』なら、仕方ないわね』って、笑って受け入れられるもの」
「そんな……」
「私がそう考えていることは、セレイエも知っていたわ。だからこそ、思い切って、過去の王の遺伝子を全部、廃棄できたのよ」
彼女の紡ぐ言葉は、皆の幸せを願う純粋すぎる祈りだ。
地上のすべてを愛おしむような、無垢な微笑みが漣となって広がっていく。
「なんで、お前が、そんな犠牲みたいなことを……! おかしいだろう!?」
彼女の祈りに呑み込まれそうになる自分に抗い、リュイセンは叫ぶ。
「私はこれでも王族で、女王様だから」
アイリーは口元に人差し指を当て、秘密を打ち明けるような、幼さの残る仕草で応える。
けれど、その表情は、今までに見た中で一番、大人びていた。
不器用ながらも、リュイセンは、ぽつりぽつりと語っていった。
あらゆることを事細かに話していたらキリがないことは、口下手なリュイセンでも理解できた。だから、アイリーにとって関係の深いことを――『ライシェン』へと繋がる内容のみを選んだ。
リュイセンにとっては因縁深い〈蝿〉の話も、本筋ではないので大きく端折り、『ライシェン』の肉体を作るために、セレイエの〈影〉だったホンシュアが死んだ天才医師を生き返らせた、と伝えるに留めた。誤解から敵対していたが、最後には和解して、ルイフォンとメイシアに『ライシェン』が託された、と。
また、つい最近、ルイフォンが王宮に行って、ヤンイェンに直接、会ったことも伏せた。
ヤンイェンとの対面が、話すべき内容であることは、重々、承知している。しかし、あのとき、弟分は女装して、『仕立て屋の助手の少女』として、アイリーと顔を合わせているのだ。
その事実を勝手に明かすのは、あまりにも忍びなく……。今後の連絡のためにと、携帯端末の番号を交換したので、あとでルイフォンに断りを入れてから、改めて伝えることにしたのだ。それが道理だろう、と。
リュイセンの話術は相変わらず拙いものであったが、次期総帥となってから人に説明する機会が増えたためか、少しだけマシになっていたらしい。話を終えたときには、レモンティーのグラスから、すっかり氷が消えていたものの、時計の針は思ったよりも進んでいない。彼は安堵して、ぬるくなったレモンティーを飲み干した。
「長い話をありがとう」
向かいのソファーから、アイリーが静かに労ってくれた。しかし、謝意を示す微笑には、失敗している。
『デヴァイン・シンフォニア計画』は、何人もの人間を傷つけ、ときに命をも奪った。そんな話を聞かされて、穏やかな気持ちでいられるわけがない。ましてや、彼女はセレイエの〈影〉となる前の『侍女のホンシュア』を知っている。セレイエに続いて、また親しい人の死を告げられたのだから。
「リュイセン……」
青灰色の瞳が揺らめく。
再び泣き出されたとしても、慌てずに受け止めようと、リュイセンは身構える。しかし、アイリーは、ぐっと頤を上げ、長身の彼をまっすぐに見つめた。
「私に、何ができるかな……」
ぽつりと落とされた声は、細く掠れていた。けれど、口にしたのは、どこまでも現実と向き合おうとする言葉だった。
無力の無念を知る彼女は、こんなにも儚げでありながらも、心は強くあろうとする。
蒼天を映したような瞳に、リュイセンは惹き込まれる。
「ねぇ、リュイセン」
白金の髪をなびかせ、思い詰めたような表情のアイリーが、ふわりと身を乗り出した。
彼我の間には、空のグラスと茶菓子の載ったテーブルがある。しかし、リュイセンは懐に入られたような感覚に陥り、どきりとする。
「セレイエは『ライシェン』に、ふたつの道を用意したのよね?」
「あ、ああ……」
アイリーの問いかけは、ただの確認のはずだ。けれど、不可思議な強さを帯びており、リュイセンは気圧されたように頷く。
そんな自分に狼狽え、それから神速で『デヴァイン・シンフォニア計画』へと頭を切り替え、彼はセレイエの遺した、ふたつの道を反芻する。
実父ヤンイェンのもとで、王となるか。
あるいは、優しい養父母のもとで、平凡な子供として生きるか。
「でも、私は三つ目の道があると思うの」
アイリーは唇を尖らせ、強気な口調で告げた。
名案であると、自信ありげに見せかけているが、明らかに虚勢だった。
その証拠に、瞳の奥が怯えたように揺れている。それでも言わずにはいられない。そんな必死の思いが伝わってきた。
「ヤンイェンお異母兄様は、本当に心からライシェンを愛していたの。だから、あの子の遺伝子を引き継いだ『ライシェン』を、お異母兄様から引き離すなんて考えられないわ。でも、カイウォルお兄様が中心となっている今の王宮で、『ライシェン』が王となることが幸せとは思えない」
そこでアイリーは、ごくりと唾を呑み、「だから!」と、声高に言を継ぐ。
「ヤンイェンお異母兄様に、『ライシェン』を連れて王宮を出てもらうの。『ライシェン』は王族ではなく、平凡な子供として生きるのよ。ただし、養父母のもとで、ではなくて、お異母兄様の子供として」
「なっ!?」
「四年前。お異母兄様とセレイエは、ライシェンを生き返らせたら、三人で、どこか静かな外国で暮らしたいと言っていたわ。国内では〈神の御子〉の容姿は目立つし、王位継承問題に巻き込まれてしまうから、って。……セレイエは亡くなってしまったし、『ライシェン』は、ライシェンじゃないけれど、その思いを受け継ぐの」
「そんなことが……」
リュイセンは反射的に言いかけ、その先で自分は、なんと続けようとしていたのかに迷う。
『そんなことが可能なのか』だろうか。
それとも、『そんなことが許されるのか』なのだろうか。
声をつまらせた彼に、アイリーが畳み掛ける。
「今の私は、四年前とは違うわ。国で一番偉い、『女王様』なんだから、どうにかして、お異母兄様と『ライシェン』が国外で暮らせるよう、手配できるはずよ」
「アイリー……」
名を呟いたまま、リュイセンは、またもや押し黙る。
彼女の示した、第三の道の是非は、リュイセンには分からない。
多分に同情の余地があるとはいえ、ヤンイェンは先王殺しの犯罪者だ。罪人が償いもせずに自由の身となるのは、無責任のように感じる。その一方で、『ライシェン』にとっては最善の道なのかもしれないと思う。
ただ、懸命な言葉の裏に、アイリーの祈りが見えた。
大好きな異母兄と義姉に、幸せになってほしかった。それがもう叶わぬ願いであるのなら、せめて、できるだけ近い形の未来を贈りたいのだと。
リュイセンとしては、彼女の気持ちを傷つけたくはない。しかし……。
そのとき、不意に、摂政カイウォルの存在が頭をよぎり、はっと彼は気づく。
「おい。実のところ、現在の国の最高権力者は、お前じゃなくて摂政だろう? あの摂政が睨みをきかせている以上、ヤンイェンも、『ライシェン』も、国外に出るのは無理じゃないか?」
だから、第三の道は現実的ではないのだ。
是非を論じるより先に――彼女に否定的なことを言うよりも前に、『無理』なのだと分かり、リュイセンは無意識に安堵する。
「そうね。カイウォルお兄様は、なんて言うかしらね」
アイリーの声が沈み、テーブルの上へと視線が落とされた。
かすかな罪悪感が、リュイセンの胸をちくりと刺すが、それは仕方ない。――と、思った瞬間、彼女は、ぱっと顔を上げ、「でもね」と鋭く続けた。
「もし、『ライシェン』が、私の次の王になるのなら、私は『ライシェン』の後見人には、父親のヤンイェンお異母兄様ではなくて、カイウォルお兄様を推すわ。――現女王として、それは譲れない」
「!?」
リュイセンは短く息を呑む。
「けど、それじゃあ、ヤンイェンお異母兄様から『ライシェン』を奪うようなものでしょう? だから、『ライシェン』には王にならずに、平凡な子供として生きてほしいのよ」
「…………!?」
「そんな顔、しないでよ」
切れ長の目を見開いたまま、固まっているリュイセンに、アイリーは拗ねたように唇を尖らせた。それから、「そんなに意外だった?」と、可愛らしく、小首をかしげながら尋ねる。
「ああ。ヤンイェンは『ライシェン』の実父だし、お前は摂政を煙たがっているみたいだったからな」
リュイセンが率直に述べると、アイリーは「そうよね」と相槌を打つ。
「カイウォルお兄様とヤンイェンお異母兄様、どちらが好きかと訊かれたら、私は迷わずヤンイェンお異母兄様と答えるわ。カイウォルお兄様は口うるさいし、気難しいし、差別的なところがあるし、本当は周りを見下しているくせに、あの綺麗な外面で欺いているのよ。――嫌いだわ」
日ごろの小言の鬱憤が溜まっているのか、アイリーは、ぷうっと頬を膨らませた。けれど、やや演技めいたその仕草からは、口で言うほどには嫌っていないのが感じられる。
案の定、彼女の語調は、そこで一転し、「でもね」と、穏やかなものへと変わった。
「私が女王でも、この国がなんとかなっているのは、カイウォルお兄様が摂政を務めてくださっているおかげなの。お兄様が退けば、あっという間に、この国は立ち行かなくなるわ」
あたかも、天空神が地上を見守るが如く。蒼天を映したような青灰色の瞳が、静かに王国を見つめる。
限りなく頼りなくとも、彼女は間違いなく『この国の王』なのだ。
「お兄様は、他の誰よりも、国を治めることに優れている。……そうなるようにと、努力を続けて生きてきた人だから」
「……?」
不思議な色合いを帯びた語尾に、リュイセンは秀眉を寄せた。それを受け、アイリーは切なげに目を細める。
「〈神の御子〉ではないカイウォルお兄様は、決して王にはなれない。それを承知しながら、いずれ生まれてくる弟妹の助けとなるために、お兄様は子供のころから勉学に励んできたの。それが、王族の努めであり、正妃の長男の役目だと割り切ってね」
頭を振り、彼女は寂しげに微笑んだ。
「カイウォルお兄様は好きじゃない。……でも、尊敬しているし、やっぱり大切な兄なの」
小さな溜め息をつくと、この国で唯一の白金の髪が、ふわりと肩から流れ落ちた。その儚げな姿を見つめながら、リュイセンは呟く。
「だから、『ライシェン』はヤンイェンと暮らしてほしい。けれど、王の道は選ばないでほしい――という第三の道を、お前は推すわけか。……って、いや、待てよ!」
彼は得心しかけ、途中で顔色を変えた。
「『ライシェン』がいなくなったら、次の王はどうするんだ? 過去の王の遺伝子は、すべて廃棄されたんだぞ?」
もはや過去の王のクローンは作れない。
そして、〈神の御子〉が自然に生まれてくる確率は、極めて低いのだ。
アイリーが〈神の御子〉を産むことを強要される光景を想像し、リュイセンは戦慄する。彼女が道具のように扱われる未来など、あってはならない。
「大丈夫よ。〈神の御子〉なら、いくらでも作れるわ」
彼の昂ぶりとは裏腹に、落ち着いた天界の音色が響いた。
「なんだって!?」
「私のクローンを作ればいいのよ」
「――!?」
リュイセンの耳は、きちんとアイリーの声を捉えていた。なのに、思考がついていかない。凍りついたような顔と心で、彼はただ、呆然と彼女を見つめる。
視界を鮮やかに彩る、輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳。
天空神の姿を写した、綺羅の美貌が告げる。
「王位を継ぐだけならば、『仮初めの王』の女王で充分よ。むしろ、知りたくもない他人の心が読めてしまう〈神の御子〉の男子なんて、もう生まれないほうがいいわ」
神の代理人たる王でありながら、その言葉は神のものではない。人である、彼女の思い。人の害意を浴びて、不幸な運命をたどったライシェンを憂えての――。
「カイウォルお兄様には、私の次の王の後見人になってもらうと約束するわ。そうすれば、『ライシェン』に執着することはないと思うの。――ね? 私の考えた三つ目の道なら、皆が幸せになれるでしょう?」
「いや、待て! お前のクローン、って……、そんなのは!」
理屈ではない。直感が、どこか間違えていると訴える。しかし、説得力のある言葉で言い表すことができず、リュイセンは歯噛みする。
「『私のクローン』というのは、今、思いついた話じゃなくて、ずっと前から考えていたことよ。だって、先々王は、『過去の王のクローン』だった先王に冷たかったんでしょう? それは、やっぱり、本当の子供じゃないから、他人としか思えなかったからだと思うの」
「……」
「だから、私は、自分が『過去の王のクローン』に頼る事態になったときには、知らない人のクローンじゃなくて、自分のクローンを作ろう、って決めていたの。私のクローンなら、きっとあんまり優秀じゃないけれど、『私の『遺伝子』なら、仕方ないわね』って、笑って受け入れられるもの」
「そんな……」
「私がそう考えていることは、セレイエも知っていたわ。だからこそ、思い切って、過去の王の遺伝子を全部、廃棄できたのよ」
彼女の紡ぐ言葉は、皆の幸せを願う純粋すぎる祈りだ。
地上のすべてを愛おしむような、無垢な微笑みが漣となって広がっていく。
「なんで、お前が、そんな犠牲みたいなことを……! おかしいだろう!?」
彼女の祈りに呑み込まれそうになる自分に抗い、リュイセンは叫ぶ。
「私はこれでも王族で、女王様だから」
アイリーは口元に人差し指を当て、秘密を打ち明けるような、幼さの残る仕草で応える。
けれど、その表情は、今までに見た中で一番、大人びていた。