父の書斎。
「お父様、少し⋯⋯お話、よろしいでしょうか」
書斎の扉をノックすると、中から「どうぞ」と低く落ち着いた声が返ってきた。部屋に入ると、父──エドワード・メイフィルド子爵は、眼鏡を外して机から顔を上げた。
「リアーナ。珍しいな、書斎に来るなんて」
「はい、あの⋯⋯少し、学園のことでご相談がありまして」
父はうなずき、静かに椅子を勧めてくれる。その仕草だけで、幼い頃から守られてきた安心感が胸を満たす。
「それで、何があった?」
私は少し逡巡したのち、学園でラリッサの周囲から広まりつつあるロザリンに関する陰湿な噂、そしてそれが自分にまで波及しそうな雰囲気を感じていることを、慎重な言葉を選びながら話した。ラリッサや取り巻きたちの動向には名指しの悪意を感じ、自分から誰かを非難することにも抵抗があった。
「これが経緯です」
私は一気に話し終え、胸の内に淀んでいたものをようやく吐き出した。父は、机の上の書簡を脇に寄せ、静かに指を組む。
「……なるほど。話はわかった」
父は短くそう言い、しばし黙考するように視線を落とした。その顔には、怒りも焦りもない。ただ事実を受け止め、どう対応すべきかを考えている──そんな冷静さがにじんでいた。
「リアーナは「公爵家に目をつけられたら子爵家などひとたまりもない」と心配しているのだな?」
図星を突かれ、思わず唇を噛む。そう、私が怖いのは自分より父の立場だった。私が標的になることで、父が王宮の貴族社会で肩身の狭い思いをするかもしれない。子爵家の名誉が傷つけば、父に影響が出るのだから。
父は椅子の背に身を預け、穏やかな声で続けた。
「確かに爵位の序列はある。だが、それは“責任の重さ”を示す尺度でもある。権勢ではなく、責務だ。貴族に必要な資質は三つあると、私は思っている。第一に、己の言動が誰かの生活を左右しうるのだと知る「自覚」。第二に、私情ではなく公共を優先する「節度」。そして第三に、弱き者を守る「勇気」だ」
父の眼差しがゆるやかに光を帯びた。王宮で鍛えられた冷静さの奥に、確かな誇りがみえた。
「公爵家といえど、その三つを欠く振る舞いは決して許されない。法と慣例があるから、ではない。周囲の貴族が、民衆が「それは貴族の責任に反する」と見なすからだ。たとえ公爵家でも、たった一つの子爵家を理不尽に潰せば、彼ら自身の立場が揺らぐ」
「でも、もし公爵家が本気で報復を⋯⋯」
「そのときは私が正面から受けよう」
父の声音に揺らぎはない。まるで帳尻を合わせる算盤を弾くように、淡々と事実だけを示す。
「私は財務監察官として国に仕える身だ。数字は嘘をつかないし、理不尽も記録に残る。仮に公爵家が不当な力を振るえば、必ず綻びが出る。私はその綻びを見逃さない」
それでも不安は完全には消えない。私は小さく首を振った。
「私のせいで、お父様が嫌な思いを――」
「リアーナ」
低く、しかし優しい声で遮られる。父は椅子を離れて私の前にひざまずき、同じ目線に立った。
「君はすでに「自覚」と「節度」を持っている。だからこそ、軽々しく噂に乗らず、ロザリン嬢を誤解で孤立させない道を選んだ。そして今、私の立場を案じて怖れている。それは「勇気」を伴う優しさだ。貴族の責任を十分に果たしているじゃないか」
視界がにじむ。けれど涙はこぼさない──そう決めて、背筋を伸ばした。
「お父様私、もっと強くなります。草むしりしか取り柄がなくても、自分の選択を曲げません」
「ははは、確かに我が娘が庭の草むしりを始めた時は何事かと思ったよ。だがね、草むしりは悪くない。雑草を抜いて庭を整えながら心を整えているのだとアミから聞いてなるほどなと思った。それと同じだよ。学園の──いや、貴族社会の歪みだって、根を探し当てて抜き取ればいい。目立たずとも、正しいことをする者のその姿を見ている者が必ずいるものだ。私はそう信じ、そうあろうと思っているよ」
父はそっと頭に手を置き、言葉を結んだ。
「公爵家は愚かな人たちばかりではない。だからこそ公爵家なのだから。好き勝手は公爵家として行わない、子爵家は簡単には倒れない。メイフィルド子爵家はリアーナと共にある。怖れるな。だが侮るな。リアーナの信じる道を行きなさい」
胸の奥で固く結んでいた不安の結び目が、ゆっくりとほどけていく。代わりに芽吹いたのは、静かな決意の芽。
「はい、お父様。ありがとうございます」
私は立ち上がり、書斎のドアノブに手をかけた。背中越しに父の声を聞く。
「よく話してくれた、リアーナ。雑草は根が深いほど抜きがいがある。気をつけて、そして楽しんでおいで」
思わず笑みがこぼれる。
「ええ、存分に」
扉を開け、ほの暗い廊下へ一歩を踏み出す。
私の心に、父の言葉という堅牢な支柱が据えられたことに心の底から感謝した。
──────────────────
翌日。
学園の廊下は、朝からどこかざわついていた。
まるで風の吹く前触れのように、空気が妙に湿り気を帯び、通り過ぎる生徒たちの視線が背中に張りつく。
噂は、思った以上に早く広まっていた。
昨日まで、ロザリンを取り巻く曖昧な中傷にとどまっていた話題は、今や私もその関係者であるという憶測をともなって膨れあがっていた。
昼食時の食堂では、私が入るたびに小声が止まり、教室の片隅では「リアーナ嬢って、ロザリン嬢と一緒にいたよね?」という囁きが耳に入る。
私が移動しようと廊下に出ると、まるでそれを待ち構えていたかのように、久しぶりに学園へ来たラリッサが取り巻きたちを連れて曲がり角から現れた。
「まあ、しばらくねリアーナ。わたくしがいない間、随分と有名になったようね」
ラリッサの声は、甘く上品な響きをまといながらも、その内に冷たい氷柱を隠していた。
私は立ち止まり、ほんの一瞬だけ躊躇したが、すぐに背筋を伸ばして返した。
「ごきげんよう、ラリッサ様。何かご用件ですか?」
言葉を選びながら問い返すと、ラリッサはにこりと笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「最近、ロザリンとずいぶん親しくしているようですわね?」
廊下にいた生徒たちの数人が足を止め、私たちのやり取りに視線を向けた。数の上では“通りすがり”の域を出ないはずなのに、全体としての気配が変わっていくのが分かる。
私は息を整えて答える。
「ええ、偶然お話しすることがありましたが、それが何か問題でしたか?」
ラリッサの笑みが、ほんのわずかだけ口角を引きつらせた。
「ええ、大ありよ。あなた、わたくしがお友達にしてあげたこと、忘れてしまったのかしら?」
その場の空気が凍る。
「身分を弁えていたから、あなたのような身分でもわたくしは寛大にしていたのに。たかが子爵家の娘が、公爵家のわたくしの意向を無視して動くなんて──身の程知らずにも程があるわ」
言葉は柔らかくても、その棘は鋭利だった。
私は思わず息を呑んだが、堪えた。ここで怯んではいけない。父が言っていた。「子爵家も立派な貴族だ。公爵家であろうと、好き勝手はできない」と。
周囲に集まりつつある視線の圧を感じながら、私はラリッサを見据えた。
「私は、誰の味方でもありません。ただ、自分が正しいと思ったことを行っているだけです」
取り巻きの一人が、あからさまに声を上げた。
「ロザリンの味方なんてして、無事でいられると思ってるの?」
「私は味方をしたつもりはありません」
「生意気なことを言いますのねっ下級貴族のくせにっ」
ラリッサの笑みが、今度は明確に怒りを帯びてゆがんだ。その刹那、誰かの足音が割って入った。
「二人とも、その辺にしておこうか。芝居が始まったって、皆が思ってるみたいだからね」
その声に、誰もが動きを止めた。
そこにはアルフレッド王子。彼の隣には、いつものようにエルンストが控えている。
空気が一変した。誰もが自然と背筋を伸ばし、言葉をのんだ気配がした。
「まぁっ、アルフレッド殿下。いやですわ、わたくしはリアーナと私的なお話をしているだけですのよ」
「うん、聞こえていたよ。かなり広範囲な私的だね」
アルフレッドはにこやかに肩をすくめる。その声音には、どこか皮肉がにじんでいた。
「でもね、少しだけ気になったんだ。たとえば「たかが子爵家」「下級貴族」っていう言葉。ラリッサは爵位で人を見ているのかな」
「そ、そんなつもりは⋯⋯ただ、秩序ってものがありますし」
「秩序に、誰かを排除する自由が含まれているのかな?」
飄々とした声だが、言葉の一つ一つは明確に釘となってラリッサを打った。
ラリッサが真っ赤になって言い返す。
「わたくしはアルフレッド殿下の婚約者候補ですわっ、それはわたくしが公爵家だから選ばれたのですわ。身分の低いものが王妃になんてなれませんのよ。貴族には身分相応と言うものがありますでしょう。なのにアルフレッド殿下に取り入ろうとしてますのよロザリンもリアーナも」
「なんだいそれは。随分と飛躍する。ああ、あの変な噂はもしかしてラリッサが始まり? 僕は誰かを婚約者候補にするとも、婚約者に決めたとも言っていないよ。一言も」
ざわ……と周囲の空気が揺れた。
エルンストが一歩前に出る。
「⋯⋯殿下、これ以上は混乱を招きます。お引き取りを」
その目が一瞬だけ、私を見た。
あれは、私への配慮? そんな優しさが見えた。
アルフレッドもわずかに頷き笑顔を見せる。
「ありがとう、エルンスト。さあ、解散。ラリッサも皆も」
アルフレッド王子の言葉にラリッサは何も言えず、取り巻きと共にその場から退散するように引いていった。
去り際私を睨みつけていたけど。
静寂が訪れ、私はようやく息を吐いた。
「いやあ、エルンストから聞いていたし噂にも聞いていたけど実際に目にすると苛烈だなぁ」
アルフレッドの笑顔は、穏やかだった。
その隣で、エルンストが低く言う。
「リアーナ、これで何事もなく済むことは、もうなくなったな」
「⋯⋯また不安を煽るような言い方を。いい加減にしないと永遠に伝わらないよ」
ふと、アルフレッドとエルンストが視線を交わし、何かを確かめ合うように頷いた。その光景が、不思議と胸に残った。
***
あれ以来、噂はあっという間に学園中に広がっていた。
私がロザリンと親しくしていたと当然のように標的に数えられ始めていた。
「ラリッサ様の逆鱗に触れたら終わりよね」
「でも、あの場面を見た? さすがにラリッサ様、やり過ぎだったわ」
「王子の前で“たかが子爵家”なんて⋯⋯言うことじゃないよ」
「身分を盾にされても、さすがに限度があるでしょ」
それでも、目立った非難の声はまだ表には出てこない。皆が様子を見ている。
そんな中、私の机に、誰からとも分からないくしゃくしゃの手紙が置かれていた。
中には、無記名で乱雑に書かれた言葉。「調子に乗るな」「次はないと思え」
それは、私への最初の警告。
──エルンストが言っていた通りね。
この日からラリッサの敵意が形を成し、嫌がらせが始まったのだった。
書斎の扉をノックすると、中から「どうぞ」と低く落ち着いた声が返ってきた。部屋に入ると、父──エドワード・メイフィルド子爵は、眼鏡を外して机から顔を上げた。
「リアーナ。珍しいな、書斎に来るなんて」
「はい、あの⋯⋯少し、学園のことでご相談がありまして」
父はうなずき、静かに椅子を勧めてくれる。その仕草だけで、幼い頃から守られてきた安心感が胸を満たす。
「それで、何があった?」
私は少し逡巡したのち、学園でラリッサの周囲から広まりつつあるロザリンに関する陰湿な噂、そしてそれが自分にまで波及しそうな雰囲気を感じていることを、慎重な言葉を選びながら話した。ラリッサや取り巻きたちの動向には名指しの悪意を感じ、自分から誰かを非難することにも抵抗があった。
「これが経緯です」
私は一気に話し終え、胸の内に淀んでいたものをようやく吐き出した。父は、机の上の書簡を脇に寄せ、静かに指を組む。
「……なるほど。話はわかった」
父は短くそう言い、しばし黙考するように視線を落とした。その顔には、怒りも焦りもない。ただ事実を受け止め、どう対応すべきかを考えている──そんな冷静さがにじんでいた。
「リアーナは「公爵家に目をつけられたら子爵家などひとたまりもない」と心配しているのだな?」
図星を突かれ、思わず唇を噛む。そう、私が怖いのは自分より父の立場だった。私が標的になることで、父が王宮の貴族社会で肩身の狭い思いをするかもしれない。子爵家の名誉が傷つけば、父に影響が出るのだから。
父は椅子の背に身を預け、穏やかな声で続けた。
「確かに爵位の序列はある。だが、それは“責任の重さ”を示す尺度でもある。権勢ではなく、責務だ。貴族に必要な資質は三つあると、私は思っている。第一に、己の言動が誰かの生活を左右しうるのだと知る「自覚」。第二に、私情ではなく公共を優先する「節度」。そして第三に、弱き者を守る「勇気」だ」
父の眼差しがゆるやかに光を帯びた。王宮で鍛えられた冷静さの奥に、確かな誇りがみえた。
「公爵家といえど、その三つを欠く振る舞いは決して許されない。法と慣例があるから、ではない。周囲の貴族が、民衆が「それは貴族の責任に反する」と見なすからだ。たとえ公爵家でも、たった一つの子爵家を理不尽に潰せば、彼ら自身の立場が揺らぐ」
「でも、もし公爵家が本気で報復を⋯⋯」
「そのときは私が正面から受けよう」
父の声音に揺らぎはない。まるで帳尻を合わせる算盤を弾くように、淡々と事実だけを示す。
「私は財務監察官として国に仕える身だ。数字は嘘をつかないし、理不尽も記録に残る。仮に公爵家が不当な力を振るえば、必ず綻びが出る。私はその綻びを見逃さない」
それでも不安は完全には消えない。私は小さく首を振った。
「私のせいで、お父様が嫌な思いを――」
「リアーナ」
低く、しかし優しい声で遮られる。父は椅子を離れて私の前にひざまずき、同じ目線に立った。
「君はすでに「自覚」と「節度」を持っている。だからこそ、軽々しく噂に乗らず、ロザリン嬢を誤解で孤立させない道を選んだ。そして今、私の立場を案じて怖れている。それは「勇気」を伴う優しさだ。貴族の責任を十分に果たしているじゃないか」
視界がにじむ。けれど涙はこぼさない──そう決めて、背筋を伸ばした。
「お父様私、もっと強くなります。草むしりしか取り柄がなくても、自分の選択を曲げません」
「ははは、確かに我が娘が庭の草むしりを始めた時は何事かと思ったよ。だがね、草むしりは悪くない。雑草を抜いて庭を整えながら心を整えているのだとアミから聞いてなるほどなと思った。それと同じだよ。学園の──いや、貴族社会の歪みだって、根を探し当てて抜き取ればいい。目立たずとも、正しいことをする者のその姿を見ている者が必ずいるものだ。私はそう信じ、そうあろうと思っているよ」
父はそっと頭に手を置き、言葉を結んだ。
「公爵家は愚かな人たちばかりではない。だからこそ公爵家なのだから。好き勝手は公爵家として行わない、子爵家は簡単には倒れない。メイフィルド子爵家はリアーナと共にある。怖れるな。だが侮るな。リアーナの信じる道を行きなさい」
胸の奥で固く結んでいた不安の結び目が、ゆっくりとほどけていく。代わりに芽吹いたのは、静かな決意の芽。
「はい、お父様。ありがとうございます」
私は立ち上がり、書斎のドアノブに手をかけた。背中越しに父の声を聞く。
「よく話してくれた、リアーナ。雑草は根が深いほど抜きがいがある。気をつけて、そして楽しんでおいで」
思わず笑みがこぼれる。
「ええ、存分に」
扉を開け、ほの暗い廊下へ一歩を踏み出す。
私の心に、父の言葉という堅牢な支柱が据えられたことに心の底から感謝した。
──────────────────
翌日。
学園の廊下は、朝からどこかざわついていた。
まるで風の吹く前触れのように、空気が妙に湿り気を帯び、通り過ぎる生徒たちの視線が背中に張りつく。
噂は、思った以上に早く広まっていた。
昨日まで、ロザリンを取り巻く曖昧な中傷にとどまっていた話題は、今や私もその関係者であるという憶測をともなって膨れあがっていた。
昼食時の食堂では、私が入るたびに小声が止まり、教室の片隅では「リアーナ嬢って、ロザリン嬢と一緒にいたよね?」という囁きが耳に入る。
私が移動しようと廊下に出ると、まるでそれを待ち構えていたかのように、久しぶりに学園へ来たラリッサが取り巻きたちを連れて曲がり角から現れた。
「まあ、しばらくねリアーナ。わたくしがいない間、随分と有名になったようね」
ラリッサの声は、甘く上品な響きをまといながらも、その内に冷たい氷柱を隠していた。
私は立ち止まり、ほんの一瞬だけ躊躇したが、すぐに背筋を伸ばして返した。
「ごきげんよう、ラリッサ様。何かご用件ですか?」
言葉を選びながら問い返すと、ラリッサはにこりと笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「最近、ロザリンとずいぶん親しくしているようですわね?」
廊下にいた生徒たちの数人が足を止め、私たちのやり取りに視線を向けた。数の上では“通りすがり”の域を出ないはずなのに、全体としての気配が変わっていくのが分かる。
私は息を整えて答える。
「ええ、偶然お話しすることがありましたが、それが何か問題でしたか?」
ラリッサの笑みが、ほんのわずかだけ口角を引きつらせた。
「ええ、大ありよ。あなた、わたくしがお友達にしてあげたこと、忘れてしまったのかしら?」
その場の空気が凍る。
「身分を弁えていたから、あなたのような身分でもわたくしは寛大にしていたのに。たかが子爵家の娘が、公爵家のわたくしの意向を無視して動くなんて──身の程知らずにも程があるわ」
言葉は柔らかくても、その棘は鋭利だった。
私は思わず息を呑んだが、堪えた。ここで怯んではいけない。父が言っていた。「子爵家も立派な貴族だ。公爵家であろうと、好き勝手はできない」と。
周囲に集まりつつある視線の圧を感じながら、私はラリッサを見据えた。
「私は、誰の味方でもありません。ただ、自分が正しいと思ったことを行っているだけです」
取り巻きの一人が、あからさまに声を上げた。
「ロザリンの味方なんてして、無事でいられると思ってるの?」
「私は味方をしたつもりはありません」
「生意気なことを言いますのねっ下級貴族のくせにっ」
ラリッサの笑みが、今度は明確に怒りを帯びてゆがんだ。その刹那、誰かの足音が割って入った。
「二人とも、その辺にしておこうか。芝居が始まったって、皆が思ってるみたいだからね」
その声に、誰もが動きを止めた。
そこにはアルフレッド王子。彼の隣には、いつものようにエルンストが控えている。
空気が一変した。誰もが自然と背筋を伸ばし、言葉をのんだ気配がした。
「まぁっ、アルフレッド殿下。いやですわ、わたくしはリアーナと私的なお話をしているだけですのよ」
「うん、聞こえていたよ。かなり広範囲な私的だね」
アルフレッドはにこやかに肩をすくめる。その声音には、どこか皮肉がにじんでいた。
「でもね、少しだけ気になったんだ。たとえば「たかが子爵家」「下級貴族」っていう言葉。ラリッサは爵位で人を見ているのかな」
「そ、そんなつもりは⋯⋯ただ、秩序ってものがありますし」
「秩序に、誰かを排除する自由が含まれているのかな?」
飄々とした声だが、言葉の一つ一つは明確に釘となってラリッサを打った。
ラリッサが真っ赤になって言い返す。
「わたくしはアルフレッド殿下の婚約者候補ですわっ、それはわたくしが公爵家だから選ばれたのですわ。身分の低いものが王妃になんてなれませんのよ。貴族には身分相応と言うものがありますでしょう。なのにアルフレッド殿下に取り入ろうとしてますのよロザリンもリアーナも」
「なんだいそれは。随分と飛躍する。ああ、あの変な噂はもしかしてラリッサが始まり? 僕は誰かを婚約者候補にするとも、婚約者に決めたとも言っていないよ。一言も」
ざわ……と周囲の空気が揺れた。
エルンストが一歩前に出る。
「⋯⋯殿下、これ以上は混乱を招きます。お引き取りを」
その目が一瞬だけ、私を見た。
あれは、私への配慮? そんな優しさが見えた。
アルフレッドもわずかに頷き笑顔を見せる。
「ありがとう、エルンスト。さあ、解散。ラリッサも皆も」
アルフレッド王子の言葉にラリッサは何も言えず、取り巻きと共にその場から退散するように引いていった。
去り際私を睨みつけていたけど。
静寂が訪れ、私はようやく息を吐いた。
「いやあ、エルンストから聞いていたし噂にも聞いていたけど実際に目にすると苛烈だなぁ」
アルフレッドの笑顔は、穏やかだった。
その隣で、エルンストが低く言う。
「リアーナ、これで何事もなく済むことは、もうなくなったな」
「⋯⋯また不安を煽るような言い方を。いい加減にしないと永遠に伝わらないよ」
ふと、アルフレッドとエルンストが視線を交わし、何かを確かめ合うように頷いた。その光景が、不思議と胸に残った。
***
あれ以来、噂はあっという間に学園中に広がっていた。
私がロザリンと親しくしていたと当然のように標的に数えられ始めていた。
「ラリッサ様の逆鱗に触れたら終わりよね」
「でも、あの場面を見た? さすがにラリッサ様、やり過ぎだったわ」
「王子の前で“たかが子爵家”なんて⋯⋯言うことじゃないよ」
「身分を盾にされても、さすがに限度があるでしょ」
それでも、目立った非難の声はまだ表には出てこない。皆が様子を見ている。
そんな中、私の机に、誰からとも分からないくしゃくしゃの手紙が置かれていた。
中には、無記名で乱雑に書かれた言葉。「調子に乗るな」「次はないと思え」
それは、私への最初の警告。
──エルンストが言っていた通りね。
この日からラリッサの敵意が形を成し、嫌がらせが始まったのだった。