残酷な描写あり
黄昏の言伝
一生に一度の、恋をしよう――。
そのとき私は、たった五つの子供だった。
そんな子供の将来を、伯母様は真剣に憂えていた。
「〈神の御子〉は、今なお、神への『供物』なのよ。――特に、女は悲惨……」
私と同じく『〈神の御子〉の女性』だった伯母様は、降嫁した婚家で、〈神の御子〉を産むよう強要されたという。伯母様が〈神の御子〉を産めば、その子は王位継承権を持ち、婚家は外戚として権勢を誇れるからだ。
「アイリー。あなたには、あんな辛い思いをしてほしくないの」
伯母様は私を抱きしめ、涙ぐむ。
窓から差し込む黄昏の光で、白を基調とした神殿の部屋が、真っ赤に染まっていた。色を持たない私たちの肌も、呪われた王家の血を象徴するかのように、赤と交わる。
自分とそっくりな容姿を持つ伯母様のことを、私は子供のころ、お母様だと信じていた。
何故なら、この国の民は、ほとんどが黒髪黒目で、お父様と伯母様、そして私だけが異色だったのだから。幼い私が、このふたりを両親だと思い込むのは自然なことだろう。
伯母様もまた、私を実の娘のように可愛がり、同時に案じていた。
それは、私が伯母様と同じような目に遭っては可哀想だ、という思いから……というのは表向きで、本当は、ヤンイェンお異母兄様を〈神の御子〉として産むことができなかったことに対する罪悪感――なのだと、なんとなく気づいてしまった。
私がいずれ、女王として立つのは、伯母様のせいではないのに。
体の弱かった伯母様は、ご自分の余命が短いことを知っていたのだろう。
だから、私がまだ小さいころから、私とヤンイェンお異母兄様との婚約を成立させようと、躍起になっていた。事情を理解しているお異母兄様なら、決して、私を不幸にすまいと考えたのだ。
そもそも、伯母様が働きかけなくとも、私が生まれたときから、ヤンイェンお異母兄様は、私の婚約者に内定していたようなものだ。歳が離れすぎていることを理由に反対する勢力はあるものの、血統的には、お異母兄様がもっとも『女王の夫』にふさわしいからだ。
「……ごめんね」
伯母様の涙が、黄昏色に染まる。
「あなたは、恋を知らずに生きることになるわ」
そう呟いた伯母様は、果たして、恋というものを知っていたのだろうか。
伯母様の優しさは、歪んでいたと思う。
悪意のない、純粋な気持ちであったことに間違いはない。元王女として、『〈神の御子〉』に振り回される王族たちが少しでも幸せになれるよう、心の底から願い、奔走していたことは紛れもない事実だ。
けれど、ヤンイェンお異母兄様が、私を守るためだけに存在するような、空っぽの人になってしまったのは、やはり伯母様のせいだと言わざるを得ない。
私も、お異母兄様も、一生、恋とは縁がないだろう。
そう思っていた。
セレイエと出会うまでは。
「アイリー、脱走するわよ!」
ある日、『神に祈りを捧げる』という『公務』で、神殿に行くと、黒髪の鬘と、黒目のカラーコンタクトを手にしたセレイエが、意気揚々と現れた。
「ヤンイェンから聞いたわ。あなた、まともに外を歩いたことがないんですってね。そんなの、もったいないわ」
私は、そのとき、七歳になっていたと思う。世間知らずの箱入り娘ではあったが、それでも、上流階級の令息、令嬢たちが、身分を隠して、こっそり街中で遊んでいることくらい知っていた。
『社会勉強』と称して、親が外に出してくれることもあるようだけど、たいていは内緒の冒険だ。だからこそ、面白い――らしい、とも。
けれど、私は〈神の御子〉だ。この外見では、ひと目で素性がばれてしまう。だから、お忍びなんて考えたこともなかった。
……ああ、でも。
セレイエが変装の道具を用意してくれている……。
駄目、と思っても、私の瞳はセレイエの手元に釘付けだった。心臓が、どきどきと高鳴り、飛び出してしまいそうになる。
「私に任せて! 凄く可愛くしてあげるから!」
鬘の黒髪をさらりと撫で、セレイエは自信たっぷりに口角を上げた。そして、強引に、私を化粧台の前へと連れて行く。
「ま、待って!」
誘惑を振り切らなくちゃと、私は声を張り上げた。
「セレイエの気持ちは嬉しいけど、私は世継ぎの王女なの。私に何かがあったら……。ううん、お忍びがばれてしまうだけでも、セレイエは、ただでは済まないわ」
いくら私が子供でも、王宮で時々、耳にする『ただでは済まない』が『死』を意味することくらい理解していた。
……なのに。
セレイエは、脅える私をふふん、と鼻で笑った。
「何を言っているの? 私は無敵よ」
艶めく美声と共に、セレイエは背中から白金の光を放つ。幾つもの光の糸が絡み合い、繋がり合い、優美に波打つ白金の羽を紡ぎ出す。
「――――っ」
〈天使〉のセレイエ。
何度見ても、溜め息が出るほど綺麗だ。
もともと、目を奪われるような美人のセレイエだけど、〈天使〉の姿になると、神々しいまでの美しさになる。私の〈神の御子〉の容姿なんかより、ずっとずっと神聖を帯びていて……。
「どんな屈強な猛者でも、私の組み上げる命令には抗えないわ。王女だって気づかれたところで、記憶を消せばいいだけよ」
荒唐無稽に聞こえるけれど、セレイエの言うことは真実だ。
何故なら、〈天使〉とは、人間の脳という記憶装置に侵入する、クラッカーなのだから。
セレイエに見惚れていた私は、そこで、はっと我に返る。
「で、でも……!」
羽を使うと、体に負担が掛かるって、ヤンイェンお異母兄様がおっしゃっていたのだ。だから、〈天使〉の力を護衛代わりにしたら駄目だ。セレイエが熱暴走を起こしてしまうなんて、考えたくもない。
私は白金の眉を下げ、困りきった顔で、セレイエを見つめる。
嬉しいけれど、駄目。どう言えば、私の気持ちを分かってもらえるだろうか。
思いを伝える言葉を探している間に、セレイエは、私を無理やり化粧椅子に座らせた。
「セ、セレイエ! 私は今、公務中で……」
「細かいことは気にしないの! だいたい、あなたみたいな子供が『公務』なんて、笑っちゃうわ!」
その台詞の通り、セレイエは覇気に溢れた高笑いを上げながら、ぴしゃりと言い捨てる。
「私がアイリーと出掛けたいから、準備をしているの。邪魔をしないで」
「…………」
セレイエは強引で、自信家で、我儘で、破天荒。――そして、優しい。
今まで、私の周りには、こんなふうに接してくれる人は、ひとりもいなかった。
私は、未来の女王なのだ。――誰もが、そういう目で見る。それが普通だ。
けれど、お異母兄様と恋仲になったセレイエは、『ヤンイェンの異母妹なら、私の義妹ってことでしょう?』と言って、私を『妹』として扱う。
私には、たくさんの兄と姉と、異母兄と異母姉がいるけれど、皆、〈神の御子〉である私は『妹』ではなくて、異質な『もの』だと思っている。玉座に座るためだけに存在する、異色のお人形だと――異母姉のひとりに、面と向かって、そう言われたこともある。
例外はカイウォルお兄様とヤンイェンお異母兄様だけだ。だから、兄弟姉妹なんて、そんなものだと思っていた。
けど、セレイエによると、兄弟姉妹とは、もっと仲の良いものらしい。
実際、セレイエの口から語られる兄弟の話は、宝物のようにきらきらしていた。私は夢中になって聞き、もっともっとと、彼らの逸話をせがんだ。
その中でも、私は異母弟の『リュイセン』の話が好きだった。どこか私と似た境遇の彼が、卑屈になることなく、真面目に、こつこつと努力を続ける姿を格好いいと思った。
――それは、さておき。
私は、こうして、義姉セレイエに脱走を教えてもらった。
セレイエと『姉妹』として過ごしていくうちに、私の世界は、どんどん広がっていった。
私は、ヤンイェンお異母兄様のことを空っぽだと思っていたけれど、自分もまた、空っぽだったのだと気づかされた。
だから、私はセレイエの義妹にふさわしく、ちょっとだけ図々しく、大胆になった。
『未来の女王の事実上の婚約者である、王族の血統の神官長』と、『凶賊の血を引く、平民の神官』の恋は、世間的には『身分違いの禁断の恋』だ。
当然、ふたりの関係は、公にはできなかった。
――罪、だからだ。
「それでいいの?」
私は白金の眉を寄せ、セレイエに尋ねた。
「そうね、私とヤンイェンは『共犯者』みたいなものかしら?」
セレイエは、とても綺麗な笑顔で、はぐらかした。
お異母兄様からの贈り物のペンダントに、そっと手を触れながら……。
そして、ライシェンが生まれた。
『身分違いの禁断の恋』から生まれたライシェンは、国を挙げて誕生を祝福されるべき〈神の御子〉であったにも関わらず、ひとまず存在を隠された。
事情を知る者は、王宮の中でも、ごく一部の人間のみ。国の中枢に位置する彼らは、口を揃えて、セレイエを『神官長を誑かした悪女』と罵った。
けれど、国王が、鶴の一声でセレイエとライシェンを守った。
『ライシェンこそが、私の次の王となるべき者である』――と。
神殿で生まれたライシェンを迎えに行き、王宮に連れてきたのは、他ならぬ、お父様だった。平民を生母に持つ〈神の御子〉は風当たりが強いだろうと、拒むお異母兄様とセレイエを、国王が頭を下げて説得したのだ。
『こんなに愛されて生まれた子なら、きっと良い王になるだろう』と、言って。
『親』から愛されなかった、『過去の王のクローン』である、お父様は、ライシェンのことを尊いものだと褒め称え、セレイエに感謝を述べた。
ライシェンが、ただの〈神の御子〉ではなく、〈天使〉の力も受け継いでいるらしいことは、早いうちから、セレイエが感づいていた。だから、お父様は『まるで、私たちのもとに神が降りてきてくれたみたいだ』と驚き、『来神』という名前を贈ったのだ。
ライシェンは、希望だった。
彼の誕生は、私の『恋も知らずに、女王となる』運命をも変える。
恋を知らない私のために、恋を知ったお異母兄様と、恋を教えてくれたセレイエの間に、ライシェンは生まれてきてくれたのだ。
国を挙げての祝福はなくとも、ライシェンの周りには、確かな祝福があった。
それが――。
いったい、どこで、運命の歯車が狂ったのだろう。
ライシェンが、羽も出さずに、〈天使〉の力で、人を殺した。
〈天使〉を知らない人々には、何が起きたのか分からなかっただろう。けれど、ライシェンが犯人であることは、状況から明らかだった。
神聖なる王族の血に、穢れた平民の血が混ざったから化け物が生まれたのだと、声高に叫ばれた。
国王は、その言葉を否定した。
けれど、被害は広まるばかり。そして、すっかり恐怖に支配されてしまったライシェンは、ますます、自分の身を守ることに固執した。
だから……。
国王が、ライシェンを殺した。
他人の脳から『情報を読み取る』能力を持ったライシェンは、殺意を持った人間を決して見逃さないから。
例外は、同じ能力を持ち、互いの能力を打ち消し合う、国王だけだったから……。
ライシェンを亡くした、お異母兄様とセレイエは、『〈七つの大罪〉の禁忌』に魅入られた。
死者の蘇生だ。
そんなのはおかしいと、私は、きっぱり言うことはできなかった。……ふたりの思いが辛すぎて、言えなかった。
そして、狂った歯車は、止まることなく廻り続ける。
ヤンイェンお異母兄様が、国王を殺した。
その瞬間、私は女王になった。
それから、四年の月日が過ぎた。
私は、もうすぐ十五歳になる。
年齢的に頃合いだろうと、ヤンイェンお異母兄様との婚約が、正式に発表されることになり、準備が始まった。――お異母兄様は、病気療養という名の幽閉状態であるというのに。
何かが、おかしかった。
罪人となった、お異母兄様は、一生、幽閉されたまま。二度と、表に出られないはずだったのだから。
私の中に、私の知らない記憶がある。
それは、四年前、私が女王になって少し経った日の、黄昏の神殿。
窓から差し込む光で、白を基調とした部屋が、真っ赤に染まっていた。色を持たない私の肌が、呪われた王家の血を象徴するかのように、赤と交わる。
「アイリー。私とヤンイェンは『共犯者』なの」
唐突に聞こえた声に、私は驚いて後ろを振り返った。
そこに、行方不明になっていたセレイエがいた。目鼻立ちのはっきりとした顔は、逆光の中でも美しく、けれど、だいぶ痩せたみたいな気がした。
「共犯者とは、罪を分かち合う者。ヤンイェンの罪は、私の罪よ」
お異母兄様からの贈り物のペンダントを握りしめ、彼女は、静かに微笑む。
「セレイエ……! 今まで、どこにいたの!?」
駆け寄る私に、彼女は何も答えなかった。ただ、歌うように続ける。
「犯した罪の裏側には、何を犠牲にしてでも叶えたい、強い願いがあるの」
穏やかなのに、力強い声だった。
覇気に溢れた眼差しは相変わらずで、我儘な自信家の表情だ。
「私は後悔してないわ。ヤンイェンと出逢ったことも、ヤンイェンを愛したことも」
「セレイエ!?」
私は、縋るように彼女の名を叫んだ。何故だか分からないけれど、とても不吉な予感がしたのだ。
「アイリー。誰かと出逢って、恋に落ちる。それは、とても素敵なことよ。……あなたを女王にしてしまった罪人には、言う資格はないかもしれないけれど――」
セレイエの手が、すっと私へと伸びた。白金の髪に触れ、くしゃりと撫でる。
「どうか、あなたに。運命の恋人が現れますように」
慈愛に満ちた祈りが、私を包む。
刹那。
セレイエの背中から、光が噴き出した。
無数の細い光の糸が、白金に輝きながら勢いよく溢れ出る。互いに絡み合い、繋がり合い、網の目のように広がっていく。
〈天使〉の羽だ。
煌めく光をまとったセレイエは、溜め息が出るほどに、綺麗――。
ゆらり、ゆらりと。
白金の羽が、優美に波打つ。緩やかに伸びてきた光の糸が、そっと私に触れる。
そして、糸の内部を、ひときわ強い光が駆け抜けた。
「私の義妹に、幸あれ……」
小さな呟きを残し、セレイエは〈冥王〉の収められた『光明の間』へと姿を消した。
これは、おそらく、封じられた記憶。
セレイエが〈天使〉の力で、私の中の深いところに沈めたもの。
彼女は、ライシェンの記憶を集めに〈冥王〉へと向かう直前、私に会いに来てくれたのだ。
一生に一度の、お異母兄様との恋に後悔はなかったと、私に告げるために。
そして。
私に伝えるために。
あなたにも、恋をしてほしい――と。
そのとき私は、たった五つの子供だった。
そんな子供の将来を、伯母様は真剣に憂えていた。
「〈神の御子〉は、今なお、神への『供物』なのよ。――特に、女は悲惨……」
私と同じく『〈神の御子〉の女性』だった伯母様は、降嫁した婚家で、〈神の御子〉を産むよう強要されたという。伯母様が〈神の御子〉を産めば、その子は王位継承権を持ち、婚家は外戚として権勢を誇れるからだ。
「アイリー。あなたには、あんな辛い思いをしてほしくないの」
伯母様は私を抱きしめ、涙ぐむ。
窓から差し込む黄昏の光で、白を基調とした神殿の部屋が、真っ赤に染まっていた。色を持たない私たちの肌も、呪われた王家の血を象徴するかのように、赤と交わる。
自分とそっくりな容姿を持つ伯母様のことを、私は子供のころ、お母様だと信じていた。
何故なら、この国の民は、ほとんどが黒髪黒目で、お父様と伯母様、そして私だけが異色だったのだから。幼い私が、このふたりを両親だと思い込むのは自然なことだろう。
伯母様もまた、私を実の娘のように可愛がり、同時に案じていた。
それは、私が伯母様と同じような目に遭っては可哀想だ、という思いから……というのは表向きで、本当は、ヤンイェンお異母兄様を〈神の御子〉として産むことができなかったことに対する罪悪感――なのだと、なんとなく気づいてしまった。
私がいずれ、女王として立つのは、伯母様のせいではないのに。
体の弱かった伯母様は、ご自分の余命が短いことを知っていたのだろう。
だから、私がまだ小さいころから、私とヤンイェンお異母兄様との婚約を成立させようと、躍起になっていた。事情を理解しているお異母兄様なら、決して、私を不幸にすまいと考えたのだ。
そもそも、伯母様が働きかけなくとも、私が生まれたときから、ヤンイェンお異母兄様は、私の婚約者に内定していたようなものだ。歳が離れすぎていることを理由に反対する勢力はあるものの、血統的には、お異母兄様がもっとも『女王の夫』にふさわしいからだ。
「……ごめんね」
伯母様の涙が、黄昏色に染まる。
「あなたは、恋を知らずに生きることになるわ」
そう呟いた伯母様は、果たして、恋というものを知っていたのだろうか。
伯母様の優しさは、歪んでいたと思う。
悪意のない、純粋な気持ちであったことに間違いはない。元王女として、『〈神の御子〉』に振り回される王族たちが少しでも幸せになれるよう、心の底から願い、奔走していたことは紛れもない事実だ。
けれど、ヤンイェンお異母兄様が、私を守るためだけに存在するような、空っぽの人になってしまったのは、やはり伯母様のせいだと言わざるを得ない。
私も、お異母兄様も、一生、恋とは縁がないだろう。
そう思っていた。
セレイエと出会うまでは。
「アイリー、脱走するわよ!」
ある日、『神に祈りを捧げる』という『公務』で、神殿に行くと、黒髪の鬘と、黒目のカラーコンタクトを手にしたセレイエが、意気揚々と現れた。
「ヤンイェンから聞いたわ。あなた、まともに外を歩いたことがないんですってね。そんなの、もったいないわ」
私は、そのとき、七歳になっていたと思う。世間知らずの箱入り娘ではあったが、それでも、上流階級の令息、令嬢たちが、身分を隠して、こっそり街中で遊んでいることくらい知っていた。
『社会勉強』と称して、親が外に出してくれることもあるようだけど、たいていは内緒の冒険だ。だからこそ、面白い――らしい、とも。
けれど、私は〈神の御子〉だ。この外見では、ひと目で素性がばれてしまう。だから、お忍びなんて考えたこともなかった。
……ああ、でも。
セレイエが変装の道具を用意してくれている……。
駄目、と思っても、私の瞳はセレイエの手元に釘付けだった。心臓が、どきどきと高鳴り、飛び出してしまいそうになる。
「私に任せて! 凄く可愛くしてあげるから!」
鬘の黒髪をさらりと撫で、セレイエは自信たっぷりに口角を上げた。そして、強引に、私を化粧台の前へと連れて行く。
「ま、待って!」
誘惑を振り切らなくちゃと、私は声を張り上げた。
「セレイエの気持ちは嬉しいけど、私は世継ぎの王女なの。私に何かがあったら……。ううん、お忍びがばれてしまうだけでも、セレイエは、ただでは済まないわ」
いくら私が子供でも、王宮で時々、耳にする『ただでは済まない』が『死』を意味することくらい理解していた。
……なのに。
セレイエは、脅える私をふふん、と鼻で笑った。
「何を言っているの? 私は無敵よ」
艶めく美声と共に、セレイエは背中から白金の光を放つ。幾つもの光の糸が絡み合い、繋がり合い、優美に波打つ白金の羽を紡ぎ出す。
「――――っ」
〈天使〉のセレイエ。
何度見ても、溜め息が出るほど綺麗だ。
もともと、目を奪われるような美人のセレイエだけど、〈天使〉の姿になると、神々しいまでの美しさになる。私の〈神の御子〉の容姿なんかより、ずっとずっと神聖を帯びていて……。
「どんな屈強な猛者でも、私の組み上げる命令には抗えないわ。王女だって気づかれたところで、記憶を消せばいいだけよ」
荒唐無稽に聞こえるけれど、セレイエの言うことは真実だ。
何故なら、〈天使〉とは、人間の脳という記憶装置に侵入する、クラッカーなのだから。
セレイエに見惚れていた私は、そこで、はっと我に返る。
「で、でも……!」
羽を使うと、体に負担が掛かるって、ヤンイェンお異母兄様がおっしゃっていたのだ。だから、〈天使〉の力を護衛代わりにしたら駄目だ。セレイエが熱暴走を起こしてしまうなんて、考えたくもない。
私は白金の眉を下げ、困りきった顔で、セレイエを見つめる。
嬉しいけれど、駄目。どう言えば、私の気持ちを分かってもらえるだろうか。
思いを伝える言葉を探している間に、セレイエは、私を無理やり化粧椅子に座らせた。
「セ、セレイエ! 私は今、公務中で……」
「細かいことは気にしないの! だいたい、あなたみたいな子供が『公務』なんて、笑っちゃうわ!」
その台詞の通り、セレイエは覇気に溢れた高笑いを上げながら、ぴしゃりと言い捨てる。
「私がアイリーと出掛けたいから、準備をしているの。邪魔をしないで」
「…………」
セレイエは強引で、自信家で、我儘で、破天荒。――そして、優しい。
今まで、私の周りには、こんなふうに接してくれる人は、ひとりもいなかった。
私は、未来の女王なのだ。――誰もが、そういう目で見る。それが普通だ。
けれど、お異母兄様と恋仲になったセレイエは、『ヤンイェンの異母妹なら、私の義妹ってことでしょう?』と言って、私を『妹』として扱う。
私には、たくさんの兄と姉と、異母兄と異母姉がいるけれど、皆、〈神の御子〉である私は『妹』ではなくて、異質な『もの』だと思っている。玉座に座るためだけに存在する、異色のお人形だと――異母姉のひとりに、面と向かって、そう言われたこともある。
例外はカイウォルお兄様とヤンイェンお異母兄様だけだ。だから、兄弟姉妹なんて、そんなものだと思っていた。
けど、セレイエによると、兄弟姉妹とは、もっと仲の良いものらしい。
実際、セレイエの口から語られる兄弟の話は、宝物のようにきらきらしていた。私は夢中になって聞き、もっともっとと、彼らの逸話をせがんだ。
その中でも、私は異母弟の『リュイセン』の話が好きだった。どこか私と似た境遇の彼が、卑屈になることなく、真面目に、こつこつと努力を続ける姿を格好いいと思った。
――それは、さておき。
私は、こうして、義姉セレイエに脱走を教えてもらった。
セレイエと『姉妹』として過ごしていくうちに、私の世界は、どんどん広がっていった。
私は、ヤンイェンお異母兄様のことを空っぽだと思っていたけれど、自分もまた、空っぽだったのだと気づかされた。
だから、私はセレイエの義妹にふさわしく、ちょっとだけ図々しく、大胆になった。
『未来の女王の事実上の婚約者である、王族の血統の神官長』と、『凶賊の血を引く、平民の神官』の恋は、世間的には『身分違いの禁断の恋』だ。
当然、ふたりの関係は、公にはできなかった。
――罪、だからだ。
「それでいいの?」
私は白金の眉を寄せ、セレイエに尋ねた。
「そうね、私とヤンイェンは『共犯者』みたいなものかしら?」
セレイエは、とても綺麗な笑顔で、はぐらかした。
お異母兄様からの贈り物のペンダントに、そっと手を触れながら……。
そして、ライシェンが生まれた。
『身分違いの禁断の恋』から生まれたライシェンは、国を挙げて誕生を祝福されるべき〈神の御子〉であったにも関わらず、ひとまず存在を隠された。
事情を知る者は、王宮の中でも、ごく一部の人間のみ。国の中枢に位置する彼らは、口を揃えて、セレイエを『神官長を誑かした悪女』と罵った。
けれど、国王が、鶴の一声でセレイエとライシェンを守った。
『ライシェンこそが、私の次の王となるべき者である』――と。
神殿で生まれたライシェンを迎えに行き、王宮に連れてきたのは、他ならぬ、お父様だった。平民を生母に持つ〈神の御子〉は風当たりが強いだろうと、拒むお異母兄様とセレイエを、国王が頭を下げて説得したのだ。
『こんなに愛されて生まれた子なら、きっと良い王になるだろう』と、言って。
『親』から愛されなかった、『過去の王のクローン』である、お父様は、ライシェンのことを尊いものだと褒め称え、セレイエに感謝を述べた。
ライシェンが、ただの〈神の御子〉ではなく、〈天使〉の力も受け継いでいるらしいことは、早いうちから、セレイエが感づいていた。だから、お父様は『まるで、私たちのもとに神が降りてきてくれたみたいだ』と驚き、『来神』という名前を贈ったのだ。
ライシェンは、希望だった。
彼の誕生は、私の『恋も知らずに、女王となる』運命をも変える。
恋を知らない私のために、恋を知ったお異母兄様と、恋を教えてくれたセレイエの間に、ライシェンは生まれてきてくれたのだ。
国を挙げての祝福はなくとも、ライシェンの周りには、確かな祝福があった。
それが――。
いったい、どこで、運命の歯車が狂ったのだろう。
ライシェンが、羽も出さずに、〈天使〉の力で、人を殺した。
〈天使〉を知らない人々には、何が起きたのか分からなかっただろう。けれど、ライシェンが犯人であることは、状況から明らかだった。
神聖なる王族の血に、穢れた平民の血が混ざったから化け物が生まれたのだと、声高に叫ばれた。
国王は、その言葉を否定した。
けれど、被害は広まるばかり。そして、すっかり恐怖に支配されてしまったライシェンは、ますます、自分の身を守ることに固執した。
だから……。
国王が、ライシェンを殺した。
他人の脳から『情報を読み取る』能力を持ったライシェンは、殺意を持った人間を決して見逃さないから。
例外は、同じ能力を持ち、互いの能力を打ち消し合う、国王だけだったから……。
ライシェンを亡くした、お異母兄様とセレイエは、『〈七つの大罪〉の禁忌』に魅入られた。
死者の蘇生だ。
そんなのはおかしいと、私は、きっぱり言うことはできなかった。……ふたりの思いが辛すぎて、言えなかった。
そして、狂った歯車は、止まることなく廻り続ける。
ヤンイェンお異母兄様が、国王を殺した。
その瞬間、私は女王になった。
それから、四年の月日が過ぎた。
私は、もうすぐ十五歳になる。
年齢的に頃合いだろうと、ヤンイェンお異母兄様との婚約が、正式に発表されることになり、準備が始まった。――お異母兄様は、病気療養という名の幽閉状態であるというのに。
何かが、おかしかった。
罪人となった、お異母兄様は、一生、幽閉されたまま。二度と、表に出られないはずだったのだから。
私の中に、私の知らない記憶がある。
それは、四年前、私が女王になって少し経った日の、黄昏の神殿。
窓から差し込む光で、白を基調とした部屋が、真っ赤に染まっていた。色を持たない私の肌が、呪われた王家の血を象徴するかのように、赤と交わる。
「アイリー。私とヤンイェンは『共犯者』なの」
唐突に聞こえた声に、私は驚いて後ろを振り返った。
そこに、行方不明になっていたセレイエがいた。目鼻立ちのはっきりとした顔は、逆光の中でも美しく、けれど、だいぶ痩せたみたいな気がした。
「共犯者とは、罪を分かち合う者。ヤンイェンの罪は、私の罪よ」
お異母兄様からの贈り物のペンダントを握りしめ、彼女は、静かに微笑む。
「セレイエ……! 今まで、どこにいたの!?」
駆け寄る私に、彼女は何も答えなかった。ただ、歌うように続ける。
「犯した罪の裏側には、何を犠牲にしてでも叶えたい、強い願いがあるの」
穏やかなのに、力強い声だった。
覇気に溢れた眼差しは相変わらずで、我儘な自信家の表情だ。
「私は後悔してないわ。ヤンイェンと出逢ったことも、ヤンイェンを愛したことも」
「セレイエ!?」
私は、縋るように彼女の名を叫んだ。何故だか分からないけれど、とても不吉な予感がしたのだ。
「アイリー。誰かと出逢って、恋に落ちる。それは、とても素敵なことよ。……あなたを女王にしてしまった罪人には、言う資格はないかもしれないけれど――」
セレイエの手が、すっと私へと伸びた。白金の髪に触れ、くしゃりと撫でる。
「どうか、あなたに。運命の恋人が現れますように」
慈愛に満ちた祈りが、私を包む。
刹那。
セレイエの背中から、光が噴き出した。
無数の細い光の糸が、白金に輝きながら勢いよく溢れ出る。互いに絡み合い、繋がり合い、網の目のように広がっていく。
〈天使〉の羽だ。
煌めく光をまとったセレイエは、溜め息が出るほどに、綺麗――。
ゆらり、ゆらりと。
白金の羽が、優美に波打つ。緩やかに伸びてきた光の糸が、そっと私に触れる。
そして、糸の内部を、ひときわ強い光が駆け抜けた。
「私の義妹に、幸あれ……」
小さな呟きを残し、セレイエは〈冥王〉の収められた『光明の間』へと姿を消した。
これは、おそらく、封じられた記憶。
セレイエが〈天使〉の力で、私の中の深いところに沈めたもの。
彼女は、ライシェンの記憶を集めに〈冥王〉へと向かう直前、私に会いに来てくれたのだ。
一生に一度の、お異母兄様との恋に後悔はなかったと、私に告げるために。
そして。
私に伝えるために。
あなたにも、恋をしてほしい――と。