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作者: 京泉
じわじわと⋯⋯沈む日々。

 学園の一日は、優雅なはずだった。

 陽の光は変わらず窓から差し込み、教師たちの講義は整然と続き、廊下に響く笑い声も穏やかだった。けれど、私にとってそれは、静かに進行する陰湿な舞台に変わりつつあった。

 今日も、教室の自席に向かおうとした私は、ほんの僅かに足を止めた。

「⋯⋯濡れてる?」

 スカートの裾が椅子に触れる寸前で気づいた。昨夜は雨だったけれど、他の席にそんな様子はない。椅子の座面には、濁った泥水の染みができていた。白いハンカチでそっと押さえると、ぬるりとした感触と、かすかな泥の匂い。

──泥水。

 偶然じゃない。こんな不自然な濡れ方をするはずがない。

 教室の隅で、数人の女生徒たちが口元を押さえて笑っていた。彼女たちの輪の中心にいるのは、ラリッサ。まるで舞台の主役のように涼しい顔で佇んでいるけれど、その瞳は鋭く、私の一挙一動を監視していた。

──本当に、くだらないわ。

 私は何も言わず、静かにハンカチを畳み、椅子を拭いた。笑い声が背後から刺すように届いたけれど、耳に入ってこない。入ってこないことにした。

 別の日には、講義の合間、教科書を取り出そうとして机に手をかけた瞬間、何かがざらりと指先に触れた。

 机の内側には、白く細かな粉がまぶされていた。スカートの膝が触れた箇所は白く汚れており、恐らく細かく砕かれた石膏のようだった。触るとざらざらとして、爪の間に入り込む。

──手が込んでるわね。誰かの彫像を壊したのかしら。それとも、わざわざ石材室から持ち出した?

 嫌悪よりも、呆れの方が勝っていた。手間をかけてまで私に構う執着心が、むしろ哀れに思える。

 私は無言でハンカチを取り出し、膝と机を拭きながら深く息を吐いた。だがその吐息に、かすかに重さがあることに、自分でも気づいていた。

 さらに別の日、配られた教材の束の中から、一枚の紙が落ちた。それは模写用の白紙だったが、私の名前をもじったあだ名と稚拙な風刺画が描かれていた。髪をぼさぼさにされた女の子が、泥だらけでスカートを引きずっている。

──笑いのセンスもお粗末ね。

 それでも、笑い声とささやきが教室中に広がっていくのを感じた。視線の波が、私にぶつかってくる。痛みはない。けれど冷たい。まるで水の中に沈められているような息苦しさが、喉元を締めつけた。

 それでも私は、何も言わない。誰も見ていないところで、それをそっと鞄に押し込んだ。抗議することは、彼女たちに「効いた」と思わせること。私の感情は、彼女たちの勝利の証にされてしまう。

──前世の会社員だった頃も、こんな風に、何もない顔をしてやり過ごしていたわね。

 違うのは、ここが学園であり、貴族社会の縮図であり、そして何より、私はこの世界では“子爵令嬢”に過ぎないということ。力の差は歴然としている。

 心の奥底に、沈殿するように溜まっていく澱。それが、ふとした瞬間に胸の奥で泡立つ。悔しさ? 悲しさ? いや、きっと、もっと複雑で、名もない感情。

 だけど、泣かない。怒らない。
 だって、ここで私が取り乱したら、それは彼女たちの“思うつぼ”だもの。

──────────────────

 そんなことが続く日々の中で私は裏庭にいた。

 垣根の向こう側、誰も近づかない垣根を越えた茂みのの中。ここだけが、今の私の心を守ってくれる場所だった。

「カヤツリグサが沢山。煎じればお腹の薬にもなるのよね」

 手袋をはめ、しゃがみこんで、指先でそっと草の根をたどる。土の匂い、草の感触、虫の羽音──静寂が、私を包み込んでくれる。無心でいると、何もかもを忘れられた。

 けれど、その静けさが破られたのは、不意に聞こえた茂みをかき分ける音だった。

「君は、本当に変わっているな」

 声の主に顔を上げると、そこにはエルンストがいた。

 相変わらず感情を読ませない表情。でも、どこか安堵を含んだ声が、妙に心地よかった。

「ええ、よく言われます」
「──少しは気が晴れたか?」
「ふふ、ありがとうございます、エルンスト様。気にしていただいて」

 皮肉にも感謝の言葉が自然に出るほど、私は彼の存在に救われていた。

「無理をしなくていい」

 まったくこの人は。ぶっきらぼうで、言葉は不器用。でも、ちゃんと見ている。その“目”がある限り、私は立っていられる。

「そうですね。草を抜いていると、嫌なことを忘れられるんです」
「嫌がらせのことか⋯⋯」

 エルンストの目が僅かに鋭さを帯びる。その視線に痛みを感じて、私は土を握ったまま手を止めた。

「少し、だけです。少しだけ、傷ついてるんでしょうね。でも、大丈夫です」
「無理をするなと言っただろう」

 その声音が、やさしかった。ああ、私はやっぱり、この人のその不器用なやさしさに、甘えているんだ。

 そこへ──また茂みがかき分けられる音。息を切らして現れたのは、なんとロザリンだった。

「リアーナ様!」
「⋯⋯ロザリン、様?」

 土埃まみれ、髪も乱れ、目元は赤い。彼女がここまで取り乱している姿を見るのは初めてだった。

「やっと、やっと見つけた⋯⋯校舎も、図書室も、正門も探して⋯⋯!」

 その姿に、私は思わず立ち上がった。何が彼女をここまで突き動かしたのか。

「何かあったの?」
「ごめんなさい、リアーナ様。私の、せいで──」
「違うわ」

 強く、はっきりと否定する。ロザリンのせいではない。これは私が選んだ道。誰かに媚びて、保身に走ることを拒んだ。その代償を払っているだけ。

「でも、それでもリアーナ様が傷ついているなら──」

 ロザリンの肩が震える。私のためにこんなにも泣いてくれる人がいる。それが、どれほど尊いことか。

「私⋯⋯リアーナ様のように、自分の意志で動ける人になりたいです。だから、もし⋯⋯」

 彼女は俯いたまま、けれどしっかりとした声で言った。

「もしよければ⋯⋯ふつつかな私ですが、と、友達に、なってください!」

 私は、思わず笑ってしまった。

「ふつつかって。ロザリン、友達っていうのは、なんでも肯定する関係じゃないと思ってるの。私が間違っていたら、ちゃんと叱ってくれる?」

「私も叱ってくださいっ、沢山、いっぱい!」

 二人で笑い合ったとき、背後で小さく吹き出す音がした。

「エルンスト様、今、笑いましたね?」
「リアーナがそうやって笑うのは、悪くないと思っただけだ」
「今の顔、珍しく微笑みました? もう一回見せてください」
「俺は見せ物ではない。君は俺を誤解しているだろう⋯⋯」

 その照れ隠しの言葉に、私もロザリンも吹き出した。

 けれどその直後、エルンストの顔が引き締まる。

「リアーナ、ロザリン嬢。二人に話しておくことがある」
「何かあったのですか?」
「殿下──アルフレッド殿下は、近く決断を迫られるだろう。だが、それには根拠が要る。だからこそ、俺は“今”を見届ける必要がある」

 その言葉には、王子の側近としての覚悟と、私たちを守る意志が込められていた。

「俺はリアーナを守ると誓う」

 言葉にして、口に出すというのは、なんと重いことだろう。

「⋯⋯ありがとうございます。心強いです」

 ロザリンが何故か頬を染めて、私とエルンストを交互に見ていた。

「まぁっ、それって⋯⋯」

 その可愛らしい反応に笑いそうになりながら、私は少しだけ目元を熱くした。

 ロザリンと笑い合ったあとの余韻の中、私たちはそのまま裏庭の木陰に腰を下ろした。穏やかな時間だった。けれど、エルンストは何かを考えるように遠くを見つめ、しばし沈黙していた。

「エルンスト様?」

 私が呼びかけると、彼はふと我に返ったようにこちらを見た。

「──実は、伝えておくべきことがある。殿下の意志も含めて、君たちに隠しておくわけにはいかないと判断した」

 重たい空気がその場に降りる。私は自然と背筋を正した。

「ここ数日、舞踏練習会に向けて不穏な動きが出ている⋯⋯君に関することだ」

 言葉を選んだその言い回しに、私は息をのんだ。

「不穏、というのは……?」
「舞踏会用のドレスに細工をしようとしている動きがあった。仕立て屋に不審な依頼を持ちかけた者がいた。それは⋯⋯ラリッサ嬢と接点のある者だったそうだ」

 その一言で、背中に冷たいものが走った。まさか、そこまで。

「そこまでする理由が、私にあるのかしら。私は何も、彼女から奪ってなど⋯⋯」

 思わず言葉を呟いた私に、エルンストははっきりと首を振った。

「理由などない。ただ、彼女がそう「思った」というだけで、十分に行動する。それが彼女だ。そして殿下が、君を気にしているように見えることも、彼女にとっては侮辱に等しいのだろう」
「でも、殿下はただ、私に起きていることを知ろうとしているだけでしょう?」
「それでも、彼女はそうは受け取らない」

 私の脳裏に、ラリッサの整った笑顔と、その裏に潜む冷たい視線がよぎった。あの目は、最初から、私を値踏みするように見ていた。

「ラリッサ嬢の動きは、すでに殿下も把握している。最近の彼は、あえて彼女に関わる場面を避けている。正面から対決せず、波風を立てずに牽制する手法を取っているようだ」

 するとエルンストは、珍しく口元をわずかに歪めた。皮肉を含んだような表情。

「礼法の時間、ラリッサ嬢が殿下の隣の席に向かおうとした時、殿下は先に机の上に数冊の資料を広げて「既に他の生徒と共有する予定だ」と告げた。誰と共有するのかは明言せず、結局その席には誰も座らなかった」
「それってわざと⋯⋯ですか」
「ああ。席を明けておいて、曖昧な理由で彼女を遠ざけた。不自然には映らない形で、本人だけが“拒まれた”とわかるやり方だ。貴族社会では、ああいった沈黙が最も響く。直接否定しない。けれど、近づくことを許さない。それが“王族”のやり方でもある。怒りを表に出さず、周囲に“違和感”として残す。貴族社会では、それが一番の圧力になる」

 確かに、彼が真っ向から拒絶してしまえば、それは彼の立場を危うくする。婚約候補の貴族の娘を公に拒否すれば、政略の構図に傷がつく。それを避けるために、曖昧な態度を保ちつつ、少しずつ距離を置く。それがアルフレッド王子の選んだやり方なのだろう。

「殿下は、ラリッサ嬢との関係を自然に薄めようとしている。けれど、貴族社会はそう簡単に割り切れるものではない。だからこそ、君が狙われる」
「巻き込まれたくないのに、巻き込まれてしまうんですね⋯⋯」

 自嘲混じりの呟きが、唇からこぼれた。
 それでも、エルンストは言った。

「──守ると言っただろう。殿下もまた、君にこれ以上の理不尽が及ぶなら、友人として、動くつもりでいる」
「それは、殿下の本音ですか?」
「殿下は感情を表に出さないが、信頼している人間には本心を伝える。少なくとも、俺にはそうだった」

 それは、揺るぎない信頼関係があっての言葉だと思った。ならば私は、そこに甘えるべきなのかもしれない。

「ありがとう、エルンスト様」

 自然と口をついた言葉だった。

「⋯⋯リアーナ様は、どうしますか?」

 隣でロザリンが小さく尋ねてくる。私は少し考えてから、答えた。

「草むしりでもして、心を整えてから、考えるわ」

 ロザリンが笑った。エルンストも少しだけ頷いた。
 私はきっと、これからもっと試されるのだろう。

 陰湿な敵意は、これから本格的な“策略”へと姿を変えていく。

 私はそれに、立ち向かえるだろうか。
 それとも、傷ついて、壊れてしまうのだろうか。

 それでも、ひとりじゃないと思えることが、何よりの力になる。

 泥水をかけられても、粉を仕込まれても、教科書に落書きをされても。
 私は、自分を失わないでいられる。

──自分の足で、立つ。

 その強さを、少しだけ取り戻せた気がした。
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