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作者: ディエ
余暇
◇◇6 余暇◇◇

その日の朝、非番の看護婦や衛生兵、雑務係さんなども、病院の玄関前に集まり、時計を見ながらそわそわしていた。
昨日までのわずかに残っていた雪も、今朝までにきれいに端に寄せられている。
やがて遠くのほうから軍用トラックのエンジン音が聞こえ始め、そこにガタゴトと重そうに車体を揺らす音も加わってくる。
誰かが「来た」と言うと、私たちはわけもなくシンとしてしまう。
そしてそのトラックが病院の門からグラウンドに入ってくると、一斉に歓声が上がり、停止したトラックに群がるように走っていく。それは今年初の軍の配給トラックだった。

今までは雪のせいで、馬そりでほんのわずかな量が届くだけ、しかもそれさえ不定期で、衛生兵が丸一日がかりで駅まで取りに行くこともざらだった。その状況での、ようやくのトラック便の再開だ。
もちろん、実際に積まれている物資の量は大したものではないことは誰もが知っている。それでも『まだここは見捨てられていないんだ』という安心感は全然違う。

食糧品では軍用の乾パンやコーリャンの麻袋がおおく、後は味噌や塩などで、生鮮食品はなし。足りない分は自分たちで現地調達しろという方針だ。
医療品は消毒薬と注射針が入っていた。これでようやく、研ぎ直して使っていた注射針を新しいものに替えられる。箱入りのモルヒネアンプルもあったが、その中には開封済みの物もあった。それを検品してみると、十本入りのモルヒネが、全てロット表示のない正体不明のアンプルにすり替えられていた。私は溜息をつきながら、配給品を管理している輜重科への抗議内容に記入する。
こんなことをしても無駄なのは分かっているが、かといって抗議しなければ「それで構わない」と取られてしまう。もうこのころの軍は、モルヒネの管理さえまともにできない状態だったのだ。
その他の薬はなし。病院とは言っても、ずいぶん前から薬草と自然治癒力に頼るしかない状況だ。
個人用のものとしては、患者用の病院服や看護婦用の前掛け、下着類もあった。いずれも縫製が甘く、現場で再度手縫いしなければならないような品質だ。どこで混入したのか、大量の古着の箱もあった。これは後で裁断して、包帯代わりになるだろう。
そして麻袋に入った石炭も大量に積まれていた。受領伝票を見ると、三か月も前に請求したものだった。

冬の時期は石炭の一かけが患者の生死を分けるような状況だったが、何とか冬を乗り切り、今は石炭の消費も落ち着いてきた頃だ。とりあえず石炭庫に入れておくよう指示を出していると、若い軍医が「布村大尉。これで入浴用の湯を沸かしてはいかがでしょう」と提案してくる。
確かに冬の間はずっと、濡らした布で体を拭くだけの清拭対応だったから、衛生管理にも限界があるし、精神的にもお風呂に入れたほうがいいに決まっている。だが、今は余剰品となっている石炭だが、いつまた逼迫するか分からない。入浴というのは魅力的だが、ここは『我慢』だろうか・・・
そんなことを考えていると、誰かが私たちの会話を聞きつけたようで、「お風呂?」と小さく呟いた。あちこちから「お風呂だって」「お風呂なんて何か月ぶり?」という声が聞こえてくる。その声はさざ波のように広がり、あっという間に辺りは数か月ぶりのお風呂というお祭り状態となってしまう。
困った状況になったものの、正直、私もお風呂には入りたい。
そう、これは身体衛生上でも精神衛生上でも非常に重要なことなのだ。ただの贅沢や浪費ではない。

一応、高岡副婦長にも話を通してから、「今日は患者、職員全員の入浴日とします」と宣言し、準備を始めてもらう。
早速、グラウンドの隅に大型テントが張られ、そこに倉庫の中で薪になる寸前だった木製の浴槽が二つ運び込まれる。その横には脱衣用のテントも張られた。手の空いている職員総出でバケツリレーを行って井戸水を張ると、雑務係さんがここぞとばかりに大火力で沸かしていく。大型テントの中はすぐに湯気でいっぱいになる。それと並行してドラム缶でも足し湯用のお湯が沸かされている。
まずは動ける患者が呼ばれて、恐る恐るテントの中に入ってくる。「ほんとに風呂だ」「体が浸せるなんていつ以来かねぇ」「僕はこっちに来てから初めてです」などと、口々に言っている。そしてテントの前で配られた古布で体を洗ってから、ゆっくりと湯につかる。その時にはみんな同じように「はぁぁ・・・」と言うのがおかしかった。
自力で動けない患者のもとには大きなたらいと沸かしたての湯がバケツで運ばれ、足浴や清拭が行われた。いつもはつらそうに顔をしかめている兵も、この時ばかりは笑顔になっていた。「湯加減はいかがですか?」と尋ねると、涙を浮かべて頷いていた。
そしてその動けない患者の対応には木内婦長も加わっていた。木内婦長はあの虚脱状態の田中さんの足を取り、ゆっくりと反応を見ながら、お湯に浸していく。傍目には、やはり何の反応も見られない。木内婦長はゆっくりと田中さんの足を揉みほぐすようにしながら、優しい口調で何事か語りかけていた。

そして午前中いっぱいをかけて患者の入浴を終わらせると、今度はお湯を入れ替えて、男性職員の番だ。
ここでは現地雇いの軍属も大尉も、日本人も漢人も、みな一緒になって並んだ。漢人の雑務係さんが日本式の入浴方法を説明され、おっかなびっくり湯船に浸かっていく。その横では軍医大尉が畏まった様子の二等兵の背中を流してやっていた。出自も階級も関係ない、人と人との付き合いがあった。
次は女性職員の番だ。テントの周囲には歩哨のように女性の見張りが立てられ、男性職員が近づかないよう、目を光らせる。普段にはない物々しい様子が逆に男性職員の笑いを誘った。

服を畳んで入浴用のテントに入り、手桶でかけ湯をしてから、体を洗う。手拭いで擦るたびに、信じられないくらいの垢が出てくるのをみて、少し恥ずかしくなる。
そうしてきれいに流してから髪を手拭いでまとめ、体には晒布を巻いて、ゆっくりと湯船に体を浸す。目を閉じると指先がジンジンして、体の奥から温まってくるのが分かる。
「はぁ・・・ 生き返る・・・」
日赤養成所の広い共同浴場が思い起こされる。
ふと目を開けると、体に晒布を二重に巻いておろおろしているシゲミが目に付いた。
「何してるの? 冷えるから早くおいでよ」
そう声をかけると、シゲミは人目を避けるように、小走りでやって来る。
「あの、こういうところの作法ってあるの?」
シゲミは周りを気にしながら小声で尋ねてくるが、私にはその意味が分からなかった。
「作法も何も、普通に入ればいいんじゃない?」
「あの、私、こういうところでみんなで入るのって初めてで・・・ 実家では女中さんが手伝ってくれたけど、みんなの前で入るのは緊張して・・・」
なるほど、と私は思った。良家のお嬢様とは知っていたけど、そこまでの超お嬢様だったか・・・
確かにこちらに来た最初の頃はお風呂にも入れたけど、その時シゲミは、何かと理由をつけて最後に一人で入っていたような気もする。
私は仕方なく体に巻いた晒布を整えると、手桶でシゲミにお湯をかけてやる。
「手拭いで体を洗うことぐらいできるでしょ? そうやって洗ってから、また晒布巻いて入るの」
「こんなに大勢の前で?」
どうやらシゲミは同性であっても、人前で肌を晒したくないらしい。「誰も見てないよ」と言っても、シゲミは晒布に手をかけたまま固まっている。
「じゃあ、スミレに手伝ってもらう?」
私は内心、ため息をつきながら、そう発破をかける。
「え!?」
シゲミがビクッとするのと、私たちの後ろで豪快なお湯をかける音が響いたのは同時だった。
「何の相談?」
腰に手拭いを巻いただけのスミレが手桶を片手にやって来る。
「な、何でもない! 何でもない!」
そう言いながら、シゲミは顔を赤くして目を背ける。
「シゲミお嬢さまが、一人では体が洗えないって」
私がいたずらっぽく言うと、スミレもにやりと笑う。
「なるほど。では不肖わたくしめが、お嬢さまの湯女を務めさせていただきましょう」
そう言いながらスミレがにじり寄っていく。
「ひぃぃ! い、いいです! 自分で出来ます!」
そう言いながら、シゲミはようやく晒布をほどき始める。
私たちに背を向けてこそこそと体を洗っている様子は、いかにも『いたずらをしてくれ』と言っているように見える。
スミレが脇腹をつついたりすると「ひゃん!?」とおかしな声を上げていた。
そうしてほっぺたを膨らませたシゲミを間に挟んで、私たち三人が並んで湯船に浸ったのも束の間、すぐに交代の時間が告げられる。
「シゲミだけ延長させてもらう?」
「え、そんな悪いよ」
スミレの提案に、シゲミは慌てて手を振る。
「それに私のぼせやすいからちょうどいいかも」
「そう? でもシゲミ、一人じゃ体拭けない、とか言わないよね?」
私がそう言うと、スミレがまたにやりと笑う。
「い、いいです! 自分で出来ます!」
シゲミはそう言いながら、晒布を整えると、湯船からざぶりと立ち上がった。

そうして三人で大型テントを出るが、外はまだ明るかった。冬の頃であれば、もう真っ暗な時間帯だ。風はまだ冷たいが、それもどんどん暖かくなり、すぐに夏がやって来ることだろう。
湯上りの火照った体に涼しい風を感じながら、次はいつ入れるだろうか、などと考えていると、吉川さんがサイドカー付きのバイクで出かけるところだった。
「あれ、こんな時間に伝令かな・・・」
そう呟くと、向こうから「あ、あなたたち、丁度よかった」と、木内婦長がやってくる。
木内婦長は堅苦しいことは気にしないので、私たちは略式の敬礼で挨拶する。
「実は副婦長や新井さんとも相談して、今夜は演芸会をすることにしたのだけど、その準備を手伝ってもらえるかしら?」
「演芸会?」
「そう。今日の配給の中にお酒があったでしょう? みんなで飲むには足りないし、上の人たちが独占するのも不公平だし。だからみんなで争奪戦にしたらどうか、ということになったのよ」
確かに今日の配給トラックの中には、慰労用と書かれた清酒が二本入っていた。私は誰が飲むか知らなかったので、そのまま木内婦長のところに置いておいたのだ。
「さすがに二本だけじゃ盛り上がらないから、吉川さんに追加で何か買ってくるようお願いしたの。あなたたちには参加者の募集とかをお願いしたいのだけど」
なるほど、さっきの吉川さんは買い出しだったのか。
「景品はお酒だけなんですか?」とスミレが尋ねる。
確かにお酒だけでは、職員の大多数を占める看護婦はあまり盛り上がれないだろう。
「でも甘味類は入っていなかったし、どんなものだったら喜ばれるかしらね・・・」
木内婦長は首を捻るが、スミレはすかさず、一つの提案をする。
「キャラメルなんかどうですか?」
「え? でも・・・」と木内婦長は戸惑うが、私も「そうですね」とスミレに加勢する。
「それなら看護婦たちも喜びますし、お酒の飲めない人もいますからね」
確かに純正のキャラメルは高級品だが、中佐ともあろう人が執着するほどのものではないはずだ。
「ただのキャラメルではなく、木内婦長秘蔵のキャラメルともなれば、付加価値もありますから、景品としては十分すぎる値打ちがあるかと」
そこまで言われては、木内婦長も断ることなどできなかったのだろう。
「・・・分かりました。キャラメルも景品として出しましょう」と、渋々承諾する。
「ありがとうございます。では景品はお酒とキャラメルと言うことで、参加者を募集しますね」

そうして私たちが演芸会の開催を知らせると、参加希望者は次々と現れた。それは景品が欲しいというより、このようなお祭りを渇望していたためだろう。
玄関前の待合室に長机が出され、臨時の会場となる。
くじ引きで順番を決めること。参加者全員の演目が終わった後で、職員、患者で投票を行い、得票の多い順に景品を選んでいくこと。票を獲得するために病室のほうへ行ってもいいが、重症患者の病室前では静かにすること。陸軍の軍人軍属としての品位を保った演目にすること。などの注意点が説明される。
「ねぇ、この『品位を保った演目にすること』って条件、いる? 場末の酔っぱらいじゃあるまいし」
「まぁ、婦長発案の演芸会で、そんな不埒なことをする人間がいるとは思わないけど、一応、定型文として入れておかないとね」
「わ、わたし、もう緊張してきました・・・」
そして長机には慰労用と書かれた二本の清酒の他に、吉川さんが買ってきた小さなガラス瓶や白磁の酒瓶などが数本と、木内婦長の箱キャラメルが並べられる。参加者の名前が書かれた紙を入れたくじ引き用の箱も用意される。
やがて手の空いた職員や、患者が待合室に集まってくる。

「それでは、木内婦長主催の大演芸大会を開催いたします! 木内婦長、どうぞ」
私が司会役となって紹介すると、木内婦長が木箱をつなげた即席の高台に登壇する。
「皆さん、毎日の任務、ご苦労様です。今宵は皆さんの協力を得まして、このような場を設けさせていただきました。束の間の休息となれば幸いです。では、僭越ながら私から、一曲。 ・・・蘇州夜曲」
木内婦長がそう言うと、周りには『え?』という雰囲気が広がる。接点のない人たちからすれば木内婦長は厳格なイメージがあるのかもしれないが、その婦長が映画の流行歌を歌うなんて、というわけだ。
だがそのかすかなざわめきも、木内婦長が「君が御胸に~ 抱かれて聞くは~」と歌いだすと途端にシンとする。
木内婦長の美声で歌い上げられる、甘く、叙情的なメロディは聴衆を一気に引き込んでいた。
そして余韻をもって歌い終わると、途端に圧倒的な拍手が巻き起こる。木内婦長はその拍手の中、一礼だけして降壇した。
「え~、皆さん。追加の注意事項ですが、この演芸大会の主催は木内婦長なので、木内婦長は選外になります。投票は木内婦長以外でお願いします」
拍手が収まったころ、私はそう説明しなければならなかった。票が全て木内婦長に入ったのでは、当初の目的から外れてしまう。
そして私はくじ引きの箱から一枚の紙を選び出す。
「次の演者は吉川さんです。お願いします」
そう言うと、客席の方からいつもの軍服姿の吉川さんが進み出る。
「あ、吉川っす。早口言葉、いくっす」
吉川さんはいつもののんびりした口調で言うと、大きく息を吸い込んだ。
「お綾や親にお謝り、お綾や親にお謝り! 竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけた! スー シー スー、シー シー シー、シー シー シー スー、シー スー シー シー!」
吉川さんが一気に言い終わると、場には「お、おぉ・・・」というような微妙な空気が流れる。通訳の女の子が本気で感心した様子で拍手しているので、最後のは中国語の早口言葉なのだろうか。
とりあえず、『できるかと言われればできないが、地味すぎる』という印象だ。
でもそれがいい。
木内婦長の歌によってやたら上がってしまった舞台の格を適度に落としてくれた。もしかして吉川さんはそこまで考えてやってくれたのだろうか。
「え~、次に行きたいと思います」
そして何人目かでスミレの名前を引き当てた。
何をやるのかは聞いていなかったが、スミレは堂々とした様子で登壇する。
「藤田スミレ。あたしはみんなみたいな芸は持ってないから、地元でマタギと一緒に山に入った時の話をしようと思う」
そう言って真面目な口調で東北地方の冬の厳しさやマタギの狩猟生活を話していく。だが、熊狩りの話になっていくと雲行きが怪しくなってくる。熊の前では急に動いてはいけない、背中を見せてはいけないなどというのは納得できるが、だから熊と遭遇したら眼力で圧倒するのみ、というのはどうなのか。「熊だって本当は人間が怖い。あんな顔して、内心では『こいつ強いのか? 逃げ出すのか?』って値踏みしてるわけよ。だからあたしは思い切り睨んでやったね。『てめぇ、そこから一歩でもこっちに来たら熊鍋にすんぞ!』ってね。熊は恐れをなして逃げて行って、丸腰だったあたしは命拾い。まぁ、その後で熊みたいなマタギの親方に『大事な獲物を追い払うな』って怒られたけどね。皆さんも、もし熊に遭遇することがあれば、参考にしてください」
そうスミレが締めると、「んなもん参考になるか!」と突っ込みが入る。
う~ん、やっぱりスミレの熊狩りネタは鉄板だなぁ・・・
そして何人か挟んで自分の名前を引く。
「え~っと、次は私ですね。布村ミチヨです。ハーモニカを吹きます」
そうして、こちらに来てからは何回かしか吹いていないハーモニカを取り出す。曲目は『ふるさと』。もっと明るい曲がいいのだろうけど、子どもの頃からこれしか練習したことがないのだから仕方ない。
私は一生懸命、真面目に吹いた。でもなぜか聞いている人たちは感傷に浸るどころか、笑いだしそうになっている。『これ、そういう曲目じゃないんですけど?』と思いながら吹き終わると、一拍置いてから拍手が疎らに出る。
「いや~、さすが大尉殿。全くミスらんもんな~」「音程もリズムも完璧なのに、なんでこんなに面白くなるんだろうな・・・」「ただの演芸会なんだから気楽に吹けばいいのに、誰かの命がかかってるのかってくらい真剣な表情でやってるからじゃない?」などという感想が聞こえてくる。
正直、『賑やかし』である自覚はあるし、別に泣いてほしいとは思わないが、なんとなくモヤモヤする。ギャップがないというのが問題だったのだろうか。
そんな中、一番のギャップを発揮したのは高岡副婦長だった。
「次は高岡副婦長、お願いします」
私は紙を読み上げると、高岡副婦長は「ん? いや、私は名前を入れていないが・・・」と困惑したように言う。
「え? そうなんですか?」
演者は立候補制なので、誰かの勘違いがあったのだろうか。
それでは、ともう一度くじを引こうとしたところで、すっと木内婦長が手を挙げた。
「私が入れました」
「婦長・・・」
にこやかに、そして堂々と手を挙げる木内婦長に、高岡副婦長が不満げな視線を向ける。
「患者や職員のためであれば何でも協力すると言っていたではないですか」
「それは裏方的な意味です。演者として参加するとは一言も言ってません」
高岡副婦長はそう反論しながらも、木内婦長の手招きに応じて診察室に入っていく。
何をするんだろうと、私も引き戸の前まで行くと、中からは二人の声が聞こえてくる。
「わ、私にそれをしろと?」「いけませんか?」「当たり前でしょう。私にも体面というものが・・・」「私としてはこんなことを命じたくはないのですよ? 副婦長なら自主的にやってくれると信じていますから」「くっ、それは命令ということですよね?」「いいえ。副婦長の自主的な参加です」
そんな不穏なやり取りの後に、衣擦れの音がかすかに聞こえてくる。
そして木内婦長が先に診察室から出てくる。
「はい、皆さんご注目。第五病院の白百合の登場です!」
木内婦長がそう言うと、診察室の引き戸が開けられ、中から装いを変えた高岡副婦長が、いやいやながらといった様子で出てくる。
途端に会場内はどよめきに包まれる。
つばの小さな白いリボンの帽子。淡いクリーム色のブラウスと、それに合わせた同系色のスカート。ピカピカに磨かれたローファー。配給物資の中に紛れ込んでいた古着の中から見繕ったのだろう。口元には薄紅がさされている。
それは正しく白百合のようだった。耳まで真っ赤に染まった顔と眉間のしわを除けば。
「高台に上がって一回転ですよ」
そう言う木内婦長に恨みがましい視線を向けて、高岡副婦長は屈辱に耐えるような表情で登壇する。
客席からは「副婦長かわいいー!」「よっ、白百合!」「結婚してくれー!」などの歓声が飛ぶ。
「くっ・・・ 貴様らぁ! 軍紀違反で営倉ぶち込まれたいか!」
高岡副婦長が照れ隠しに怒鳴ると、さらに客席中から笑いが起こる。
そしてそんなギャップを生かした演目とは正反対に、自分のイメージ通りの強みを生かしたのがシゲミだった。
質素な袴に赤いたすき掛けという、こちらも古着の中から見繕った装いで前に進み出ると、登壇はせずに、ぺこりと頭を下げる。
「あ、小野シゲミです。『花かげ』を踊ります」
そう言うと「十五夜お月様 ひとりぼち~」と歌いながら、ひらひらと踊りだす。それは歌も踊りも決して上手なものではなく、はっきり言って子どものお遊戯会レベルだった。
会場でも、あちこちからくすくすという笑いが起こるが、やがてそれはシゲミの一生懸命な表情によって消えていく。
いつの間にか観客は、学芸会で娘の晴れ舞台を見守る親のようになっていた。ふりを忘れて動きが止まると「がんばれー」と声援が飛ぶ。踊りを再開させると、温かい拍手に包まれる。
「うちの娘も、小学校でこんな踊り踊ってたな・・・」「何年前だったかな、娘の写真送ってくれてさ。頭に花巻いて踊ってるとこ」そんな会話が会場のあちこちで交わされる。涙ぐんでいる人もちらほらと見られた。
そして最後にシゲミが深々と頭を下げる。その顔にはやり切った安心感と喜びの混ざった、幼い子どものような笑顔があった。
会場は盛大な拍手と、遠い日本に置いてきた日常の雰囲気に包まれた。

そして全員の演目が終わった後、私は会場や病室を回って、票を集めていく。
「厳正な集計の結果、優勝は・・・ 小野シゲミさん!」
私が発表すると、シゲミは驚きながら、そしてぺこぺこと頭を下げながら、前に出て来る。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
そう言いながらシゲミは歓声に応えて手を振る。
「では景品を・・・」と私がキャラメルの箱を渡そうとするが、それより先にシゲミは「では、いただきますね」と言って、白酒と墨で書かれた白磁の酒瓶を手に取った。
「ちょっとシゲミ、それ何だか分かってんの?」
「? 白酒(パイチュウ)ですよね?」
いや、そうなんだが・・・ 白酒というのはコーリャンを原料とする地元の蒸留酒で、日本酒がせいぜい12度程度なのに対し、60度にも達することもあるという、極めて強いお酒だ。
「前から飲んでみたかったんですよね~」と上機嫌なシゲミに対し、客席は静まり返ってしまう。まだまだ子どもだと思っていた娘が、いつの間にか酒を覚えていた、という感覚だろうか。
私は気を取り直して順位発表を続ける。
景品としては絶対的に安心、安全な婦長のキャラメルが一番人気だった。お酒の中では安全性を取るなら慰労用清酒、珍しさを取るなら地元の果実酒、そしてネタに振った正体不明のお酒と、それぞれに人気の層があった。この辺は吉川さんの抜かりのなさのおかげだ。

そして結果発表が終わると、「俺にも一口」「私にも一粒頂戴」と宴会の様相を呈してくる。
向こうでは酒に強いと評判の軍医が白酒を一口飲んでむせている横で、シゲミが「あ、おいし・・・」とちびちび飲むという異様な光景が繰り広げられていた。
「何か、納得いかないよね~」
そう言いながら、スミレが景品のキャラメルを手にやって来る。
「確かに・・・ 別に私たちが優勝レベルとは言わないけど、シゲミだって同レベルだったよね」
「あれは芸じゃなくて、シゲミ個人に票が入ったんだよ。ただの人気投票だ」
私とスミレはそんな風に愚痴るが、シゲミのうれしそうな様子を見て、思わず顔がほころんでしまうのも確かだった。
「あれは才能かしらね・・・」
「かもな・・・」
そうしていると、白酒の酒瓶と湯飲みを持った、いつも通りのシゲミがやって来る。
「二人でどうしたの?」
「別に~」
「シゲミこそ、どうしたのよ」
「はい、これ。三人で飲もうと思って」
シゲミが酒瓶を開けると、途端に強烈なアルコール臭と香ばしい穀物のような匂いが鼻を刺す。
「「いりませ~ん」」
私とスミレの答えは、見事に重なっていた。

◇◇◇◇◇

「最後の年、というと、昭和20年、終戦の年でしょうか」
「ええ、そうです。木内婦長が優しげな表情でみんなを見つめていたのが印象的でした。今思えば、木内婦長はその後に起こる出来事をかなり正確に、そして詳細に予測していたのでしょう。私ですら、こういったことはこれで最後になるだろう、と思っていたくらいですからね」
その『最後のお祭り』が昭和20年春のことで、終戦は昭和20年夏。石塚さんのお話もいよいよ佳境だろう。私は無意識のうちに身構えていた。
「そんな仮初めの、私たちのすがりたかった平和は、あっという間に、そして修復できないほど粉々に崩れ去りました」
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