噂と空気と王子
ロザリンがラリッサに呼び出されてから学園内の空気がざわついていた。
ロザリンに関する噂は、数日をかけて確実に学園内を蝕んでいった。
彼女と同じ空間にいるだけで、会話がふっと止まる。教室では隣の席に誰も座りたがらず、すれ違いざまに小声で何かを囁かれる。内容はどれも似たようなものだった。
「殿下を誘惑しているらしいわよ」
「授業中、意味ありげに微笑んでたって。計算高いのよ、きっと」
「男爵家の娘が勘違いしてるのね」
確証も根拠もない、ただの憶測と妄想。けれど、それらは事実よりも強く人の心を染める。
中でも取り巻きたちが主導して流す「婚約者を誘惑されたらどうしましょう」「殿下と目が合っただけで嬉しそうだった」といった類の話が、特に尾鰭を付けられて広がっていった。
「ロザリン様が伯爵家の子息に微笑んだって話があったわよね」
「ねえ、それってあの子、男性には愛想よくて女性には素っ気ないってことかしら?」
紅茶を片手に囁きあう令嬢たちの口調は、甘やかな毒を含んでいた。
──────────────────
「今日もラリッサ様はお休みですわね」
「⋯⋯ラリッサ様、ご自分がいない間に噂が流れた、ご自分は関係ない、関わっていないと、なさってるいるのよ」
声の調子は変えずとも、言葉の端々には不満が滲んでいた。
ラリッサは噂が流れ始める少し前から公爵家の都合だとここ数日、学園には来ていない。
そのおかげでラリッサのお茶会は開催されず、それでも取り巻きたちはラリッサがいなくてもラリッサの定位置、中庭の白いパラソルの下を占有していた。
そのお茶会は、私にとってはありがたいことに彼女たちに参加を許されていない。
盗み聞きするつもりはなかったのだけれど、整備された中庭の白いパラソル脇の垣根の裏が人目が届かないせいか、草が茂っているのをラリッサのお茶会の度に気になっていた私は、集まりがないのは良い機会だと、茂みに入り込んでしまったのだ。
ようやく気になっていたこの場所に手をつけられる。と、しゃがみ込むと同時に取り巻きたちがキャアキャアとやって来てパラソルの席を陣取ったのだった。
こうなっては出るにも出ることができず。私は彼女たちが立ち去るのを待つだけだと息を潜め、その結果盗み聞きすることになったのだった。
「私たちが噂を広めるのを当然だって顔をされても困るわよね」
「そうよ、私たちが噂を流すより、ラリッサ様がロザリンを呼び出すだけでよかったのではなくて?」
実際、直接嫌がらせをしなくても「ラリッサがロザリンを呼び出した」それだけで、十分だった。
彼女が何を言ったか、何をしたか──実際の中身はどうでもいい。呼び出された、という事実だけが、噂を広げてくれる。
それがラリッサの、公爵令嬢の影響力。
そして、それ以降。ラリッサはこの件について、一切何も語らなかった。沈黙を保ち続けることで、自分は何もしていないという顔を貫いている。
「私たちが悪者みたいよね」
「ラリッサ様は何も汚さず。だもの」
「⋯⋯なんだか、腑に落ちないわよね」
ぼそりと呟いた言葉に、他の令嬢たちは顔を見合わせた。
それでも、誰も口にしない。不満を露わにすることの危うさは、全員がよく知っていた。
だからこそ、その苛立ちの矛先は、別のところに向かおうとしていた。
「でも、ロザリンって、本当に独りになりましたわよね」
「学園に来てから、誰とも親しくしていないわよ。ずっと静かで、何を考えているのか」
それは、完全に標的を固定するための“確認”。
ラリッサのためでも、自分たちのためでもない。ただ、そう言うことで、安心できるのだ。自分は「敵」ではないということの共通確認。
「ねえ、ロザリンって本当に独りなのかしら。噂にリアーナがロザリンと話していたって聞いたのだけれど」
何気ない一言に、ティーカップの音が止まった。
取り巻きの一人がそっと顔を上げた。
「⋯⋯どこでそれを?」
「図書室で話しているのを見かけたって子がいたの。あくまで遠目だったそうだけど。確かに、二人きりで話していたって」
──ああ、あの時。誰かが見ていたのね。
静かな声で、もう一人の取り巻きが笑った。
「まあ、リアーナは人当たりはいいけれど、ロザリンとねえ。なんだか意外じゃない?」
その言葉に、にわかに空気がざわつく。数人の令嬢たちが顔を見合わせた。
「⋯⋯これは、うまくすれば、都合がいいのかもしれないわね」
呟きが転がり私は息を飲んだ。
「だって、ロザリンを擁護するような態度を見せたら──ラリッサ様が、どうお思いになるかしら?」
その一言に、他の令嬢たちの表情が変わった。
取り巻きたちは、長くラリッサに従ってきた。けれどそれは、好意からではない。
ラリッサの機嫌は気紛れで、気に入られれば寵愛を受けるが、一度でも背けば容赦なく切り捨てられる。取り巻きとしての地位を守るためには、ラリッサに「従順で有能な存在」であり続ける必要があった。
──彼女たちは、私の立ち位置を異質に感じていたのね。
何故か特別な友人扱いを受け、ラリッサに反論のような発言をしても咎められず、時には聞き流されるラリッサの「お気に入り」という立場に見えている。他の取り巻きと一線を画す存在。
──面白くない──
──本当は、気に入らなかった──
心の奥底で燻っていた感情が、ゆっくりと形になり始める空気。
「ラリッサ様のお気に入りだと少し調子に乗ってるのかもしれませんわね」
「ロザリンと親しくするなんてね」
意地の悪い笑みが、令嬢たちの唇に浮かぶ。
「ロザリンと親しくしている噂が広まれば、リアーナを問いただす理由にもなりますわ」
「ふふ、ラリッサ様が何もおっしゃらなくても、私たちが“気を利かせた”というだけですもの」
今はまだ、ほんのささやかな噂。けれど、それを育てることなど、彼女たちにとってはたやすいこと。
「ねえ⋯⋯まずは、リアーナ様とロザリン様が“会っていた”って、広めてみましょうか?」
「うわさが定着すれば、ラリッサ様が自らお動きにならなくてはなりませんもの」
「ええ、ええ、ご自分の『ご友人』ですものね」
声を潜めて交わされるささやき。笑いながらも、瞳にはしたたかな光が宿っている。
──標的は、一人だけじゃなくていい。本当に集る人間ってどの世界でも陰湿ね。
ラリッサの気まぐれがどこに向くか分からないなら、自分たちでそれを“導く”のもひとつの手。
噂の炎は、まだ小さい。
けれど、その火種が私の足元に落ちるのは、もう時間の問題だろう。
私は恐怖よりも苛立ちよりも、「こうなること」をどこかで覚悟していたのかもしれない。
彼女たちの会話を耳にしても、胸の奥に渦巻くのは、焦りでも怒りでもなかった。
自分がラリッサの“お気に入り”とされる立場にいて、ロザリンと関わった。それがどう見られるかなんて、分かっていたから。
それでも、私はロザリンに話しかけた。
誤解されて孤立する彼女に、誰か普通に接する人間がいてもいいと思ったから。
──そんな理由じゃ、誰も納得してくれないってことも、分かってたのに。
私はロザリンを庇うつもりもない。ラリッサの仲間でもない。誰の味方でも敵でもなく、穏やかに過ごしたいだけだった。
いつの間にか、私の立ち位置は誰かの思惑に組み込まれていた。
もう、草を抜いているだけではいられないのかもしれない。草を抜き続けるためにこそ、私は、今、覚悟を決めなければならない。
このまま黙っていれば、巻き込まれるだけ。風向きは、じきに私をも飲み込むだろう。
でも、私が自分の足で立って、自分で選んで、自分のやり方で動けば──きっとまた、少しだけ、風を変えられる。
平穏を、諦めるつもりはない。
けれどそれは、ただ何もしないことではなくて、何があっても揺るがないための「選択」と「行動」なのだ。
私は静かに、手の中の草を抜いた。
太くてしぶとい根が、土からずるりと抜ける感触が、妙に心地よかった。
お喋りを終えた取り巻きたちが席を立った気配がした。
取り巻きたちの笑い声が、徐々に遠ざかっていく。
──行った、わね。
私はそっと身を起こし、茂みの陰から顔を出しあたりを伺う。辺りにはもう誰もいない。
「ふぅ⋯⋯ずっとしゃがんでいたから足が痺れちゃったわよ」
小さく息を吐いて、伸びをする。草の匂いと日差しの温もりに、少しだけ現実感が戻ってくる。
あのまま聞かされていたら心がすり減ってなくなってしまいそうだった。
けれど、私は全部聞いてしまった。自分が“標的”になりつつあることも、取り巻きたちがラリッサに不満を抱いていることも、全部。
今さら何も知らないふりなんてできない。
スカートの裾についた土を払いながら、茂みの中からそっと足を踏み出した──その時だった。
「また、漏れているぞ⋯⋯独り言が」
その声に、心臓が跳ねた。
私は、思わず固まった──そこには、エルンストとアルフレッド王子が立っていた。
エルンストは片眉を僅かに上げ、私と、私が潜んでいた茂みを交互に見やった。
「⋯⋯いよいよ中庭まで草むしりの領地を広げたのか?」
からかうような、淡々とした口調。けれどその目は、どこか優しげで。
言葉とは裏腹に、私の様子を探るようにじっと見ている。
「草むしり⋯⋯領地⋯⋯、えっ、エルンスト様っアルフレッド殿下の前で⋯⋯そんな恐ろしいこと考えてません」
慌てて否定しようとした私の声を、隣から軽く笑う声が遮った。
「エルンスト、それが君なりの心配の仕方かい? あいかわらず不器用だな」
そう言ったのは、アルフレッド王子。
口元には柔らかな笑みを浮かべているけれど、その視線は鋭く、静かに私を観察していた。
「けれど⋯⋯隠れるようにあの茂みにいたのは、草むしりだけが理由じゃないだろう?」
私は、ぴたりと動きを止めた。
その目が、すべてを見透かしているように思えたから。
「僕たちは、たまたま通りかかっただけでね⋯⋯少しだけ、あの子たちの話が聞こえたよ」
王子の目が、わずかに翳る。
「正直に言うと、聞いていてあまり愉快な気持ちにはなれなかったね」
肩を窄める仕草を見せたアルフレッド王子の言葉をエルンストが静かに補足する。
「⋯⋯君がそこに身を潜めていた理由、状況から察するに、聞こうと思ったわけではなかったのだろうに災難だったな」
淡々とした声音。その奥には、私を責めない明確な意志が感じられた。
「ねえ、リアーナ嬢」
王子の声が、ふいに穏やかに、けれど真剣に響いた。
「君は──ラリッサ嬢のことを、どう思っている?」
「⋯⋯ラリッサ様、ですか?」
思わず、繰り返してしまう。
王子は何も答えず、少しだけ空を見上げてから続けた。
「知っているよね? ラリッサは僕の婚約者候補の一人だ。僕はね、最初は彼女の明るさと社交性に救われたこともあった。けれど最近、何かが引っかかるんだ。⋯⋯まるで、作られた姿にしか見えなくなってきている」
エルンストが一歩、王子の前に出てわずかに眉をひそめる。
「⋯⋯殿下、よろしいのですか?」
「リアーナ嬢は大丈夫だとエルンストが言ったんだよ? 僕もそう確信した。ねえ、リアーナ嬢、はっきり言えることじゃないし、僕の感覚が間違っている可能性もある。けれど、何かあった時に、気付いていたのに黙っていた⋯⋯なんてことは、後悔に繋がる」
王子の目が、真っ直ぐに私を見た。
「だから、何かあれば話してほしい。君の力になれるかもしれないから。なにより、それが僕自身のためになるのだから」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
誰の肩を持つでもなく、けれど誰かの痛みに目を背けもしない。
表向きの笑顔の裏で、しっかりと人を見ようとし、手を差し伸べようとしてくれている。
それが、どれほど難しいことか、私は知っている。
この人になら、少しくらいなら、打ち明けてもいいのかもしれない──優しさに縋りたくてではなく、その姿勢が、まっすぐで誠実で、どこか眩しく感じられたから。そんな気持ちが、胸の奥に灯った。
「⋯⋯ありがとうございます」
かすかに、けれどはっきりと、私はそう答えられた。
その声を聞いたエルンストが、少しだけ目を伏せた。
その仕草に、王子がふっと笑みを浮かべた。
「……そういう顔をするんだ、エルンスト。珍しいね。君にしては、感情が顔に出ている」
エルンストはわずかに眉をひそめたが、何も言わない。
無言の否定も肯定もしない沈黙が、かえって雄弁だった。
「なるほど⋯⋯ねえ」
王子の口元に浮かんだ笑みは、どこか愉快そうで、けれど優しかった。
「ま、でも君は昔からそうだ。大事なことほど、回りくどい。僕を連れ出すくらいなのに」
「⋯⋯アルフレッド、余計なことを言うな」
「ん? 珍しい。人前で君が名前を呼んでくれるなんて。嬉しいねえ」
殿下、ではなくアルフレッドと静かな声で名を呼んだエルンストが、かすかに肩をすくめた。
睨むでもなく、怒るでもなく、ただ苦笑に近い無言の抗議。
「大丈夫、大丈夫。言わないよ。僕は空気を読める方だよ、たぶんね」
そんなふうに言って、王子は今度こそ軽やかに笑った。
──二人は、私が思っていた以上に、状況を見ている。そして、気にかけてくれている。
だからこそ、私も、覚悟を決めた。
草を抜き続けるために。平穏を守るために。
ただ黙って過ぎ去るのを待つのではなく、自分の手で「選ぶ」ために。
もう一度、茂みに目を向ける。
まだ、抜きがいのある根の深そうな雑草は沢山あるのだから。
ロザリンに関する噂は、数日をかけて確実に学園内を蝕んでいった。
彼女と同じ空間にいるだけで、会話がふっと止まる。教室では隣の席に誰も座りたがらず、すれ違いざまに小声で何かを囁かれる。内容はどれも似たようなものだった。
「殿下を誘惑しているらしいわよ」
「授業中、意味ありげに微笑んでたって。計算高いのよ、きっと」
「男爵家の娘が勘違いしてるのね」
確証も根拠もない、ただの憶測と妄想。けれど、それらは事実よりも強く人の心を染める。
中でも取り巻きたちが主導して流す「婚約者を誘惑されたらどうしましょう」「殿下と目が合っただけで嬉しそうだった」といった類の話が、特に尾鰭を付けられて広がっていった。
「ロザリン様が伯爵家の子息に微笑んだって話があったわよね」
「ねえ、それってあの子、男性には愛想よくて女性には素っ気ないってことかしら?」
紅茶を片手に囁きあう令嬢たちの口調は、甘やかな毒を含んでいた。
──────────────────
「今日もラリッサ様はお休みですわね」
「⋯⋯ラリッサ様、ご自分がいない間に噂が流れた、ご自分は関係ない、関わっていないと、なさってるいるのよ」
声の調子は変えずとも、言葉の端々には不満が滲んでいた。
ラリッサは噂が流れ始める少し前から公爵家の都合だとここ数日、学園には来ていない。
そのおかげでラリッサのお茶会は開催されず、それでも取り巻きたちはラリッサがいなくてもラリッサの定位置、中庭の白いパラソルの下を占有していた。
そのお茶会は、私にとってはありがたいことに彼女たちに参加を許されていない。
盗み聞きするつもりはなかったのだけれど、整備された中庭の白いパラソル脇の垣根の裏が人目が届かないせいか、草が茂っているのをラリッサのお茶会の度に気になっていた私は、集まりがないのは良い機会だと、茂みに入り込んでしまったのだ。
ようやく気になっていたこの場所に手をつけられる。と、しゃがみ込むと同時に取り巻きたちがキャアキャアとやって来てパラソルの席を陣取ったのだった。
こうなっては出るにも出ることができず。私は彼女たちが立ち去るのを待つだけだと息を潜め、その結果盗み聞きすることになったのだった。
「私たちが噂を広めるのを当然だって顔をされても困るわよね」
「そうよ、私たちが噂を流すより、ラリッサ様がロザリンを呼び出すだけでよかったのではなくて?」
実際、直接嫌がらせをしなくても「ラリッサがロザリンを呼び出した」それだけで、十分だった。
彼女が何を言ったか、何をしたか──実際の中身はどうでもいい。呼び出された、という事実だけが、噂を広げてくれる。
それがラリッサの、公爵令嬢の影響力。
そして、それ以降。ラリッサはこの件について、一切何も語らなかった。沈黙を保ち続けることで、自分は何もしていないという顔を貫いている。
「私たちが悪者みたいよね」
「ラリッサ様は何も汚さず。だもの」
「⋯⋯なんだか、腑に落ちないわよね」
ぼそりと呟いた言葉に、他の令嬢たちは顔を見合わせた。
それでも、誰も口にしない。不満を露わにすることの危うさは、全員がよく知っていた。
だからこそ、その苛立ちの矛先は、別のところに向かおうとしていた。
「でも、ロザリンって、本当に独りになりましたわよね」
「学園に来てから、誰とも親しくしていないわよ。ずっと静かで、何を考えているのか」
それは、完全に標的を固定するための“確認”。
ラリッサのためでも、自分たちのためでもない。ただ、そう言うことで、安心できるのだ。自分は「敵」ではないということの共通確認。
「ねえ、ロザリンって本当に独りなのかしら。噂にリアーナがロザリンと話していたって聞いたのだけれど」
何気ない一言に、ティーカップの音が止まった。
取り巻きの一人がそっと顔を上げた。
「⋯⋯どこでそれを?」
「図書室で話しているのを見かけたって子がいたの。あくまで遠目だったそうだけど。確かに、二人きりで話していたって」
──ああ、あの時。誰かが見ていたのね。
静かな声で、もう一人の取り巻きが笑った。
「まあ、リアーナは人当たりはいいけれど、ロザリンとねえ。なんだか意外じゃない?」
その言葉に、にわかに空気がざわつく。数人の令嬢たちが顔を見合わせた。
「⋯⋯これは、うまくすれば、都合がいいのかもしれないわね」
呟きが転がり私は息を飲んだ。
「だって、ロザリンを擁護するような態度を見せたら──ラリッサ様が、どうお思いになるかしら?」
その一言に、他の令嬢たちの表情が変わった。
取り巻きたちは、長くラリッサに従ってきた。けれどそれは、好意からではない。
ラリッサの機嫌は気紛れで、気に入られれば寵愛を受けるが、一度でも背けば容赦なく切り捨てられる。取り巻きとしての地位を守るためには、ラリッサに「従順で有能な存在」であり続ける必要があった。
──彼女たちは、私の立ち位置を異質に感じていたのね。
何故か特別な友人扱いを受け、ラリッサに反論のような発言をしても咎められず、時には聞き流されるラリッサの「お気に入り」という立場に見えている。他の取り巻きと一線を画す存在。
──面白くない──
──本当は、気に入らなかった──
心の奥底で燻っていた感情が、ゆっくりと形になり始める空気。
「ラリッサ様のお気に入りだと少し調子に乗ってるのかもしれませんわね」
「ロザリンと親しくするなんてね」
意地の悪い笑みが、令嬢たちの唇に浮かぶ。
「ロザリンと親しくしている噂が広まれば、リアーナを問いただす理由にもなりますわ」
「ふふ、ラリッサ様が何もおっしゃらなくても、私たちが“気を利かせた”というだけですもの」
今はまだ、ほんのささやかな噂。けれど、それを育てることなど、彼女たちにとってはたやすいこと。
「ねえ⋯⋯まずは、リアーナ様とロザリン様が“会っていた”って、広めてみましょうか?」
「うわさが定着すれば、ラリッサ様が自らお動きにならなくてはなりませんもの」
「ええ、ええ、ご自分の『ご友人』ですものね」
声を潜めて交わされるささやき。笑いながらも、瞳にはしたたかな光が宿っている。
──標的は、一人だけじゃなくていい。本当に集る人間ってどの世界でも陰湿ね。
ラリッサの気まぐれがどこに向くか分からないなら、自分たちでそれを“導く”のもひとつの手。
噂の炎は、まだ小さい。
けれど、その火種が私の足元に落ちるのは、もう時間の問題だろう。
私は恐怖よりも苛立ちよりも、「こうなること」をどこかで覚悟していたのかもしれない。
彼女たちの会話を耳にしても、胸の奥に渦巻くのは、焦りでも怒りでもなかった。
自分がラリッサの“お気に入り”とされる立場にいて、ロザリンと関わった。それがどう見られるかなんて、分かっていたから。
それでも、私はロザリンに話しかけた。
誤解されて孤立する彼女に、誰か普通に接する人間がいてもいいと思ったから。
──そんな理由じゃ、誰も納得してくれないってことも、分かってたのに。
私はロザリンを庇うつもりもない。ラリッサの仲間でもない。誰の味方でも敵でもなく、穏やかに過ごしたいだけだった。
いつの間にか、私の立ち位置は誰かの思惑に組み込まれていた。
もう、草を抜いているだけではいられないのかもしれない。草を抜き続けるためにこそ、私は、今、覚悟を決めなければならない。
このまま黙っていれば、巻き込まれるだけ。風向きは、じきに私をも飲み込むだろう。
でも、私が自分の足で立って、自分で選んで、自分のやり方で動けば──きっとまた、少しだけ、風を変えられる。
平穏を、諦めるつもりはない。
けれどそれは、ただ何もしないことではなくて、何があっても揺るがないための「選択」と「行動」なのだ。
私は静かに、手の中の草を抜いた。
太くてしぶとい根が、土からずるりと抜ける感触が、妙に心地よかった。
お喋りを終えた取り巻きたちが席を立った気配がした。
取り巻きたちの笑い声が、徐々に遠ざかっていく。
──行った、わね。
私はそっと身を起こし、茂みの陰から顔を出しあたりを伺う。辺りにはもう誰もいない。
「ふぅ⋯⋯ずっとしゃがんでいたから足が痺れちゃったわよ」
小さく息を吐いて、伸びをする。草の匂いと日差しの温もりに、少しだけ現実感が戻ってくる。
あのまま聞かされていたら心がすり減ってなくなってしまいそうだった。
けれど、私は全部聞いてしまった。自分が“標的”になりつつあることも、取り巻きたちがラリッサに不満を抱いていることも、全部。
今さら何も知らないふりなんてできない。
スカートの裾についた土を払いながら、茂みの中からそっと足を踏み出した──その時だった。
「また、漏れているぞ⋯⋯独り言が」
その声に、心臓が跳ねた。
私は、思わず固まった──そこには、エルンストとアルフレッド王子が立っていた。
エルンストは片眉を僅かに上げ、私と、私が潜んでいた茂みを交互に見やった。
「⋯⋯いよいよ中庭まで草むしりの領地を広げたのか?」
からかうような、淡々とした口調。けれどその目は、どこか優しげで。
言葉とは裏腹に、私の様子を探るようにじっと見ている。
「草むしり⋯⋯領地⋯⋯、えっ、エルンスト様っアルフレッド殿下の前で⋯⋯そんな恐ろしいこと考えてません」
慌てて否定しようとした私の声を、隣から軽く笑う声が遮った。
「エルンスト、それが君なりの心配の仕方かい? あいかわらず不器用だな」
そう言ったのは、アルフレッド王子。
口元には柔らかな笑みを浮かべているけれど、その視線は鋭く、静かに私を観察していた。
「けれど⋯⋯隠れるようにあの茂みにいたのは、草むしりだけが理由じゃないだろう?」
私は、ぴたりと動きを止めた。
その目が、すべてを見透かしているように思えたから。
「僕たちは、たまたま通りかかっただけでね⋯⋯少しだけ、あの子たちの話が聞こえたよ」
王子の目が、わずかに翳る。
「正直に言うと、聞いていてあまり愉快な気持ちにはなれなかったね」
肩を窄める仕草を見せたアルフレッド王子の言葉をエルンストが静かに補足する。
「⋯⋯君がそこに身を潜めていた理由、状況から察するに、聞こうと思ったわけではなかったのだろうに災難だったな」
淡々とした声音。その奥には、私を責めない明確な意志が感じられた。
「ねえ、リアーナ嬢」
王子の声が、ふいに穏やかに、けれど真剣に響いた。
「君は──ラリッサ嬢のことを、どう思っている?」
「⋯⋯ラリッサ様、ですか?」
思わず、繰り返してしまう。
王子は何も答えず、少しだけ空を見上げてから続けた。
「知っているよね? ラリッサは僕の婚約者候補の一人だ。僕はね、最初は彼女の明るさと社交性に救われたこともあった。けれど最近、何かが引っかかるんだ。⋯⋯まるで、作られた姿にしか見えなくなってきている」
エルンストが一歩、王子の前に出てわずかに眉をひそめる。
「⋯⋯殿下、よろしいのですか?」
「リアーナ嬢は大丈夫だとエルンストが言ったんだよ? 僕もそう確信した。ねえ、リアーナ嬢、はっきり言えることじゃないし、僕の感覚が間違っている可能性もある。けれど、何かあった時に、気付いていたのに黙っていた⋯⋯なんてことは、後悔に繋がる」
王子の目が、真っ直ぐに私を見た。
「だから、何かあれば話してほしい。君の力になれるかもしれないから。なにより、それが僕自身のためになるのだから」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
誰の肩を持つでもなく、けれど誰かの痛みに目を背けもしない。
表向きの笑顔の裏で、しっかりと人を見ようとし、手を差し伸べようとしてくれている。
それが、どれほど難しいことか、私は知っている。
この人になら、少しくらいなら、打ち明けてもいいのかもしれない──優しさに縋りたくてではなく、その姿勢が、まっすぐで誠実で、どこか眩しく感じられたから。そんな気持ちが、胸の奥に灯った。
「⋯⋯ありがとうございます」
かすかに、けれどはっきりと、私はそう答えられた。
その声を聞いたエルンストが、少しだけ目を伏せた。
その仕草に、王子がふっと笑みを浮かべた。
「……そういう顔をするんだ、エルンスト。珍しいね。君にしては、感情が顔に出ている」
エルンストはわずかに眉をひそめたが、何も言わない。
無言の否定も肯定もしない沈黙が、かえって雄弁だった。
「なるほど⋯⋯ねえ」
王子の口元に浮かんだ笑みは、どこか愉快そうで、けれど優しかった。
「ま、でも君は昔からそうだ。大事なことほど、回りくどい。僕を連れ出すくらいなのに」
「⋯⋯アルフレッド、余計なことを言うな」
「ん? 珍しい。人前で君が名前を呼んでくれるなんて。嬉しいねえ」
殿下、ではなくアルフレッドと静かな声で名を呼んだエルンストが、かすかに肩をすくめた。
睨むでもなく、怒るでもなく、ただ苦笑に近い無言の抗議。
「大丈夫、大丈夫。言わないよ。僕は空気を読める方だよ、たぶんね」
そんなふうに言って、王子は今度こそ軽やかに笑った。
──二人は、私が思っていた以上に、状況を見ている。そして、気にかけてくれている。
だからこそ、私も、覚悟を決めた。
草を抜き続けるために。平穏を守るために。
ただ黙って過ぎ去るのを待つのではなく、自分の手で「選ぶ」ために。
もう一度、茂みに目を向ける。
まだ、抜きがいのある根の深そうな雑草は沢山あるのだから。