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作者: ディエ
感染症
◇◇4 感染症◇◇

その日、私は木内婦長に頼んで時間を作ってもらい、薬品庫の棚卸をしていた。
慢性的な物資不足の影響は、地域の基幹病院である第五病院でも深刻で、請求した物品が一度の配送で完納されることはほとんどなかった。そこで、せめて医薬品の節約につながればと思い、在庫の確認をしようと思ったのだ。
そして在庫チェックを始めてすぐに分かったのが、管理のいい加減さだった。
「まったく・・・ きちんと記録をつけるように言わないと・・・」
思わずそんな愚痴もこぼれてしまう。
何かと忙しい野戦病院においては、医師の口頭指示も常態化しているし、医師が薬品名を言うだけで、看護婦が決められた用量、用法で投薬する体制が出来上がっている。
それ自体が悪いとは言わないが、その後で何をどのようにしたのか記録しておくことは必要だ。その時の行動を後から検証できないのでは、その経験が無駄になってしまう。
そんなことを考えながら、医薬品を一つ一つ台帳と照らし合わせていく。
局所麻酔薬が特に不足気味なのは、緊急で取りに来て、記録を忘れてしまうからだろうか。抗生剤が台帳の記載ほど減っていないのは、現場で半量ずつ使って、二重記載になってしまったからだろうか。
とにかく台帳との不一致が多い。
ではここの薬剤医官の佐々木さんはいい加減な人間なのかというと、そうでもない。叩き上げの曹長で、現場主義が少し強めなだけだ。現に今も薬品庫を私に任せて、医薬品を届けに行ってしまった。

その時、ガチャリとドアが開いた。
もう戻って来たのかと思ったが、入ってきたのは佐々木さんではなく、副院長だった。
「あ、副院長・・・! 失礼いたしました」
私は驚いてしまうが、それは副院長も同じようだった。
「なんだ、いたのかね・・・」
そう言って薬品棚の間に立っていた私に目をくれる。
武田軍医大尉。大柄でにこやかな表情、時間があれば病室を回っている細やかさで好印象だったのだが、張さんの採用の時に『日本人ではないから』という理由で反対したと聞いて、少し見る目が変わってしまった。
「モルヒネ、もらっとくよ」
副院長はそう言って、薬品庫の奥にある、麻薬・劇薬保管庫の扉を開ける。
「あ、はい。記録だけお願いいたします」
「分かっとるよ」
そう言いながら副院長は備え付けの台帳に記入していく。
「佐々木君が戻ったら、よろしく言っといてくれ」
「はい、承知いたしました」

そうして副院長が出て行ってからしばらくして、佐々木さんが戻ってくる。
「お疲れ様です。棚卸はどう?」
「もうすぐ終わります。あと、さっき副院長が来られてモルヒネを持っていかれましたよ」
「はいはい。台帳の記載さえあれば大丈夫です」
佐々木さんは、いかにも現場主義らしく、軽く言う。でもモルヒネはれっきとした麻薬で、厳重な管理が求められるはずだ。
「他の軍医の方も自分で持っていかれたりするんですか?」
「そうですね。私がいれば私がお渡ししますけど、24時間ここにいるわけじゃないんで。そういう時は皆さん、ご自分で持っていかれますね」
そう言いながら佐々木さんはモルヒネの台帳を持ってきてくれる。
「皆さん、台帳の記載はしっかりされているので、問題になったことはありません」
台帳には日付、薬品名、製造番号、使用量、患者名、使用目的、使用医師名、庫内の残量があり、最後に佐々木さんの確認印が押されている。ただし、確認印が『佐々木』ではなく、使用医師名になっている欄もあり、それが医師が自分で持ち出したものなのだろう。一番下の欄には先ほど副院長が持ち出したものが記載されており、しっかりと『武田』の印が押してあった。もちろん庫内の在庫数と台帳は一致している。でも、私はその欄に書いてあった患者名が少し気になった。
昨日の病棟担当の時に、ずっと「痛い、痛い」と言っていた患者ではなかっただろうか。
台帳を遡って見ていくと、三日前から疼痛緩和目的でモルヒネが持ち出されている。しかも、確認印は三回とも『武田』だ。
モルヒネの鎮痛作用は中枢性で、痛みを感じなくさせる効果だ。普通に考えれば効かないわけがない。三日前からの使用では耐性はまだできない。投与ミスというのも考えにくい。あとは、肉体的要因ではなく、精神的要因で苦痛を訴えているのかもしれない。

私は不審に思いながら、外科病室の患者を訪ねた。
狭い病室には簡易ベッドが並べられ、その間を看護婦が点滴の具合を見たり、包帯を替えたりしている。天井には大型の扇風機がゆっくりと回っているが、手術中は電力不足となるため、停められてしまう。昼の間は窓を開けているからいいが、朝晩の窓を閉め切った時だと、途端に室内は血や膿、排泄物の匂いで充満してしまう。
そんな中で昨日の患者を見つける。今は穏やかな顔をして、体を起こしている。
「失礼します」
「あ、昨日の看護婦さん」
「痛み止めの注射は打ってもらいましたか?」
「あぁ、今はいいよ。でも最初だけでまた痛みが戻ってくるんだ。他にもっといい痛み止め、ないもんかねぇ・・・」
「そうですね。お医者さんに相談してみますね」
「あぁ、頼むよ」
そうして私は病室を出た。たったあれだけの会話だったが、私はもう確信していた。あの会話の反応速度、呼吸数、そして何よりモルヒネでピンポイント状になるはずの縮瞳が全く見られなかった。あの患者はモルヒネを打たれていない。
私は台帳に記載されていた、副院長によってモルヒネを投与されているはずの他の患者の様子も見に行った。何の問題もない患者もいたが、やはり『痛み止めが効かない』と訴える患者もいた。その患者にも縮瞳は生じていなかった。
自分で持ち出しておきながら、看護婦に間違えて別のアンプルを渡すわけがない。つまり、副院長は故意にモルヒネを隠匿しているということになる。
モルヒネではなく何を打ったのかと考えると、台帳の記載からやけに不足していたプロカインが思いつく。プロカインは局所麻酔薬であり、最初だけは効くという患者の訴えとも合致する。

私は野戦病院でのモルヒネ隠匿がどのくらいの罪になるのか知らない。でもそのせいで不要な痛みに耐えている患者がいることは事実だ。
私は重い足取りで婦長室に向かった。
『今のところ、状況証拠しかありませんが』と断ってから、自分の疑惑を伝えると、木内婦長の反応は素早かった。
すぐに内線電話で吉川さんに連絡し、副院長を連れて来てもらったのだ。
副院長は私が同席しているのを見ると、かすかに緊張した。
「もう分かったようですね」と木内婦長が追撃すると、副院長の緊張はさらに高まった。
「い、いや。なんだろうな。今決めなければならないような急な案件はあったかな」
「えぇ、ありますよ。モルヒネを横流ししていた不届き者の処遇についてです」
「何を言ってるんだ! 君かね、とんでもない思い込みで騒ぎを起こしてるのは!」
副院長は私に向かって怒鳴り始めるが、その反応はもう自らの罪を認めたのと同じだった。わたしは患者を観察して得られた事実を、淡々と述べた。
「じゃあ、実際に注射した看護婦の手技は確認したのかね! 打つ人間がへたくそなら効きにも差が出る! 縮瞳だって、教科書的にはそうだが、個人差があるんだ!」
そういった副院長の反論に、木内婦長は全く動じなかった。
「もっと潔い方かと思っていましたが・・・ 吉川さん?」
声をかけられた吉川さんは、机の上にケースから出したアンプルを2本乗せた。
「市内の日本人社長の自宅から空アンプルと共に押収したっす。過去に複数回、日本人から購入したそっすよ。相手の顔も覚えてるって言ってたっすね」
「これについては、何か言い訳は?」
「・・・」
そこまで言われ、副院長は言葉もない。
「後ろ盾の早川軍医中佐がいなくなったのですから、おとなしくしておくべきでしたね」
そう言って木内婦長が目配せすると、吉川さんはおとなしくなった副院長の腕を取って、退室していく。

「ふぅ、ご苦労様。嫌なところを見せてしまったわね」
二人だけになると、そう言いながら木内婦長はキャラメルを一粒くれる。
「副院長の件は、知っていたのですか?」
「こちらも状況証拠だけでしたけどね。相手の顔を覚えているというのは、吉川さんのハッタリですね。でも布村さんの指摘のおかげで、告発に十分な証拠がそろいました。ありがとうございます」
「あ、いえ・・・ それと、早川軍医中佐という方は・・・?」
「私の前任の院長です。いろいろと問題のある人間で、その人を排除して私が着任したのですが、彼の右腕であった副院長もようやく排除できました」
その言葉に、私は個人的な不正にとどまらない組織的な陰謀のようなものを感じ取った。
「・・・何が起きているのですか?」
「すぐに相手も動きます。そうしたら説明しますね」
木内婦長はそう言って、珍しく厳しい顔をした。

そして木内の予期していた反応は、副院長の武田が更迭された翌日に起きた。
木内がチチハル市内にある軍医部附属庁舎の執務室に呼び出されたのだ。相手は軍医部顧問兼技術審議官の松島軍医大佐。軍の医療政策や運営に関して大きな影響力を持つ人物だ。
だが木内はその裏の顔も知っている。
第731部隊直属の実験支援部隊である第三課の統括責任者。木内がかねてから警戒していた、闇の組織の一端だ。

うららかな秋の日の午後。時折小鳥のさえずりが聞こえる簡素な執務室の中、二人は冷たい空気を発しながら対峙していた。
「・・・ところで、着任からそろそろ二か月だが、第五病院にはもう慣れたかね」
松島が椅子に深々と座り、書類をもてあそびながら尋ねる。
「ありがたいことに職員は皆、支えてくれます。環境には恵まれております」
木内は直立不動のまま答える。
「そうか。実は君のことは以前から多少は知っていてね。本部のほうでずいぶん張り切っていたそうじゃないか」
「そのように噂になっていたとは恐縮です」
「そんな君が、まぁ、あのようなところに赴任とはね。君の上司たちも見る目がない。さぞ落胆したのではないかと思ってね」
「最初は驚きました。ですが、現場には現場でしか分かりえない意義があると、日々学ばせていただいております」
「真面目だな・・・ だが、本音ではどうだ? 第五病院などは、君のいた本部から見れば、はっきり言って僻地だ。その上、君の赴任と同時に大量の看護婦の転属が起こったとも聞いている。そして今回の副院長の不祥事だ」
「問題が山積しているのは、重々理解しております。全て、私の力不足のためです」
「いや、責めるつもりはないんだ。むしろ、君は巻き込まれた側だと思っているからね」
「お気遣い、ありがとうございます」
「ただ、ここではもう少し肩の力を抜いてもいいのではと思ってね。君の前任者、早川君と言ったかな。彼は君ほど優秀ではなかったが、あまり書面の体裁にはこだわらない合理的な人物だった。ある意味、見習う点もあるのではないかな」
「私はまだ未熟者ですので、書類に従うのが精一杯です。前任者のようには参りません」
「まぁ、形式に忠実なのも立派なことだがね。だが、毎日書類に追われていては大変だろう。なにしろあの規模だ。治療の間に合わない患者、自分のことしか考えない患者、手に余る者も多いのではないかね?」
「ご賢察のとおりです。看護婦も衛生兵も限られておりますので、万全とは参りません」
「では、無理はしなくていい。困った患者がいれば、こちらで預かっても構わない。こちらには設備も専門医もいるからね」
「心強い申し出、感謝いたします。万一、こちらで適切な対処が困難な例があれば、正式な書類と共にご相談させていただきます」
「正式な書類、ね・・・ やはり君は誠実な人間だな。誠実すぎて、融通が利かないと思われないか、心配になるよ」
「そのようなご心配をおかけしないように、職務に努めます」
「そうか。では、君の真面目なやり方での成果を期待しているよ」
「ご期待に沿えるよう、最善を尽くします」
そうして木内は一礼して退室しようとする。
そこで松島は「そうだ・・・」と思い出したかのように声をかける。
「君のところの副婦長、高岡君はどうかね。使えそうかね」
「はい。技量、統率力共に申し分なく、頼りにしております」
「それはいいね。実は彼女のことは前から知っていてね。結果的には君の部下に収まったわけだが。彼女は環境によってはまだ伸びしろがあると思っておる」
「こちらでも、こちらなりのやり方で育てております」
「うん。では、君のもとでどのような花が咲くのか、楽しみにしておこう」
松島はそう会話を切り上げ、木内は今度こそ一礼をして退室した。
「木内か・・・ やはりあそこの動きはよく見ておく必要があるな」
静かになった室内で、松島はそう呟くと、内線電話で係官を呼び出した。

その日、夜勤からの引継ぎが終わったタイミングで、私たち第一特務救護小隊のメンバー20名だけが、二階の会議室に集められた。
部屋の外では吉川さんが、他の人が近づかないように立っていたし、部屋の中で待っていた木内婦長と高岡副婦長の厳しい表情から、私はいよいよ『特務』の部分が明かされるのだと思った。
「本日、関東軍衛生管理課より第五病院に対して、安南村(アンナンツン)における感染症発生の可能性に関する現地調査命令が正式に通達された」
全員が整列するのを待ち、書類を見ながら、高岡副婦長が口を開く。
「村に立ち寄った行商人が発熱して第一衛戍病院に搬送された。行動履歴から安南村が感染源の可能性が高いそうだ。調査内容は住民への聞き取りと健康状態の観察。村の衛生環境の確認も行う。村側にはすでに通達済み。日本語の堪能なものが待機している。これが衛生管理課からの指示内容だ。これに対しては、第一特務救護小隊が任に当たる」

そして今度は木内婦長が進み出る。
「これから第一特務救護小隊は正式に任務を開始します。私たちが向き合うのは戦地での傷や病だけではありません。人が人に対して行う非人道的行為そのものです。この大陸では今現在、防疫の名をかたって生物兵器の開発と、そのための人体実験が行われています。その中心にあるのが第731部隊と呼ばれる組織です。私たちの任務は彼らに銃口を向けることではありません。私たちは命を守り、記録を残すことで非人道的な組織犯罪に立ち向かうのです。記録が消されれば、事実すら消し去られてしまう。だからこそ、私たちは人の命と記録を守る最後の盾とならなければならないのです」
木内婦長は私たちの顔を見回した。
「皆さんの勇気と良心に期待します」
木内婦長の訓辞に、全員が敬礼で応える。
その後、高岡副婦長から、実際に安南村に向かう特務班として布村、藤田、小野、中島、坂上、五十嵐と指名され、さらに私は調査責任者としても指名された。そして他の人たちは解散となる。
明かされた使命の重大さに、思わず胸ポケットの上に付けた小隊の徽章に目が行く。『人の命と記録を守る最後の盾』、そんな意味が込められていたのか、と思う。

そして私たちはすぐに身支度を整え、軍用トラックに装備を積み込んでいく。個人用の診察器具と記録用紙の束。井戸水や土壌などの試料を採取するための密閉缶。予備の長袖白衣と布マスクと手洗い用の石鹸。器具消毒用のフェノールと靴の消毒に使う石灰。水を入れた金属缶もあった。
それらを積み終わると、私は助手席に、他の五人は荷台へと乗り込む。運転するのは吉川さんだった。
少し冷たい秋風の中、古い軍用トラックがガタゴトと走り出す。ガラス器具などの壊れ物も沢山あるため、吉川さんは慎重に運転しているが、時折荷台のほうから荷物のずれる音と『キャー!』という悲鳴が聞こえたりもする。この調子だと、目的の安南村までは1時間ほどかかるそうだ。
私はしばらくはゆっくりと流れていく、トウモロコシやコーリャンの収穫の様子を眺めていたが、ふと気になったことを吉川さんに尋ねてみる。
「あの、私たちの任務って、病院の他の看護婦の皆さんには秘密なんでしょうか?」
「ん? あぁ、同じ釜の飯を食ってる仲間に隠し事は気まずいっすか?」
「えぇ、まぁ・・・」
私がそう応えると、吉川さんは少し視線を上げた。
「ん~、そこは役割分担だと思ったらどうっすか」
いつも通り、吉川さんの答えは軽かった。
「婦長が小隊だけ呼び出したのは、他の人間が任務のことを聞いても、どうしようもないからっすね。ただ不安を煽るよりは、自分のできることに集中してもらったほうがいいっすからね。それに・・・」
吉川さんが珍しく、声を潜める。
「最悪、知っていることで命に危険が及ぶことも考えられるっす。相手はそのくらいヤバイとこっす」
「えぇ・・・」
船上での訓練の時から『危険があるかも』とは思っていたが、そうはっきり言われると、また任務の感じ方が違ってくる。
「でも、病院の職員はみんな仲間っていうのは合ってるっすよ。最後まで残ってた武田を排除できたからこそ、婦長は今回の命令を受けたんす」
そうして吉川さんは痛快そうに続ける。
「婦長は元々本部の大佐っすよ。それが独断専行がばれて、二階級降格の上、第五病院に左遷っす。表向きは・・・ そこまでされれば、もうどことの繋がりもない、孤立した人間だと思わせるには十分っすからね。本当の目的は第五病院を乗っ取って、内部浄化を進めて、反攻の足掛かりにすることっす」
その最終段階が、武田副院長の告発だったわけだ・・・
「看護婦の皆さんも、全員婦長のチェック済みっす。前任の早川や武田の一派や、倫理観の低い潜在的な敵側の協力者は全部、婦長が転属させてるっすよ」
その代わりに婦長の私設部隊ともいえる小隊の看護婦が赴任してきたわけだ。だが・・・
「・・・そんなことまで話していいんですか?」
私が尋ねると、吉川さんは少し考えこむ。
「ん~、まぁ、大丈夫っしょ。布村さん、口は堅いっしょ? それに婦長のことちゃんと知っていて欲しかったっすからね」

そんな話をしていると、やがて荒れた道の先に四角い土壁の家と白い煙が見えてくる。調査対象の安南村だ。
吉川さんは村の数百メートル先でトラックを停めると、私たちはその道端に仮設テントを立てて、みんなでトラックの物資を降ろしていく。
ここから先、村に入るのは私たち小隊の六人だけだ。
もし本当に村で感染症が発生していて、それが致命的なものだった場合、私たちはすぐには、あるいは永久に帰れなくなる。そんな場合にも、遠くから記録や検体を、ここで待機する吉川さんに投げ渡せば、安全に持ち帰ってもらえる。
私たちは消毒済みの長袖白衣を着込み、布マスクを二重に付けて、三角巾で髪の毛を覆う。はっきり言って、精一杯の気休めだ。もし本当に重大な感染症が発生しているのであれば、こんな装備では防ぎきれない。
吉川さんが「気を付けて」とだけ言ってくれる。

私たちは隊列を組んで、周囲の様子を観察しながら、村に向かう。辺りに動物の死骸はないか、虫の群れはいないか、遠くに見える村の様子に異常はないか。時々マスクを外して匂いも確認する。
村の入り口が近づいてくる。家々から白い煙が立ち上っている。最初は何を燃やしているのかと思ったが、匂いからしてただの炊事のようだ。見える範囲に、倒れたりしている人はいない。もっとも、私たちが調査に来ることは伝えてあるそうだから、具合が悪い人は屋内に隠しておくだろう。
痩せた犬が私たちを見つけ、逃げていくのが見えた。犬が元気ならば、危険な感染性のある死肉は落ちていないということだ。まだ潜伏期であるとか、犬が食べる前に片付けられたという可能性もあるが。
村の入り口に、一人の男が立っていて、私たちがやって来るのを待っている。この人が、日本語が堪能な協力者だろう。
「こんにちは! 第五病院から派遣されて来ました!」
私は遠くから声を張り上げる。男の人は『何をやっているんだ』という様子でこちらに来ようとするので、両手で『来ないで』と合図する。空気感染の可能性もあるので、迂闊に近付くことはできない。
「そのままでお願いします!」
そう言うと男の人は首を捻りながら、入り口の門柱の所に戻る。
「村の中で具合の悪い人はいますか!?」
「いない!」
そう男の人が怒鳴り返してくる。相手が若い看護婦だけというので、不満げな表情を隠そうともしない。男性軍人にするような卑屈な態度に出られても、それはそれで困ってしまうが。
「一昨日、行商の人が来たそうですが、知っていますか!?」
「知らない! この村には誰も来ない!」
私が村の人と話している間に、スミレたちは小声で作戦会議を始める。
「何か、まともそうな村だな」
「少なくとも、目に見える異常はなし」
「あそこ、何か炊いているんでしょうか。女の人がいますよ」
「元気そうだな・・・」
「この村で感染症は起きていないのでは・・・?」

確かに男の人に不機嫌さは見られるが、『感染症がばれた』という焦りや怯えは見られない。
感染症が発生すれば、その村は軍によって全ての出入りが禁止され、農作業や市場での取引もままならなくなってしまう。兵士や検疫要員が土足で家屋に踏み込み、感染疑いの家畜は全て殺処分。もちろん、村人が飢えようが家財が失われようが、軍からの補償や補填は一切ない。
つまり、本当に感染症が発生しているのであれば、何とか隠し通そうとする過敏さや、軍の人間が聞きつけて来たという恐怖がにじみ出るはずなのだ。
「・・・行く?」
私が言うと、全員が賛成してくれる。
そして私たちはようやく村の入り口をくぐった。ただし、まださりげなく距離は保っている。
「具合の悪い人間なんかいないって言ったのに、看護婦が六人も来たのか。あんたのとこの病院は相当暇なんだな」
挨拶の前に、そんな嫌味を言われてしまう。男の人は楊(ヤン)と名乗った。
「すみません。ここで感染症が発生したんじゃないかと言われたもので」
「じゃあ、好きに調べたらいい。そちらさんに言われた通り、畑仕事にも市場にもいかずに、みんなここで待ってたんだ。調べるなら早くしてくれ」
「はい、ご協力感謝します」
そうして楊さんの他にもう一人日本語が分かる人にも来てもらい、三組で手分けをすることにした。私と中島さんと楊さん。坂上さんと五十嵐さんと、もう一人の通訳。スミレとシゲミはシゲミの中国語に頼って、通訳はなし。
そうして一軒ずつ訪ねて、一人一人に聞き取りをしていく。氏名、年齢、性別、持病の有無、病歴、以前の住所、家族構成、血縁関係、行動範囲、村内での交流範囲、現在の体調、両親と祖父母の病歴、家族の死因など。どうしてここまで、と思うような項目が準備された記録用紙には、ずらりと並んでいる。そうして一人が聞き取りをしている間に、もう一人は体温を測ったり、顔色や脈、喉の腫れの有無などを確認していく。
その間も楊さんは『まだ昨日の仕事が途中なのに・・・』などと終始不満げだった。それでも老人が部屋から出てくる時に手を貸してあげたり、子どもへの聞き取りの時にはこちらの質問を分かりやすく何度も言い直したりしてくれた。もともとは誠実で優しい人なのだろう。

そんな聞き取り調査が終わったのは昼過ぎだった。結果は『感染症の兆候がある人は一人もいない』というものだった。
そして私たちはお昼抜きで、すぐに環境調査に移る。村に三か所ある井戸水とその近くの土壌の採取、ブタ、ロバ、ニワトリなどの家畜の異常の有無とその飲み水の採取、村の内外の動物の死骸の有無、ここ最近動物の死骸を見なかったか、などを手分けして調べていく。採取した試料のほうは検査しなければ分からないが、目視、聞き取りの範囲内ではいずれも陰性。異常は見られなかった。
「これは完全なシロだな」
「うん、でも安心した・・・」
最後に私たちは『調査協力のお礼』ということで25キロの粗塩を二袋、みんなで分けてくださいと言って置いてきた。ここのような小村にとってはかなりの貴重品になるはずだ。楊さんはまだ『一日が台無しだ』などと言っていたが、少しは機嫌を直してくれたようだった。

そして帰りのトラックの中、私は今度は荷台のほうに乗った。一応椅子もついているが鉄パイプに板を渡しただけの簡易的なもので、クッション性などはない。道の凸凹が直に伝わってくる感じだ。
私たちの中で最初に口を開いたのは、スミレだった。
「なぁ、あの調査票、おかしくない?」
「そうだよね・・・ 感染症の調査なのに、もう亡くなってる人の病歴なんて・・・」
シゲミもそう言って同意する。
「まるで遺伝的素養を調べようとしてるみたいだよね」
私がそう言うと、二人も頷く。その他にも、村人への聞き取りが異様に細かいのに対して、環境調査がおざなりになっている、というのもある。
一応私たちは一般的な感染症調査の初期対応に従って、水や土壌の調査も行ったが、渡された報告用紙の項目には、目視での異常の有無くらいしか記入欄がないのだ。
「まるで、環境調査には興味がないみたい・・・」
「でも、自分たちのほうから感染症の疑いって言っておきながら、そんなことするか?」
「・・・感染症疑いって言っておけば、軍の強制力が使えるから、とか?」
「まぁ、調査をスムースに進めるなら、それが一番楽だろうけど・・・」
そんなことを話し合うが、結論が出ないまま、漠然とした不信感だけが残った。
報告書と採取した検体はすぐに木内婦長に提出した。検体のほうは木内婦長が後方の基幹病院に検査依頼として出したようだ。

その翌日、私は木内婦長に呼び出された。
「これから安南村の報告書を提出しに行くんだけど、現場の調査責任者として、ついてきてもらえるかしら」
そのように言われ、私は木内婦長と共に、軍の小型車両で1時間ほどの距離にある軍の拠点に向かう。
だが、そこの関東軍衛生管理課で言われたのは、『指示されたのは軍医部顧問の松島大佐なので、提出はそちらに』というものだった。
「これは、はめられたわね」
別棟にある松島大佐の執務室に向かう途中、木内婦長はそう漏らした。
「松島大佐というのは・・・?」
「私たちの相手が第731部隊というのは話したでしょう。松島大佐はそこの幹部よ」
「え・・・」
つまり私たちはこれから敵の本拠地に乗り込んでいくようなものだ。
そんな私の緊張を見て、木内婦長がクスリと笑う。
「大丈夫、何も取り繕う必要はないわ。私たちは正確な報告をすればいい」
「はい」

そうして木内婦長は重厚で巨大な基地内をすたすたと歩いていく。以前にも来たことがあるのか、真っ直ぐに目的の松島大佐の執務室に到着する。
「木内です。報告書をお持ちしました」
木内婦長がノックをしてそう告げると、「入りたまえ」と返される。
「失礼いたします」と入った瞬間、木内婦長と松島大佐の間で何らかのやり取りが交わされたような気がした。
「安南村での報告書を作成してまいりました」
木内婦長は報告書を手渡すが、松島大佐はそれをぱらぱらと見るふりをして、机の隅に置く。
「さすがは木内君、仕事が早い。やはり君があんなところにいるのはもったいないよ。そして、布村君か。寒い中、ご苦労だったね」
「いえ、ご手配いただいておりましたおかげで、円滑に調査を進めることができました」
突然話題を振られ、私は緊張しながら答える。
「そうか。報告書のほうは後で読ませてもらうとして、今のところ、特段の異常はなし、ということでいいのだね?」
「そのとおりです。村の住民にも環境にも、不審な点は認められませんでした」
木内婦長がそう答える。
「うん、それが一番だからね。ご苦労だった」
「は、失礼いたします」
そうして退室しようとした時、「布村君、少しいいかな」と声をかけられる。
木内婦長は「外で待っています」と小さく言って、そのまま退室する。
「さて、布村君。君の優秀さは、私の耳にも届いているよ。現場で動ける人間は少ないが、現場で考えられる人間はもっと少ない。貴重な人材だと思っているよ」
「恐縮です」
私はどう反応したらいいのか分からずに、頭を下げるしかできなかった。
「ところで君は『トリアージ』という言葉を知っているかね」
「はい、『選別』というような意味です。戦場や災害現場で、限られた医療資源の中、治療の優先順位を付けることです」
そう応えると松島大佐は満足げに頷く。
「よく勉強しているね。それが軍の本質だよ。君はまだ、全ての人を助けなければならない、漏れがあってはならないと考えているんじゃないかね? だが軍という組織は、まず必要なものだけを拾い上げる。何が一番成果に結びつくかを考え、そこをまず押さえる。これがトリアージであり、効率化だよ」
そう言われ、なんとなく納得できないものが表情に出てしまったのかもしれない。
「君が優秀だと思っているからこそ、こんなことを言うんだがね」
そう言って松島大佐は少し身を乗り出してきた。
「効率的に出世するためには、力のある者の命令だけを聞くことだよ。私に直接言ってくれれば、力になれることもあるだろう」
松島大佐は低い声でそう言うが、すぐに椅子の背にもたれて元の口調で言う。
「時間を取らせて済まなかったね。木内君を待たせても悪いからね。君の活躍には期待しているよ」
「は、失礼いたします」
私はどことなく釈然としないものを抱えて、部屋を出た。

そして、安南村の現地調査から五日後のこと、高岡副婦長から驚くべき内容が伝達された。
「今朝、憲兵の係官が通達を持ってきた。昨日、安南村でペストが発生。本日より14日間の隔離措置を取るそうだ。当院でも発熱、リンパ節の腫脹など、ペスト様症状の出現には厳に注意すること。この通達書は掲示しておくので、各自詳細を確認すること」
『至急』『防疫通達』の赤い判が押された封筒を持った高岡副婦長は、いつも通りの口調で言うが、院内は大騒ぎなった。

ペストと言えば赤痢やチフスとは一線を画す、最悪の感染症だ。ただでさえ致死率が高いのに、野戦病院では十分な治療は望めない。一人でも感染者が運び込まれれば、病院全体に蔓延、最悪病院自体が封鎖されかねない。
すぐに院内の雑務係さんが非番の医師を呼びに行き、対策会議が開かれる。薬剤医官の佐々木さんが、ある程度は薬効が認められているサルファ剤の大量発注をする。衛生兵たちがグラウンドに隔離用の軍用テントを設営する。備品係の看護婦が消毒薬やマスクをもっと出してくれと病院の補給課に詰め寄る。病院や倉庫、宿舎の周りにも殺鼠剤が撒かれた。患者対応の看護婦は気丈に振舞っていたが、それでも勘のいい患者には『何かあったのでは』と思われるだろう。

そして、一番衝撃を受けたのは、実際に安南村に行ってきた私たちだった。私たちも感染している可能性がある・・・
私はすぐに高岡副婦長に断って、他の五人と共に、グラウンドに建てられたばかりの軍用テントに駆け込んだ。
「みんな、健康チェックに問題はないのよね?」
私の問いにみんなが頷く。病院の職員は、毎朝の体温測定や体調、食欲、睡眠状態などの項目を健康点検表に記載することになっている。
安南村に行ったのは9月10日。今日は9月15日で、腺ペストの潜伏期間は越えたとみていいだろう。だが、教科書的には潜伏期は2~6日となっているものが多い。念のため、あと一日だけここにいたほうがいいだろう。万が一にも病院内にペストを持ち込むことはできない。
見れば、シゲミがこそこそと服の中に手を入れている。自身のリンパ節が腫れていないか気になるのだろう。症状は高熱から始まると分かっていても、つい確認してみたくなるのは私も同じだ。
「シゲミ~、そんなとこに手、入れて何やってんの~?」
「も、もう!」
スミレがからかうように言うと、シゲミが真っ赤になる。スミレにしても、何とか場を和ませようとしているのだろう。
「まぁ、これだけ元気だったら感染はしてないよね」
「でも安南村ではペストが集団発生したんでしょ?」
「私たちが村を出た後に? なくはないけど・・・」
「でももし、何か見落としていたら・・・」
そんな風に話し合いながら、私は木内婦長が以前言った『生物兵器の開発』という言葉を思い浮かべていた。

ペストを人為的に発生させることができれば、それは兵器として恐ろしい効果を発揮するのではないだろうか。実際、昔の戦争ではペスト患者の使った寝具や、ペスト患者の遺体を敵陣に投げ込むことも行われていた。当時の感覚では呪いをまき散らす目的だったのだろうが、もし本当にペスト菌をまき散らすことができるとしたら・・・

その時、「入るわよ」という言葉と共にテントのチャックが開けられ、木内婦長が入ってきた。
「みんな大騒ぎで人手が足りなくなってるのに、こんなところで何をやってるの」
木内婦長が呆れたように言う。
「私たちは実際に安南村に出入りしたんです。念のためあと一日だけ・・・」
「安南村に異常はなし。そう報告したのはあなたたちでしょう。であれば、その時点で本当に感染症はなかった。当然、あなたたちも感染していない。あなたたちが何か見落とすわけはありません」
木内婦長がさも当然のように言う。そう断言されると、気持ちが落ち着いて冷静になってくる。
「それに、あなたたちにはやってもらうことがあります」
木内婦長の表情が引き締まる。
「安南村の隔離が終わる9月30日に、もう一度安南村に行って、状況を検分しなさい。人為的にペストが発生したという証拠を掴むのです」
それは正しく私が考えていたことだったので、思わず息を呑む。
「今のところ分かっているのは、村の人たちが現地調査の後に行ったと思われる市場では感染症の発生はなく、衛生検査も行われていないということ。突然、安南村にだけペストが発生し、そのほかの場所では発生の可能性さえ考慮されていないという、不自然な状況よ。あの報告書の様式にも不審な点があったでしょ?」
確かに、最初から人為感染のための下準備なら、環境調査が抜けていてもおかしくはない。
そうして木内婦長はまた笑顔に戻ると、パンパンと手を叩く。
「ほら、いつまでもこんなとこに引きこもっていないで、やることは沢山あるでしょう? いきなり小隊が抜けたら病院看護婦が困っちゃうわよ」
「・・・はい!」
そうして私たちは軍用テントを出た。

確かにやることは山積みだ。医師、看護婦を含めた患者の隔離訓練。布製のマスク、手袋の消毒と保管。ペストに対する知識確認のための勉強会の実施。院内の清掃と寝具類の再消毒。もちろん、いつもの入院患者対応も続くし、ペスト感染ではない患者もどんどんやって来る。
結局、ペスト感染疑いの患者が来ることはなかったが、そんなことをしていると二週間はあっという間だった。

そして約束の9月30日。私たちは再び吉川さんの運転で安南村に向かう。
だがそこで目にしたのは、あれだけ平和そうだった安南村の変わり果てた姿だった。
村は、すっかり焼け落ち、人の気配は全く感じられなかった。油と焼け焦げた木の匂いが辺り一帯に漂っている。熱は感じられなかったが燃え後はまだ生々しい。ほんの数日前、もしかしたら昨日にでも火の手が上がったのだろうか。
「連中の仕業っすね」
トラックから降りた吉川さんが、辺りを見回して言う。吉川さんの言う『連中』とは第731部隊関連のことだろう。
「村で実験をやって、実験が終わると全部燃やして、何もなかったことにするんすよ」
意図的にペストに感染させた上に、村ごと消してしまうなんて・・・
私はあまりのことに、声も出なかった。スミレは悔しそうに焼け跡を睨みつけていた。シゲミは今にも泣きだしそうだった。

私は最初の調査の時のことを思い出していた。このすっかり焼け焦げた門柱の前には、不機嫌そうな楊さんが立っていた。今では油が染み込み黒焦げになった通りでは、数人の中年女性が珍しそうにこちらを見ながら噂話をしていた。崩れ落ちた畜舎では、小さな子供がブタにエサをあげていた。
だが、今は誰もいない。ここに安南村があったことは、すぐに忘れられてしまうのだろうか。
「検分を始めましょう」
私は顔を上げてみんなに言った。
「全てを記録するんです。ここに村があったことも、ここに人が住んでいたことも。なかったことになんかさせません」
そうして私たちは、強烈なガソリンの匂いが漂う村の中を調べて回った。
茅葺の屋根や木製の梁、柱、戸などは全て灰になって焼け落ちている。土壁も芯になっている木材が燃えたために、ほとんどが崩れ落ちている。日干し煉瓦の床材には油が黒く染みつき、異臭を放っている。こんなところで『幸い』と言うのは不謹慎かもしれないが、人の遺体は一つも残されていなかった。

私たちがここで見つけた不審点は三つ。
一つ目は、私たちが最初の調査の時に、お礼として置いてきた粗塩の袋がそのままの形で焼けていたことだ。衛生管理課からの通達では、軍が村を封鎖したのは調査の五日後だ。ある程度貴重な品である粗塩が五日間も分配されずに放置されていたとは考えにくい。おそらく、粗塩を分配する時間もないくらいすぐに、村内の自由は奪われたのだ。つまり、ペストが発生する前に村の封鎖が行われた可能性がある。
二つ目は、村の数か所に大量の稲藁の灰が残っていることだ。この村の周囲はコーリャン畑で、稲は日本人居住区の付近にしかない。畜舎にあるのも全てコーリャン藁だった。太く固いコーリャン藁と細く柔らかい稲藁とは灰になっても区別はつく。つまり稲藁になじみのある日本人が稲藁と共にペストに感染させたノミを持ち込んだ可能性がある。
ペスト菌は強烈な感染力を持つが、単独で環境中に置かれれば、すぐに死滅してしまう。だから人為的に感染させようとすれば、ノミやネズミに感染させたうえで、それらに媒介させるのだ。
三つ目は、遺体が一つもなく、火葬や埋葬された痕跡もないことだ。ペストは強烈な伝染病だ。軍の介入があったとしても、村一つが全滅することは十分あり得る。だが、その遺体は埋葬もせず、どこへ消えたのか。考えられるのは、実験の成果として回収された、というものだ。

9月10日、私たちが現地調査を終えて村を出ると、すぐに物陰から実験機材や藁束を積んだトラックが村に入る。そこから降りてくるのは銃を持った軍人たちと、完全防備の研究者たちだ。軍人たちが銃で住民を脅し、あちこちにペストノミを大量に含んだ藁束が撒かれる。直接、菌液を注射された住民もいただろう。そしてペストを発症しても治療は行われず、症状がどのように進行、感染拡大していくのかだけが、冷酷に観察される。その過程でサンプルとして何人かは後方の施設に送られ、遺体もまた解剖するために移送される。そしてこの村の住民は一人もいなくなる。研究者たちは速やかに器具を撤収し、軍人たちは村中に大量のガソリンを撒き、焼却処分する。

そんな光景が私の頭の中にまざまざと描かれた。
「・・・私たちは、 ・・・何もできなかった」
強大すぎる敵の、理不尽すぎる行いに、胸の奥から怒りが突き上げてくる。
「・・・確かに、防ぐことはできなかったけど」
「・・・これからできることは、あると思います」
白くなるまで握りしめられた私のこぶしに、スミレとシゲミが手を重ねてくれる。そしてゆっくりと私のこぶしを開いてくれる。『怒りに身を任せる必要はないのだ』と言うように。
開かれた私の手を、スミレとシゲミがしっかりと握ってくれる。暖かな、そして柔らかな手だった。
この怒りも、悔しさも、悲しみも、一生消えることはないだろう。でも、それらを抱えたままでも、この二人と一緒ならば、前に進んでいけるような気がした。

◇◇◇◇◇

私は石塚さんが語ったあまりの内容に、しばらく声が出なかった。
数年前に、満州での第731部隊の悪行を取り上げたノンフィクション風の出版物が刊行されていたが、私はその内容のほとんどを『創作性が強い』と疑問視していた。
だがこんなところに、身近に第731部隊の存在を感じていた人がいたのだ。
ふと見ると、石塚さんの表情にはやや疲れが見えた。このようなひどい話をした精神的なものだろうか。
「あの、この話はまた後日、ということにしましょうか?」
自分から聞き出しておいてこんなことを言うのは失礼かとも思ったが、そう提案してみる。
「いえ、そちらがよろしければ、話してしまいたいです。いろいろと思い出してきたところですので」
「そうですか・・・ では、無理をなさらないように、お願いします」
そうして私はまた聞き手に回る。
「・・・その安南村の出来事は、第731部隊の仕業であると証明できたのでしょうか」
「いいえ。私たちはそう確信していましたけど、証明まではできませんでした。木内婦長も、いくつかの命令書の日付から矛盾点を見つけていたそうですが、告発まではいかなかったようです」
「そうですか・・・ その後は、第731部隊と関わるようなことはありましたか?」
「今思えば、と言う感じですけど、いろいろな形で関わっていたのだと思います。比較的近くに、第731部隊関連の支隊が展開していたのですからね。あるいは木内婦長が私たちを守ってくれていたのかもしれません」
「なるほど・・・」
「私たちは傷病とだけでなく、厳しい自然環境や軍の横暴とも戦っていたようなものですね。第731部隊に限らず、軍の横暴に翻弄される兵の姿はたくさん見てきました。 ・・・あれは赴任して何年目かの冬でした。私はスミレやシゲミと一緒に大尉になっていました」
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