戦況悪化
◇◇5 戦況悪化◇◇
冬の朝は、夜勤者が小声で起こしに来るところから始まる。
吐く息が白くなるほどの寒さの中、ぐっすり眠ることなどできず、小さな声でもすぐに目が覚める。分厚い防寒具のまま寝ているので、体が重い。布団を畳んで少し伸びをすると、私は真っ先に自分たちの部屋のストーブを確認する。
灰の中には、まだ赤く燃えている石炭の欠片が一つだけ。今日は寝る前に、石炭をもう二つくらい入れてもいいかもしれない。私はそう思いながら、夜勤明けで戻ってくる看護婦のために、ストーブに石炭をくべた。
石炭は保管室にまだ十分な量が残っているとはいえ、それは病室優先で、軍の定期的な支給、輸送はもう望むべくもない。一応は月二回、運ばれてくるはずだが、その間隔はどんどん伸びている。
石炭は貴重品という認識はみんなの中にしっかりと染みついている。だから、病院看護婦は、居室がどんなに寒くても石炭に手を出そうとはしない。階級が上の者、ここでは私が追加しなければ、みんなは黙って寒さに耐えているだけだ。そんな暗黙のルールが病院中に広まっていた。それは軍医たちの控室である医局でも同様で、だから軍医たちは非番であっても、温かい診察室か病室にいることが多かった。
私はストーブの中の残り火が追加した石炭に燃え移ったのを確認してから、冬用の外套を羽織って階段を下りていく。
そして三階から一階まで降りていくと、その先に半地下へと続く階段と、重厚な木製の扉がある。中を見たことはないが、ボイラー室なのだという。
この病院は元中学校の校舎であり、その時に新し物好きの校長が当時最新のボイラー設備を導入したらしい。だがすぐに財政面が悪化して、壊れても修理もできず、半地下であるため搬出も困難ということで、そのまま放置されているのだ。病院に改装されてからも、一度も使われたことはないらしい。
夏の間は何とも思わないが、冬が来るたびに『これが使えればなぁ』と思ってしまう。
そんな風に、誰にも見向きもされない半地下への階段を通り過ぎて、玄関へと向かう。
今朝は雪かきの当番だ。
大尉といえばかなりの上級指揮官らしいが、ここでは手が空いていれば誰であっても働かなければならない。二等兵だろうが大尉だろうが関係ない。
手袋を二重にして、スコップを片手にまだ暗い玄関を出ると、顔を刺すような寒さで、夜の間に雪が降らなかったことを悟る。ここチチハルの辺りでは、晴れているほど地面の熱が上空へと拡散し、気温が下がる。逆に雪雲があるときは熱の拡散が雲に遮られるため暖かになる。暖かとは言っても、氷点下前後だが。
私は夜の間に風で飛ばされてきた粉雪を、端のほうに押し退けていく。すぐに体が温まってくるので、防寒具の帯を緩めて、適度に体温を逃がしていく。これを疎かにするとすぐに汗でびっしょりになり、そこから凍傷が起こる危険性がある。最悪、四肢の切断までしなければならない恐ろしい症状だ。チチハルの厳冬はこのような日常生活の中にも危険が潜んでいた。
少し遅れて出てきた看護婦たちとおしゃべりしながら除雪をしていると、炊事場のほうでかまどの煙が上がり始める。水汲みが終わり、浄水を作るための煮沸作業に入ったのだ。
それを見て私たちは除雪作業を切り上げて、今度は洗濯場に向かう。
洗濯しなければならない包帯や当て布は箱の中に山ほどあるが、井戸にまで氷が張るような状況ではとても作業はできない。そこでお湯を沸かすのを待って、少しもらうことで、ようやく手を入れて作業できる温度になる。
石鹸は数日前に使い切ったということで、たらいの中で凍りかけた包帯をひたすら揉み洗いする。冷たい水の中にじんわりと赤茶色い血の色が広がっていく。そこで大体の汚れを落としたら、別のたらいで仕上げ洗いをする。もちろんこれできれいになるわけではないが、洗濯の段階で出来るだけきれいにしておかないと、煮沸消毒した時に残ったたんぱく質がこびりついて、包帯の劣化を速めてしまう。白く柔らかだった包帯は、数回の洗濯で灰色のゴワゴワになる。でもあるだけマシ、と言うのが病院での共通認識だ。看護婦はゴワゴワになった包帯を揉みほぐしながら、患部に巻いていた。
そうしていると、隣の調理室からかすかに肉の匂いが漂ってくる。
「あ、今日、日曜じゃない?」「そうだ! 早く片付けて行かないと」と、看護婦たちの手が早くなる。
毎週日曜日は三食のうち、どれか一食に肉が入る日だ。
軍の配給次第では他の日に肉が入ることもあるが、その肉は患者優先で、軍医に回ることはあっても、看護婦にまでは回ってこない。私たち第一特務救護小隊の『階級持ち』の看護婦も病院看護婦と同じ職性ということで、そのような特別扱いは辞退していた。
だが、この『肉の日』だけは患者や全ての職員の食事に均等に肉が入る。看護婦たちの最大の楽しみの一つだ。
私たちは洗い終わった包帯を大釜の中に入れ、水を張って煮沸消毒を雑務係さんに任せると、いそいそと食堂に向かう。
今朝の献立は、麦飯、しみ豆腐のみそ汁、白菜と大根と塩漬け肉の煮込み、たくあんだ。肉の日の豪華な食事ということで、食堂にはいつも以上に笑顔があふれていた。今日の病院は朝から相当に士気が上がることだろう。
私も固い麦飯を塩辛いみそ汁で流し込むと、野菜と肉の煮込みをありがたくいただいた。いつもなら味のない煮込みが、塩漬け肉の塩と油が溶け出して、絶品になっていた。親指の爪ほどもある豚肉が二つも入っているのを見て、幸せな気分になる。
だがその幸せも、高岡副婦長からの呼び出しで、すぐに破られた。呼び出されたのは第一特務救護小隊から私と加奈、朋美の三人、そしてベテランの衛生兵が三人だった。病院看護婦が含まれていないことから、前線からの救護要請だと分かる。
私は、ありがたがっている暇もなく、煮込みを掻き込むと、たくあんを頬ばりながら診察室の前に並ぶ。そこにはすでに馬そりの御者の一人、孫さんが待機していた。
「前線からの救護要請です。場所は渓頭村(シィートウツン)、ここからは二時間ほどの距離です。伝令が来た時の状況は、便衣兵(ゲリラ兵)との交戦中で、負傷者あり。前日からの雪中行軍の影響で凍傷も発生しているもよう」
六人がそろったのを見て、高岡副婦長が、簡単に任務内容を説明する。どこに潜んでいるか分からない便衣兵と凍傷発生の組み合わせは最悪だ。時間をかけるほどにこちらが不利になる。
「向こうの指揮官からの要請は、応急処置によって兵を戦力復帰させることですが、そこはあなたたちの判断が優先されます」
高岡副婦長は、『分かっているわね?』と言うように視線を向け、私たちは頷いた。軍命よりも、兵の命が優先。第一特務救護小隊の基本的立場だ。
「じゃあ、さっそく行ってちょうだい。着替えと靴下、手袋は向こうの兵の分も持って行ってね」
「はい!」
そうして私たちは身支度を整え、馬そりに荷物を積み込んでいく。携帯かまどと燃料の石炭を一袋。野営用テントと毛布。水に濡れた時用の着替えと靴下、手袋。水と消毒薬と抗生剤、麻酔薬などの応急処置セットと乾パンなどの行動食。それらに防水布をかけてロープで固定する。その間に御者の孫さんは、自分の馬の体調チェックや、地図で道順を確認したりしていた。
「いいかね」
そう言って孫さんが馬にムチを当てると、馬そりはゆっくりと進み始める。
冬季のチチハルでは、この小さな馬そりだけが物資や人の輸送手段になる。孫さんはそりの先端に座って手綱を取り、私たちは徒歩でそりの横を歩く。そりには補助用の手押し棒もついており、急な坂ではみんなでそりを押すが、平坦な道ではそれに掴まって休みながら歩くこともできた。
やがてそりは踏みならされた道を越えて、雪原の中へガリガリと進んでいく。辺りはようやく明るくなっていく。私たちは小休止を兼ねてそりを停め、各自でさらしを目の周りに巻く。最初の冬に雪国育ちのスミレが教えてくれた雪目の防止法だ。
そしてそりは地図上では大きく迂回している道を外れ、凍結した川を真っ直ぐに突っ切っていく。馬が一歩でも氷を踏み抜いたら致命的だ。熟練の孫さんの手綱さばきに頼って、私たちは一列になって進んだ。
川を越えると、白樺の疎らな林が続く。少しでも風を避けるため、馬そりは林の中を進んでいく。
そしてその林の切れ目で、馬そりを停めてもらう。この先には数百メートルの雪原があって、その先には再び林が見える。その林に第五十連隊から抽出された臨時討伐班がいるはずだ。そしてその奥には便衣兵が潜んでいるとされる村がある。
ここまでの時間は、孫さんが私たちの体力を考慮してペースを落としてくれたために、三時間近くかかっている。日の出ている間に帰ろうとすれば、ここでの長居はできない。
「ここから先は私たちだけで行くので、孫さんはここでお湯だけ準備していてもららっていいですか?」
私の要請に孫さんは黙って頷く。
「あと、もし見つかりそうだったら、私たちのことはいいから、急いで逃げてください」
便衣兵からすれば日本人はただの敵で済むかもしれないが、孫さんは漢人としての裏切り者として映るはずだ。拷問や見せしめとしての処刑も考えられる。
だが孫さんは、その要請には首を振った。
「いや、もう金をもらっている。仕事を途中で放り出すことはできない」
それだけ言って、孫さんはスコップで雪を掘り、簡易かまどを設置し始める。
「仕事も大事ですけど、命あってのことですからね」
仕方なく私はそう声をかけて、応急処置セットや食糧の入った背嚢を背負う。衛生兵にはその他に二つの折り畳み式の担架や毛布も持ってもらう。先頭の衛生兵には三八式歩兵銃の先に第五病院の識別旗をくくり付けて、掲げてもらう。
そうして私たちは慎重に見晴らしのいい雪原を進んでいく。辺りは獣や鳥の鳴き声一つない、不気味な静寂に包まれている。そんな中、目の前の林の隅で、派手な色彩が翻った。
私は思わず身をすくめるが、それは第五十連隊の連隊旗だった。こちらと同じように小銃の先にくくり付けて、振っていたのだった。
私たちは急いでその旗のもとに駆け付ける。
「第五病院の布村です。救護に来ました」
小声でそう言うと、すぐに雪で作られた塹壕の中に通される。
「現状はどうなっていますか」
私が坂本少尉と名乗った小隊長と話している間にも、他の看護婦や衛生兵は速やかに応急処置に入る。出血部位を確認して止血帯による圧迫止血を行う。太腿の一部がえぐられたようになっている兵には、一時しのぎでしかないが、局所麻酔薬を注射する。ちらっと見た範囲では凍傷もかなり進んでいるようだった。
「御覧のありさまだ。とにかく、銃を撃てる人数を増やしてくれ。援護射撃がなけりゃ、近づけん」
「近づくって、何をするんですか?」
「捕虜だよ。何人かでも捕虜を取れば、向こうも撃ってこれないだろう」
坂本少尉はいら立ちながら言う。
「こんな状態で捕虜なんて取れるわけないでしょう? 凍傷で、まともに歩くのだって苦労してるのに・・・」
「分かってるよ、そんなことは! でも奴らを黙らせるにはそれしかないんだ。討伐を命じられておいて、俺の判断で引けるわけがないだろう。いいから麻酔でも何でもして、使えるようにしてくれ!」
坂本少尉はそう怒鳴るが、それは悲痛な現場の叫びに聞こえた。
「・・・相手からの攻撃はどの程度ですか?」
「向こうから前進してくる様子はない。あそこに籠って徹底抗戦の構えだ」
それを聞けば、私たちのやることは簡単だ。
「では後退してください。向こうの林のところに物資があります。とりあえずはそこまで後退です」
「はぁ!? 看護婦風情が何を言ってる!」
「陸軍大尉としての命令です」
「は!? あ、え・・・?」
坂本少尉は、ようやく私の野外服に付いた階級章に気付いたようだ。これまでにも何度か前線への救護に行ったことはあるが、どれも反応は同じようなものだったので、今更気にもならない。前線に来た看護婦が階級持ちだとは思わないのだろう。
「坂本少尉。布村大尉のご命令ですが、いかがいたしますか?」
そばにいた衛生兵が、負傷兵の止血をしながら、茶化すように言う。
「・・・もちろん後退だ」
そう自分で言って、無謀な命令から解放されたのだろう。それからの指示は早かった。
「全員、最低限の荷物をまとめろ。この場は放棄。負傷者の救護が最優先だ。全員で生きて帰るぞ」
そして一通りの応急処置が済むと、重症度の高い二人をそり式の冬季用担架に乗せ、後は肩を貸しながら後退する。
その時だった。
パンッという乾いた破裂音が雪原に響くと同時に、私の背後でドサッと重いものが雪に叩きつけられる音がした。
看護婦の一人が脇腹を押さえながら、崩れ落ちていた。
「加奈!」
私が駆け寄ると、加奈は無理に笑顔を作ろうとする。
「・・・撃たれちゃった。左の脇腹。貫通はしていないし、骨には当たってないと思う」
「分かった。ちょっと待っててね。 ・・・みんなは先に孫さんの所に行ってて」
私は坂本少尉と衛生兵に指示を出してから、加奈の上着をめくりあげて傷口を確認する。加奈の言う通り、貫通はしていないし、動脈性の出血でもない。
応急処置セットから畳んだガーゼを出して傷口を圧迫すると、加奈は激痛でうめきながらも、自分でもガーゼを押さえようとしてくれる。次にヨードチンキをガーゼに染み込ませて、傷口周囲を消毒。その後でガーゼを替えて傷口全体を覆うと、幅広の包帯でガーゼを固定する。その間に朋美が局部麻酔薬のプロカインを準備してくれる。血圧を低下させる作用もあるため慎重さが求められるが、傷口の周囲に注射すると、加奈の表情が和らいでいく。
衛生兵が持ってきた毛布でくるむようにして担架に乗せると、加奈も少しは安心したようだ。
「・・・ごめんね。足引っ張っちゃって」
「何言ってるの。病院に着けばちゃんとした手術受けられるから、それまでの我慢だよ」
「うん」
そうして私と朋美の二人でそり式の担架を引き、衛生兵が後ろを警戒してくれる。幸い、向こうからの発砲はもうなかった。
孫さんの待つ馬そりの所に到着すると坂本少尉の部隊に白湯と携帯糧食が配られており、みんな無心で食べていた。そうして落ち着いたところで、濡れた靴下や手袋を乾いたものに変える。担架に乗せられた兵は保温用の毛布でぐるぐる巻きにした。もう日暮れも近づいており、時間との勝負だ。
「これから第五病院に向かいます。病院には温かい部屋もありますし、きちんとした治療も受けられます。後三時間、頑張ってください」
そう激励の言葉をかけて、私たちは出発する。
そり式の担架は馬そりの手押し棒に縛り付け、横転を防ぐためと、兵の状況を観察するために、横に看護婦が付く。衛生兵も討伐班の負傷者に肩を貸し、孫さんも負傷者を馬そりに座らせるために、馬の横を歩きながら手綱を握った。私も討伐班の兵全体の様子に目を光らせていた。
それは明らかな敗走軍だったが、みんなの顔には生きるための希望があった。
「大尉殿」
腕を吊った坂本少尉が、すっとそばに寄ってくる。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
坂本少尉はそう謝ってくるが、私には一瞬、何のことか分からなかった。
「あぁ、いえ、気にしないでください。皆さん、同じ反応をなされます」
そう応えて笑うと、それで気が楽になったのだろう。
「あんな無謀な作戦に従っていたなんて、どうかしていました」
そう坂本少尉は呟いた。
「あの、軍人である以上、そういったことは口にしないほうが・・・」
「いえ、大尉殿、聞いてください」
私は困惑したが、坂本少尉はそう言って小声で続ける。
「私は部下たちに『あの村にいる便衣兵を掃討する』と言って本隊を出ました。ですがそれは嘘なのです。私に下された命令は、『あの村から何人か捕虜として連行しろ』というものでした。『理由もなくそんなことはできません』というと、『じゃあ、便衣兵がいることにしたらいいだろう』と。 ・・・私はそれに従ってしまったのです。向こうが銃を持っていることは完全な誤算でした」
「そう、ですか・・・」
「立案会議の場で、私がきちんと反対していれば・・・ 部下の凍傷も銃創も、そしてあの看護婦が撃たれたのだって、みんな私の責任です・・・」
そう悔やむ坂本少尉に対して、私はかける言葉を見つけられなかった。
病院への帰還は、途中で衛生兵の一人が伝令に走り、病院から残り二台の馬そりが迎えに出てくれたおかげで、日没前に到着することができた。
加奈も容体は安定し、途中でプロカインを二回、追加で注射するだけでよかった。病院での銃弾摘出手術もうまくいった。
だが問題は、その後に必要となる抗生剤が足りないことだった。手術器具や手技の衛生管理にも限界がある。その上、冬場の寒さ、栄養状態の悪さ、精神的ストレスなど、マイナス要素はいくつもある。細菌感染を回避するのは、分の悪い賭けだった。
そして、そのような都合のいい奇跡は起きなかった。
手術から二日目の夜、笑顔が見られるようになった頃に、急に発熱と腹部の圧痛が襲ったのだ。
私は急いで病院内のサルファ剤のアンプルを集めてくるが、それは一日分にも足りないものだった。そして、それは加奈も分かっていた。
「・・・私はいらない。前にミチヨが教えてくれたんだよ。敗血症には最低でも1日8本は必要だって。それは使える人に使って」
加奈は苦痛に顔を歪めながら、絞り出すように言う。
「・・・わがまま言っていい? 私も女の子だからさ、こんな苦しそうな顔で死にたくないんだ。モルヒネ1本ご馳走して」
「・・・待ってて」
私はすぐに当直医のもとに走る。当直医は『君が言うのなら』とモルヒネを1本出してくれた。すぐに注射器に取ると、加奈の元に戻る。
「・・・そんな顔で針、見えるの?」
加奈に言われ、私は涙を拭く。
そうしてモルヒネを注射すると、ようやく加奈の表情が穏やかになる。
「ありがと。 ・・・家族と婦長には、私は後悔してませんって、伝えてくれる?」
「・・・分かった」
そうは言ったが、私は加奈のそばを離れ難かった。自分にできることは何もないことは分かっている。でも何か、と探し続けていた。
「ミチヨも、もう休んでいいよ」
そんな私の心情を察したように加奈が言う。
「私って結構繊細だから、そんな風に見られてると眠れないんだ」
「・・・分かった。 ・・・おやすみ」
私は最後に毛布を掛け直してやることしかできなかった。
「ありがと、ミチヨ・・・」
それが私の聞いた、加奈の最後の言葉だった。
夜勤の看護婦の話では最初に巡回に来た時には静かに寝ていたらしいが、次の三時間後の巡回の時にはすでに息を引き取っていたということだった。きれいな死に顔だったらしい。
遺体は朝早くに静かに運び出され、葬儀もなく、きれいなムシロに包まれただけで、病院の裏手にある墓地に埋葬された。
基本的に遺体は原隊に戻すことになっていたが、戦地の混乱で原隊不明やすでに撤退済みの場合も多かった。そういった人の場合は病院で埋葬することになる。その墓地はどんどん拡大していった。
病院全体で見れば、そこにまた一つ、墓標が加わったに過ぎない。加奈だって、職員の最初の被害者というわけではない。前年の冬には劇症型インフルエンザの流行で病院看護婦が4人亡くなっていたし、第一特務救護小隊の隊員でも雪美という子が、やはり銃撃を受けてからの破傷風感染で死亡していた。
死は誰にだって訪れる。そんなのは当たり前のはずだった。
私は朝のわずかな時間を見て、スミレ、シゲミと三人で連れ立って、裏手の墓地に向かった。雪を踏みしめた足跡の細さが、埋葬の簡素さを物語っていた。
その墓地へ向かう途中、向こうから木内婦長が歩いてきた。
木内婦長は少し驚いたようにして、帽子のつばを下げて目元を隠すと、無言ですれ違う。
私たちも、ただ道を避けて、無言で敬礼するにとどめた。
墓地の中央には大きなライラックの木があり、その周囲に名前が記されただけの簡素な墓標がいくつも立っている。
墓地に追加された真新しい墓標には、紙に包まれたキャラメルがたった一粒、供えられていた。
それから一週間後、坂本少尉の討伐班のうち、十名は原隊に復帰していった。坂本少尉は小隊員に涙ながらに『今回の負傷は全て自分の責任である』と謝罪し、『今度こそ軍法会議覚悟で筋を通す』と真っ先に原隊へ戻って行った。
今、第五病院に残っているのは、凍傷がひどかった五名だ。すでに壊死部分の切除は済ませてある。現在、この病院での栄養状態では壊死が進行するだけだ、という判断のもと、早めの切除に踏み切ったのだ。
手足の指が多いが、一人は右耳と鼻、もう一人は右足首から切断せざるを得なかった。いずれにせよ、原隊復帰は叶わないだろう。
それによって落ち込んでいる者もいれば、もう次の部隊での任務を考えている者もいた。
民間の日本人女性が病院を訪れて来たのはそんな時だった。
「あの、すみません、新高村の高田というものですが・・・」
「はい、どうされました」
すぐに受付担当の看護婦が応対に出る。新高村は町はずれに位置する、日本人村だ。本人は具合は悪くなさそうだし、往診の依頼だろうか。今からだと手の空いている軍医はいただろうか、などと考えながら、院内清掃に向かう。
まずは病室内の石炭ストーブの横にあるブリキ製の灰箱を新しいものと入れ替えるところからだ。そして持ち出した灰箱から廊下の汚れているところに振りかけ、水分を吸わせた後に、灰を磨き粉代わりにして乾いた布でこすり落としていく。そして最後に固く絞った雑巾でふき取っていく。わずかでも水分が残っていれば、それが凍結して事故の元になってしまうため、これも結構な力仕事だ。
そうやって廊下の汚れを探していると、さっきの受付担当の看護婦がやって来る。
「布村さん、ちょっと変わってもらっていい?」
私が顔を上げると、その看護婦は困ったように受付に立っている女性を見る。その女性も困っているように見えたから、何か問題が起きたのだろうか。
私は掃除道具をその看護婦に渡すと、前掛けで手を拭きながら受付に行った。
「どうされました? 往診ですか?」
そう問いかけるが、女性は首を振る。
「いえ、往診じゃなくて、迎えに来てほしいんです」
「迎え?」
「はい、今朝、うちの人が畑に大根を掘りに行ったんですけど、その時に軍人さんが二人、雪の上でうずくまっているのを見つけて。一人は声かけても反応しないし、もう一人はずっとブツブツ言ってるし・・・ とりあえず家にまでは引っ張って来たんですけど、引き取ってもらえないかと・・・」
その女性の表情には、面倒なことには関わりたくないという思いがありありと浮かんでいた。
「その人たちは、日本の軍人で間違いないんですか?」
「え、ええ。支那人が日本の軍服を着て化けているのかもしれませんけど」
私が念のためにと確認すると、女性は不機嫌そうに言う。だが、日本人だとすれば、すぐそこに民家があるのに畑で行き倒れのようになる状況は限られてくる。
「怪我をしているとか、苦しそうにしているといった様子はありましたか?」
「怪我はしていないようでしたね。咳や熱はなかったように思います」
「分かりました。すぐに準備をするので、少しお待ちください」
その二人の軍人がどういう状態なのか判断がつかないまま、とりあえず、高岡副婦長に患者搬送用の馬そりの使用許可を取る。まずは二人分の毛布と水だ。村まではそう遠くはないので応急処置セットだけでいいだろう。あとは連れ帰る人員だが・・・
私は思案の末、スミレとシゲミに声をかけた。幸い、二人とも非番中で、洗濯と雪かきの最中だった。
御者の李さんに馬そりを出してもらい、私たち三人はそりに後ろ向きになって、寄り添うようにして座る。防寒対策として毛布の一枚は畳んで座布団にし、もう一枚はひざ掛けのようにした。
私たちの馬そりの前には、さっきの女性の操る馬そりが歩いている。だが、しっかりと防寒具を頭から被っているうえ、距離もあるので、こちらの話し声が聞こえる心配はない。
「その人たちって、二人だけで倒れてたんでしょ? それって・・・」
「脱走兵、とか・・・」
「多分ね」
シゲミとスミレに合わせて、私も声を潜めて返す。
「逃げたはいいけど、通報されるのが怖くて、民家にも逃げ込めなかった、っていうとこだと思うけど」
「じゃあ、低体温症による錯乱?」
「だとすれば、家に保護されたわけだし、一安心だな」
「そのはずなんだけど・・・」
私は前を行く女性の態度が気になっていた。脱走兵だと思ったとしても、軍の病院に『引き取ってくれ』とは言わないだろう。
そんなことを話していると、李さんの馬そりが止まる。
「着いたようですよ」
李さんに言われて、私たちも馬そりから降りて、その日本家屋に向かう。
氷柱の下がる狭い玄関をくぐると広い土間があり、そこに農機具や古いランプが見えた。そしてその隅に汚れた軍服姿の若い男が二人、うずくまっていた。居間へと続く板戸は開け放たれて、火鉢の熱気がかすかに届いている。そしてそこからは男たちが、気味悪そうな視線をじっと向けていた。
「こんにちは。病院の者ですけど、どこか痛むところはありますか?」
私は努めて明るく声をかけるが、その男はその場で転びそうになるほど驚いて、「済まない、許してくれ、許してくれ」と必死に言いながら、向こうを向いてうずくまってしまう。肩に触れても、びくっとするだけで、こちらのほうは向こうとしない。
もう一人のほうにも同じように声をかけるが、こっちは全くの反応なしだった。意識がないわけではなく、こちらのことは見えているはずなのだが、反応しないのだ。
「畑で見つけた時から、ずっとそうなんだ。早く連れて行ってくれないか」
居間から男が迷惑そうに言う。
「分かりました」
そう言いながら、私は二人の軍服の胸ポケットや内ポケットを探るが、そこには軍隊手帳は入っていなかった。それに軍服からは階級章も外されていた。これでは名前も所属も分からない。
とりあえず、病院に連れて行くために、李さんに馬そりを玄関に横付けしてもらって、毛布で二人をくるむ。
「聞こえる? 私たちはあなたを助けに来たの。一緒に行きましょう」
私はうずくまっている兵に話しかけるが、彼は「許してくれ」と繰り返すのみだ。
「大丈夫ですよ。誰もあなたを責めたりしません。さ、行きましょう」
シゲミも優しく、肩を抱くようにする。
「立てる? 触るよ?」
私は丁寧に断ってから、ゆっくりと兵の腕を持ち上げる。兵は「うぅ、許してくれ、済まない、済まない」と繰り返しながら、震える足で力なく立ち上がった。
スミレはその瞬間、無反応だった兵がわずかに顔を上げようとしたのを見逃さなかった。
「よし、あんたも頑張れるよな」
その言葉には反応しなかったが、スミレがゆっくりと体を起こしてやると、ぐったりしたまま、それには従った。
「よし、できるじゃない。いい? ゆっくり行くよ?」
スミレはその兵の体を支えたまま少し傾け、足が前に出たのを確認してから、次の一歩を踏み出す。
馬そりには先に錯乱状態の兵を誘導し、その後に虚脱状態の兵を三人で座らせた。
本来なら備え付けのロープで患者の体を固定することになっているのだが、この二人には余計な刺激になってしまうだろう。代わりに最後尾にシゲミが乗ることにする。
そして最後に私はもう一度、民家に戻る。
「連絡ありがとうございました。以後のことは、第五病院で責任をもって対処します。あとから何か気付いたことがあれば、第五病院までお願いします。それと、これは軍内部のことなので・・・」
「あぁ、分かってる。誰にも言わねぇよ」
「すみません。よろしくお願いします」
それだけお願いして、私たちは第五病院に戻った。
病院では高岡副婦長から連絡されていたようで、すぐに木内婦長と内科の軍医が出てくる。
二人は簡単な診察によって、『詐病の疑いなし』『神経症』と診断される。木内婦長はその様子を見て、脱走兵ではなく、神経症の患者として扱うことを指示した。
身元については、『脱走兵を出すのは部隊の恥』とされているため、こちらから部隊に問い合わせても、自分のところの所属だなどとは決して言わないだろう。
結局、錯乱状態のほうは『佐藤一郎』、虚脱状態のほうは『田中二郎』と呼ぶことにして、内科病室に収容されることになった。
佐藤さんのほうは、壁際のベッドでうずくまり、わずかな物音にもびくびくしていた。体温計や食事のスプーンを近づけても、無意識のうちに払いのけようとするが、それをなだめながら何とかお粥を食べさせていた。
田中さんのほうは、ベッドの上で、固まったように一日中同じ姿勢で座っていた。それでは体に悪いからと、衛生兵が体を動かしてやると重い人形のように動くのだが、自分からは一切動くことはなかった。体を起こして重湯を飲ませようとしても、半分以上は口からこぼれ落ちていた。
このような状態なので、当然、排泄も自分ではできず、垂れ流し状態だった。定期的に服や下着、ベッドシーツの交換と洗身が必要になるが、そのことに文句を言う看護婦はいなかった。『便も血も膿も平気だけど、あの魂が抜けたような視線には慣れない』というのが多くの看護婦の意見だった。
その後、数日を置いても二人の病状には、回復の様子は見られなかった。急を要する病状でもないため、後方の病院に送致してもいいはずなのだが、木内婦長はそのような指示は出さなかった。
その日、私とスミレ、シゲミはたまたま同じタイミングで病室勤務が終わり、佐藤さんと田中さんのところに顔を出してから廊下を歩いていた。すると前のほうから私服姿の吉川さんがやって来る。
「あ、おはようございます」
「おはよっす」
私たちの挨拶に、吉川さんもいつも通り、軽い口調で返してくれる。
「私服姿の吉川さんって珍しいですね」
私の印象では常にびしっとした軍服姿で立っているイメージだったので、なんとなく違和感を感じてしまう。
「俺にも非番くらいあるっすよ」と当たり前のように返される。
「非番なのに病院来たんですか?」
「宿舎よりこっちのほうがあったかいんすよ」
スミレの疑問に、そう笑いながら答える。それに対して私たちは「分かる~」と笑いあう。
看護婦の中にも非番の時は『患者の話し相手』と称して温かい病室に行っている者は何人もいた。実際には話し相手だけではなく、患者担当の看護婦の手伝いもしっかりやっていたので、患者担当の看護婦も助かっていたが。
「じゃあ、また」と言って、吉川さんは二階へと上がって行く。
そして吉川さんは真っ直ぐに婦長室に向かう。
ノックをして「吉川っす」というとすぐに「どうぞ」と木内婦長の返事がある。
婦長室に入った吉川さんは挨拶もそこそこに、ポケットの中から汚れた軍隊手帳を二冊取り出し、木内婦長へと差し出す。
「やっと見つけたっすよ。風に飛ばされてなくて助かったっす」
「ごくろうさま」
そう言いながらキャラメルを吉川さんに渡し、二冊の軍隊手帳を手に取る。雪に濡れて滲んでいるところもあったが、写真は剥がれておらず、所属、階級と氏名もはっきり読める。
『佐藤一郎』のほうは関東軍防疫給水部本部、実験支援部門第三課、一等兵、成田博、『田中二郎』のほうは同じく第三課の伍長、大川義男であることが分かる。
「やっぱりね・・・」
木内婦長はそう呟いて、二冊の軍隊手帳を自分の机の引き出しにしまい込んだ。
その事件は突然に起こった。
少しでも気分転換にと、私ともう一人の看護婦とで佐藤さんをなだめながら、病院の廊下を歩かせていた時だった。
たまたま、凍傷で足首から下を切断した患者とすれ違ったのだが、その途端に佐藤さんが大声でわめきながら転げまわったのだ。
「許してくれ! 済まなかった!」と叫びながら、壁に向かって、何かをかき分けるように爪を立てている。
「落ち着いてください! 誰もあなたを責めてなんかいません!」
そう言って二人で抑えようとするが、何日もまともに食べていないとは思えないほどの力だった。
すぐに騒ぎを聞きつけて軍医や衛生兵も駆け付けてくる。
「鎮静剤! モルヒネとスコポラミン!」
軍医がすぐに指示を出すが、佐藤さんは泡を吹きながら、異常な力でもがいている。壁板にでも引っかけたのか、爪がはがれて血が滴っていた。
「ひぃい! 許してくれ! 許してくれ!!」
なおも叫び続ける佐藤さんを衛生兵二人と軍医の三人でやっと押さえつける。口の中も切れたのか、口角からあふれる泡が赤くなっている。
そこへようやく看護婦が鎮静剤の注射器を持ってくる。
「お願いします!」
そう差し出された注射器を受け取るために軍医が手を離した瞬間、佐藤さんは二人の衛生兵を振り払い、逃げ出した。
「あ、待って!」
私が追いかけるが、佐藤さんは「済まなかった! 済まなかった!」と叫びながら廊下を走り、階段を駆け上がる。
そのまま階段を駆け上がり、三階の廊下の突き当りに来ても佐藤さんの勢いは止まらなかった。
「あ!!」
私が何か言う間もなく、佐藤さんはそのままの勢いで窓ガラスを突き破って飛び出て行った。
一瞬の間に、私の頭の中に、あの窓の外には屋根などはなく、地面まで届いてしまうこと、その地面はコンクリート張りになっていること。そしてあの佐藤さんの体勢は確実に頭から地面に達するということが思い浮かぶ。
大きく割られた窓ガラスの下から「ぐしゃ」という音が聞こえた。
私はしばらく、荒い呼吸のまま、その場に立ち尽くしていた。
その騒ぎの中、田中さんがわずかに顔を上げたことに気付いた者はいなかった。
木内が脱走兵の死亡を関東軍衛生部に報告して数日後、案の定、松島大佐が動いた。
死亡した脱走兵について聞きたいと、呼び出されたのだ。
「久しぶりだね、木内君。元気そうで何よりだ。あの布村君も元気かね」
「はい。おかげさまで任務に励んでおります」
「そうかね。喜ばしいことだ」
そして一瞬だけ二人の視線が交錯する。
「ところで、君のところに収容されていた脱走兵なんだが、もしかしたら私の知っている部隊の兵ではないかと思ってね」
「そうでしたか。こちらのほうでは残念ながら身元の確認は全くできませんでした」
「脱走兵は君のところで何か言っていなかったかね?」
「いいえ。収容当初から錯乱および虚脱状態でしたので、意味のあることは何も言っておりません。詳細は診療録にありますのでご確認ください」
そうして木内は持参した二冊の薄い診療録を差し出す。そこには収容した日時から、頭蓋骨骨折、脳挫傷で死亡するまでの細かな経緯が記録されていた。
「さすがに準備がいいね」
そう言いながら松島は二冊の診療録を見比べる。
「この二人は同じ時刻に飛び降りたのかね? 錯乱状態にあったほうはともかく、虚脱状態にあったほうも?」
「はい。錯乱状態の兵の叫び声に反応したとのことでした。突然のことでありましたし、二人同時に動いたために、どうすることもできなかったということです」
「そうかね」
そう言って松島は診療録を脇に寄せる。
「いや、この二人については不幸な最後になってしまったものの、脱走兵をいち早く確保し、情報の漏洩を防いだ君の手腕は、高く評価しておるよ。本日付けで、君を中佐に推挙する旨、関係各所に報告済みだ」
「光栄です。ご期待に沿えるよう、尽力いたします」
木内は一礼して退室する。
だが木内は、松島の言動の意図をある程度は察知していた。
『大佐は、左遷された私を昇進させることで、自分の影響力を誇示した。それに反応するものは、誰か・・・』
◇◇◇◇◇
「佐藤さんが窓を突き破る瞬間のことは鮮明に記憶しています。まだ夢に出てくるんですよね。あぁ、また助けられなかった、と・・・」
確かに、戦場という極限状態では人の精神は容易く壊れてしまうのかもしれない。従軍看護婦は、命の他にも人としての心も支えていたのだ。そう思うと、今更ながらに、目の前の石塚さんが大きく見えてくる。
「看護の手が間に合わず、看取ってきた兵はそれこそ、何百人といます。でも、仕事の手を止めれば、次の患者が亡くなってしまう。私たちには落ち込んでいる余裕すらありませんでした。 ・・・単に人の死に慣れてしまっただけなのかもしれませんが」
そう言って石塚さんは少し悲し気に微笑む。
「状況的には大戦の後半期に当たると思うのですが、戦況の悪化を体感するようなことはありましたか?」
「それはもう、皆さん感じられていたと思います。ただ、口に出さないだけで。病院に送られてくる人たちは、銃創、砲撃による負傷者ではなく、凍傷、栄養失調、神経症がほとんどでした。あぁ、もう軍には戦う力は残っていなんだなと思いました。それに、私たちの小隊に対しては、木内婦長が、度々日本の状況を教えてくれていたんです。昨日はどこが陥落したとか、今朝、何が撃沈されたとか、かなり詳細なものでした。参謀本部に関係する人とつながりがあったそうですから、そこからの情報だったのでしょう」
つまり石塚さんは、目の前で救えなかった命を目にしつつ、全体的にも決して好転しえない状況を知らされていたということだ。私なら絶望でどうにかなってしまいそうだ。
「ずっとそのような緊張感の中で生活していたのですか?」
「基本的にはそうですね。患者の死というものは常に身近にありましたし、木内婦長や高岡副婦長は、事あるごとにこれが戦争なんだと言っていました。ですが、いくら看護婦といっても、中身はまだ若い娘でしかありませんから、それを意識的に忘れたいと思うこともありました」
「そういう時は、気分転換などはできたのでしょうか?」
「野戦病院は常に物資不足との戦いでしたから、気分転換などは難しかったのですが、それでも入浴などが大切な気分転換になっていましたね。それに他の部隊と違って、木内婦長は気分転換を認めてくれていましたから、たまにイベントが開催されるようなこともありました。最後の年もそうでしたね。ようやく春が訪れて、トラックが運行できるようになった頃でした」
冬の朝は、夜勤者が小声で起こしに来るところから始まる。
吐く息が白くなるほどの寒さの中、ぐっすり眠ることなどできず、小さな声でもすぐに目が覚める。分厚い防寒具のまま寝ているので、体が重い。布団を畳んで少し伸びをすると、私は真っ先に自分たちの部屋のストーブを確認する。
灰の中には、まだ赤く燃えている石炭の欠片が一つだけ。今日は寝る前に、石炭をもう二つくらい入れてもいいかもしれない。私はそう思いながら、夜勤明けで戻ってくる看護婦のために、ストーブに石炭をくべた。
石炭は保管室にまだ十分な量が残っているとはいえ、それは病室優先で、軍の定期的な支給、輸送はもう望むべくもない。一応は月二回、運ばれてくるはずだが、その間隔はどんどん伸びている。
石炭は貴重品という認識はみんなの中にしっかりと染みついている。だから、病院看護婦は、居室がどんなに寒くても石炭に手を出そうとはしない。階級が上の者、ここでは私が追加しなければ、みんなは黙って寒さに耐えているだけだ。そんな暗黙のルールが病院中に広まっていた。それは軍医たちの控室である医局でも同様で、だから軍医たちは非番であっても、温かい診察室か病室にいることが多かった。
私はストーブの中の残り火が追加した石炭に燃え移ったのを確認してから、冬用の外套を羽織って階段を下りていく。
そして三階から一階まで降りていくと、その先に半地下へと続く階段と、重厚な木製の扉がある。中を見たことはないが、ボイラー室なのだという。
この病院は元中学校の校舎であり、その時に新し物好きの校長が当時最新のボイラー設備を導入したらしい。だがすぐに財政面が悪化して、壊れても修理もできず、半地下であるため搬出も困難ということで、そのまま放置されているのだ。病院に改装されてからも、一度も使われたことはないらしい。
夏の間は何とも思わないが、冬が来るたびに『これが使えればなぁ』と思ってしまう。
そんな風に、誰にも見向きもされない半地下への階段を通り過ぎて、玄関へと向かう。
今朝は雪かきの当番だ。
大尉といえばかなりの上級指揮官らしいが、ここでは手が空いていれば誰であっても働かなければならない。二等兵だろうが大尉だろうが関係ない。
手袋を二重にして、スコップを片手にまだ暗い玄関を出ると、顔を刺すような寒さで、夜の間に雪が降らなかったことを悟る。ここチチハルの辺りでは、晴れているほど地面の熱が上空へと拡散し、気温が下がる。逆に雪雲があるときは熱の拡散が雲に遮られるため暖かになる。暖かとは言っても、氷点下前後だが。
私は夜の間に風で飛ばされてきた粉雪を、端のほうに押し退けていく。すぐに体が温まってくるので、防寒具の帯を緩めて、適度に体温を逃がしていく。これを疎かにするとすぐに汗でびっしょりになり、そこから凍傷が起こる危険性がある。最悪、四肢の切断までしなければならない恐ろしい症状だ。チチハルの厳冬はこのような日常生活の中にも危険が潜んでいた。
少し遅れて出てきた看護婦たちとおしゃべりしながら除雪をしていると、炊事場のほうでかまどの煙が上がり始める。水汲みが終わり、浄水を作るための煮沸作業に入ったのだ。
それを見て私たちは除雪作業を切り上げて、今度は洗濯場に向かう。
洗濯しなければならない包帯や当て布は箱の中に山ほどあるが、井戸にまで氷が張るような状況ではとても作業はできない。そこでお湯を沸かすのを待って、少しもらうことで、ようやく手を入れて作業できる温度になる。
石鹸は数日前に使い切ったということで、たらいの中で凍りかけた包帯をひたすら揉み洗いする。冷たい水の中にじんわりと赤茶色い血の色が広がっていく。そこで大体の汚れを落としたら、別のたらいで仕上げ洗いをする。もちろんこれできれいになるわけではないが、洗濯の段階で出来るだけきれいにしておかないと、煮沸消毒した時に残ったたんぱく質がこびりついて、包帯の劣化を速めてしまう。白く柔らかだった包帯は、数回の洗濯で灰色のゴワゴワになる。でもあるだけマシ、と言うのが病院での共通認識だ。看護婦はゴワゴワになった包帯を揉みほぐしながら、患部に巻いていた。
そうしていると、隣の調理室からかすかに肉の匂いが漂ってくる。
「あ、今日、日曜じゃない?」「そうだ! 早く片付けて行かないと」と、看護婦たちの手が早くなる。
毎週日曜日は三食のうち、どれか一食に肉が入る日だ。
軍の配給次第では他の日に肉が入ることもあるが、その肉は患者優先で、軍医に回ることはあっても、看護婦にまでは回ってこない。私たち第一特務救護小隊の『階級持ち』の看護婦も病院看護婦と同じ職性ということで、そのような特別扱いは辞退していた。
だが、この『肉の日』だけは患者や全ての職員の食事に均等に肉が入る。看護婦たちの最大の楽しみの一つだ。
私たちは洗い終わった包帯を大釜の中に入れ、水を張って煮沸消毒を雑務係さんに任せると、いそいそと食堂に向かう。
今朝の献立は、麦飯、しみ豆腐のみそ汁、白菜と大根と塩漬け肉の煮込み、たくあんだ。肉の日の豪華な食事ということで、食堂にはいつも以上に笑顔があふれていた。今日の病院は朝から相当に士気が上がることだろう。
私も固い麦飯を塩辛いみそ汁で流し込むと、野菜と肉の煮込みをありがたくいただいた。いつもなら味のない煮込みが、塩漬け肉の塩と油が溶け出して、絶品になっていた。親指の爪ほどもある豚肉が二つも入っているのを見て、幸せな気分になる。
だがその幸せも、高岡副婦長からの呼び出しで、すぐに破られた。呼び出されたのは第一特務救護小隊から私と加奈、朋美の三人、そしてベテランの衛生兵が三人だった。病院看護婦が含まれていないことから、前線からの救護要請だと分かる。
私は、ありがたがっている暇もなく、煮込みを掻き込むと、たくあんを頬ばりながら診察室の前に並ぶ。そこにはすでに馬そりの御者の一人、孫さんが待機していた。
「前線からの救護要請です。場所は渓頭村(シィートウツン)、ここからは二時間ほどの距離です。伝令が来た時の状況は、便衣兵(ゲリラ兵)との交戦中で、負傷者あり。前日からの雪中行軍の影響で凍傷も発生しているもよう」
六人がそろったのを見て、高岡副婦長が、簡単に任務内容を説明する。どこに潜んでいるか分からない便衣兵と凍傷発生の組み合わせは最悪だ。時間をかけるほどにこちらが不利になる。
「向こうの指揮官からの要請は、応急処置によって兵を戦力復帰させることですが、そこはあなたたちの判断が優先されます」
高岡副婦長は、『分かっているわね?』と言うように視線を向け、私たちは頷いた。軍命よりも、兵の命が優先。第一特務救護小隊の基本的立場だ。
「じゃあ、さっそく行ってちょうだい。着替えと靴下、手袋は向こうの兵の分も持って行ってね」
「はい!」
そうして私たちは身支度を整え、馬そりに荷物を積み込んでいく。携帯かまどと燃料の石炭を一袋。野営用テントと毛布。水に濡れた時用の着替えと靴下、手袋。水と消毒薬と抗生剤、麻酔薬などの応急処置セットと乾パンなどの行動食。それらに防水布をかけてロープで固定する。その間に御者の孫さんは、自分の馬の体調チェックや、地図で道順を確認したりしていた。
「いいかね」
そう言って孫さんが馬にムチを当てると、馬そりはゆっくりと進み始める。
冬季のチチハルでは、この小さな馬そりだけが物資や人の輸送手段になる。孫さんはそりの先端に座って手綱を取り、私たちは徒歩でそりの横を歩く。そりには補助用の手押し棒もついており、急な坂ではみんなでそりを押すが、平坦な道ではそれに掴まって休みながら歩くこともできた。
やがてそりは踏みならされた道を越えて、雪原の中へガリガリと進んでいく。辺りはようやく明るくなっていく。私たちは小休止を兼ねてそりを停め、各自でさらしを目の周りに巻く。最初の冬に雪国育ちのスミレが教えてくれた雪目の防止法だ。
そしてそりは地図上では大きく迂回している道を外れ、凍結した川を真っ直ぐに突っ切っていく。馬が一歩でも氷を踏み抜いたら致命的だ。熟練の孫さんの手綱さばきに頼って、私たちは一列になって進んだ。
川を越えると、白樺の疎らな林が続く。少しでも風を避けるため、馬そりは林の中を進んでいく。
そしてその林の切れ目で、馬そりを停めてもらう。この先には数百メートルの雪原があって、その先には再び林が見える。その林に第五十連隊から抽出された臨時討伐班がいるはずだ。そしてその奥には便衣兵が潜んでいるとされる村がある。
ここまでの時間は、孫さんが私たちの体力を考慮してペースを落としてくれたために、三時間近くかかっている。日の出ている間に帰ろうとすれば、ここでの長居はできない。
「ここから先は私たちだけで行くので、孫さんはここでお湯だけ準備していてもららっていいですか?」
私の要請に孫さんは黙って頷く。
「あと、もし見つかりそうだったら、私たちのことはいいから、急いで逃げてください」
便衣兵からすれば日本人はただの敵で済むかもしれないが、孫さんは漢人としての裏切り者として映るはずだ。拷問や見せしめとしての処刑も考えられる。
だが孫さんは、その要請には首を振った。
「いや、もう金をもらっている。仕事を途中で放り出すことはできない」
それだけ言って、孫さんはスコップで雪を掘り、簡易かまどを設置し始める。
「仕事も大事ですけど、命あってのことですからね」
仕方なく私はそう声をかけて、応急処置セットや食糧の入った背嚢を背負う。衛生兵にはその他に二つの折り畳み式の担架や毛布も持ってもらう。先頭の衛生兵には三八式歩兵銃の先に第五病院の識別旗をくくり付けて、掲げてもらう。
そうして私たちは慎重に見晴らしのいい雪原を進んでいく。辺りは獣や鳥の鳴き声一つない、不気味な静寂に包まれている。そんな中、目の前の林の隅で、派手な色彩が翻った。
私は思わず身をすくめるが、それは第五十連隊の連隊旗だった。こちらと同じように小銃の先にくくり付けて、振っていたのだった。
私たちは急いでその旗のもとに駆け付ける。
「第五病院の布村です。救護に来ました」
小声でそう言うと、すぐに雪で作られた塹壕の中に通される。
「現状はどうなっていますか」
私が坂本少尉と名乗った小隊長と話している間にも、他の看護婦や衛生兵は速やかに応急処置に入る。出血部位を確認して止血帯による圧迫止血を行う。太腿の一部がえぐられたようになっている兵には、一時しのぎでしかないが、局所麻酔薬を注射する。ちらっと見た範囲では凍傷もかなり進んでいるようだった。
「御覧のありさまだ。とにかく、銃を撃てる人数を増やしてくれ。援護射撃がなけりゃ、近づけん」
「近づくって、何をするんですか?」
「捕虜だよ。何人かでも捕虜を取れば、向こうも撃ってこれないだろう」
坂本少尉はいら立ちながら言う。
「こんな状態で捕虜なんて取れるわけないでしょう? 凍傷で、まともに歩くのだって苦労してるのに・・・」
「分かってるよ、そんなことは! でも奴らを黙らせるにはそれしかないんだ。討伐を命じられておいて、俺の判断で引けるわけがないだろう。いいから麻酔でも何でもして、使えるようにしてくれ!」
坂本少尉はそう怒鳴るが、それは悲痛な現場の叫びに聞こえた。
「・・・相手からの攻撃はどの程度ですか?」
「向こうから前進してくる様子はない。あそこに籠って徹底抗戦の構えだ」
それを聞けば、私たちのやることは簡単だ。
「では後退してください。向こうの林のところに物資があります。とりあえずはそこまで後退です」
「はぁ!? 看護婦風情が何を言ってる!」
「陸軍大尉としての命令です」
「は!? あ、え・・・?」
坂本少尉は、ようやく私の野外服に付いた階級章に気付いたようだ。これまでにも何度か前線への救護に行ったことはあるが、どれも反応は同じようなものだったので、今更気にもならない。前線に来た看護婦が階級持ちだとは思わないのだろう。
「坂本少尉。布村大尉のご命令ですが、いかがいたしますか?」
そばにいた衛生兵が、負傷兵の止血をしながら、茶化すように言う。
「・・・もちろん後退だ」
そう自分で言って、無謀な命令から解放されたのだろう。それからの指示は早かった。
「全員、最低限の荷物をまとめろ。この場は放棄。負傷者の救護が最優先だ。全員で生きて帰るぞ」
そして一通りの応急処置が済むと、重症度の高い二人をそり式の冬季用担架に乗せ、後は肩を貸しながら後退する。
その時だった。
パンッという乾いた破裂音が雪原に響くと同時に、私の背後でドサッと重いものが雪に叩きつけられる音がした。
看護婦の一人が脇腹を押さえながら、崩れ落ちていた。
「加奈!」
私が駆け寄ると、加奈は無理に笑顔を作ろうとする。
「・・・撃たれちゃった。左の脇腹。貫通はしていないし、骨には当たってないと思う」
「分かった。ちょっと待っててね。 ・・・みんなは先に孫さんの所に行ってて」
私は坂本少尉と衛生兵に指示を出してから、加奈の上着をめくりあげて傷口を確認する。加奈の言う通り、貫通はしていないし、動脈性の出血でもない。
応急処置セットから畳んだガーゼを出して傷口を圧迫すると、加奈は激痛でうめきながらも、自分でもガーゼを押さえようとしてくれる。次にヨードチンキをガーゼに染み込ませて、傷口周囲を消毒。その後でガーゼを替えて傷口全体を覆うと、幅広の包帯でガーゼを固定する。その間に朋美が局部麻酔薬のプロカインを準備してくれる。血圧を低下させる作用もあるため慎重さが求められるが、傷口の周囲に注射すると、加奈の表情が和らいでいく。
衛生兵が持ってきた毛布でくるむようにして担架に乗せると、加奈も少しは安心したようだ。
「・・・ごめんね。足引っ張っちゃって」
「何言ってるの。病院に着けばちゃんとした手術受けられるから、それまでの我慢だよ」
「うん」
そうして私と朋美の二人でそり式の担架を引き、衛生兵が後ろを警戒してくれる。幸い、向こうからの発砲はもうなかった。
孫さんの待つ馬そりの所に到着すると坂本少尉の部隊に白湯と携帯糧食が配られており、みんな無心で食べていた。そうして落ち着いたところで、濡れた靴下や手袋を乾いたものに変える。担架に乗せられた兵は保温用の毛布でぐるぐる巻きにした。もう日暮れも近づいており、時間との勝負だ。
「これから第五病院に向かいます。病院には温かい部屋もありますし、きちんとした治療も受けられます。後三時間、頑張ってください」
そう激励の言葉をかけて、私たちは出発する。
そり式の担架は馬そりの手押し棒に縛り付け、横転を防ぐためと、兵の状況を観察するために、横に看護婦が付く。衛生兵も討伐班の負傷者に肩を貸し、孫さんも負傷者を馬そりに座らせるために、馬の横を歩きながら手綱を握った。私も討伐班の兵全体の様子に目を光らせていた。
それは明らかな敗走軍だったが、みんなの顔には生きるための希望があった。
「大尉殿」
腕を吊った坂本少尉が、すっとそばに寄ってくる。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
坂本少尉はそう謝ってくるが、私には一瞬、何のことか分からなかった。
「あぁ、いえ、気にしないでください。皆さん、同じ反応をなされます」
そう応えて笑うと、それで気が楽になったのだろう。
「あんな無謀な作戦に従っていたなんて、どうかしていました」
そう坂本少尉は呟いた。
「あの、軍人である以上、そういったことは口にしないほうが・・・」
「いえ、大尉殿、聞いてください」
私は困惑したが、坂本少尉はそう言って小声で続ける。
「私は部下たちに『あの村にいる便衣兵を掃討する』と言って本隊を出ました。ですがそれは嘘なのです。私に下された命令は、『あの村から何人か捕虜として連行しろ』というものでした。『理由もなくそんなことはできません』というと、『じゃあ、便衣兵がいることにしたらいいだろう』と。 ・・・私はそれに従ってしまったのです。向こうが銃を持っていることは完全な誤算でした」
「そう、ですか・・・」
「立案会議の場で、私がきちんと反対していれば・・・ 部下の凍傷も銃創も、そしてあの看護婦が撃たれたのだって、みんな私の責任です・・・」
そう悔やむ坂本少尉に対して、私はかける言葉を見つけられなかった。
病院への帰還は、途中で衛生兵の一人が伝令に走り、病院から残り二台の馬そりが迎えに出てくれたおかげで、日没前に到着することができた。
加奈も容体は安定し、途中でプロカインを二回、追加で注射するだけでよかった。病院での銃弾摘出手術もうまくいった。
だが問題は、その後に必要となる抗生剤が足りないことだった。手術器具や手技の衛生管理にも限界がある。その上、冬場の寒さ、栄養状態の悪さ、精神的ストレスなど、マイナス要素はいくつもある。細菌感染を回避するのは、分の悪い賭けだった。
そして、そのような都合のいい奇跡は起きなかった。
手術から二日目の夜、笑顔が見られるようになった頃に、急に発熱と腹部の圧痛が襲ったのだ。
私は急いで病院内のサルファ剤のアンプルを集めてくるが、それは一日分にも足りないものだった。そして、それは加奈も分かっていた。
「・・・私はいらない。前にミチヨが教えてくれたんだよ。敗血症には最低でも1日8本は必要だって。それは使える人に使って」
加奈は苦痛に顔を歪めながら、絞り出すように言う。
「・・・わがまま言っていい? 私も女の子だからさ、こんな苦しそうな顔で死にたくないんだ。モルヒネ1本ご馳走して」
「・・・待ってて」
私はすぐに当直医のもとに走る。当直医は『君が言うのなら』とモルヒネを1本出してくれた。すぐに注射器に取ると、加奈の元に戻る。
「・・・そんな顔で針、見えるの?」
加奈に言われ、私は涙を拭く。
そうしてモルヒネを注射すると、ようやく加奈の表情が穏やかになる。
「ありがと。 ・・・家族と婦長には、私は後悔してませんって、伝えてくれる?」
「・・・分かった」
そうは言ったが、私は加奈のそばを離れ難かった。自分にできることは何もないことは分かっている。でも何か、と探し続けていた。
「ミチヨも、もう休んでいいよ」
そんな私の心情を察したように加奈が言う。
「私って結構繊細だから、そんな風に見られてると眠れないんだ」
「・・・分かった。 ・・・おやすみ」
私は最後に毛布を掛け直してやることしかできなかった。
「ありがと、ミチヨ・・・」
それが私の聞いた、加奈の最後の言葉だった。
夜勤の看護婦の話では最初に巡回に来た時には静かに寝ていたらしいが、次の三時間後の巡回の時にはすでに息を引き取っていたということだった。きれいな死に顔だったらしい。
遺体は朝早くに静かに運び出され、葬儀もなく、きれいなムシロに包まれただけで、病院の裏手にある墓地に埋葬された。
基本的に遺体は原隊に戻すことになっていたが、戦地の混乱で原隊不明やすでに撤退済みの場合も多かった。そういった人の場合は病院で埋葬することになる。その墓地はどんどん拡大していった。
病院全体で見れば、そこにまた一つ、墓標が加わったに過ぎない。加奈だって、職員の最初の被害者というわけではない。前年の冬には劇症型インフルエンザの流行で病院看護婦が4人亡くなっていたし、第一特務救護小隊の隊員でも雪美という子が、やはり銃撃を受けてからの破傷風感染で死亡していた。
死は誰にだって訪れる。そんなのは当たり前のはずだった。
私は朝のわずかな時間を見て、スミレ、シゲミと三人で連れ立って、裏手の墓地に向かった。雪を踏みしめた足跡の細さが、埋葬の簡素さを物語っていた。
その墓地へ向かう途中、向こうから木内婦長が歩いてきた。
木内婦長は少し驚いたようにして、帽子のつばを下げて目元を隠すと、無言ですれ違う。
私たちも、ただ道を避けて、無言で敬礼するにとどめた。
墓地の中央には大きなライラックの木があり、その周囲に名前が記されただけの簡素な墓標がいくつも立っている。
墓地に追加された真新しい墓標には、紙に包まれたキャラメルがたった一粒、供えられていた。
それから一週間後、坂本少尉の討伐班のうち、十名は原隊に復帰していった。坂本少尉は小隊員に涙ながらに『今回の負傷は全て自分の責任である』と謝罪し、『今度こそ軍法会議覚悟で筋を通す』と真っ先に原隊へ戻って行った。
今、第五病院に残っているのは、凍傷がひどかった五名だ。すでに壊死部分の切除は済ませてある。現在、この病院での栄養状態では壊死が進行するだけだ、という判断のもと、早めの切除に踏み切ったのだ。
手足の指が多いが、一人は右耳と鼻、もう一人は右足首から切断せざるを得なかった。いずれにせよ、原隊復帰は叶わないだろう。
それによって落ち込んでいる者もいれば、もう次の部隊での任務を考えている者もいた。
民間の日本人女性が病院を訪れて来たのはそんな時だった。
「あの、すみません、新高村の高田というものですが・・・」
「はい、どうされました」
すぐに受付担当の看護婦が応対に出る。新高村は町はずれに位置する、日本人村だ。本人は具合は悪くなさそうだし、往診の依頼だろうか。今からだと手の空いている軍医はいただろうか、などと考えながら、院内清掃に向かう。
まずは病室内の石炭ストーブの横にあるブリキ製の灰箱を新しいものと入れ替えるところからだ。そして持ち出した灰箱から廊下の汚れているところに振りかけ、水分を吸わせた後に、灰を磨き粉代わりにして乾いた布でこすり落としていく。そして最後に固く絞った雑巾でふき取っていく。わずかでも水分が残っていれば、それが凍結して事故の元になってしまうため、これも結構な力仕事だ。
そうやって廊下の汚れを探していると、さっきの受付担当の看護婦がやって来る。
「布村さん、ちょっと変わってもらっていい?」
私が顔を上げると、その看護婦は困ったように受付に立っている女性を見る。その女性も困っているように見えたから、何か問題が起きたのだろうか。
私は掃除道具をその看護婦に渡すと、前掛けで手を拭きながら受付に行った。
「どうされました? 往診ですか?」
そう問いかけるが、女性は首を振る。
「いえ、往診じゃなくて、迎えに来てほしいんです」
「迎え?」
「はい、今朝、うちの人が畑に大根を掘りに行ったんですけど、その時に軍人さんが二人、雪の上でうずくまっているのを見つけて。一人は声かけても反応しないし、もう一人はずっとブツブツ言ってるし・・・ とりあえず家にまでは引っ張って来たんですけど、引き取ってもらえないかと・・・」
その女性の表情には、面倒なことには関わりたくないという思いがありありと浮かんでいた。
「その人たちは、日本の軍人で間違いないんですか?」
「え、ええ。支那人が日本の軍服を着て化けているのかもしれませんけど」
私が念のためにと確認すると、女性は不機嫌そうに言う。だが、日本人だとすれば、すぐそこに民家があるのに畑で行き倒れのようになる状況は限られてくる。
「怪我をしているとか、苦しそうにしているといった様子はありましたか?」
「怪我はしていないようでしたね。咳や熱はなかったように思います」
「分かりました。すぐに準備をするので、少しお待ちください」
その二人の軍人がどういう状態なのか判断がつかないまま、とりあえず、高岡副婦長に患者搬送用の馬そりの使用許可を取る。まずは二人分の毛布と水だ。村まではそう遠くはないので応急処置セットだけでいいだろう。あとは連れ帰る人員だが・・・
私は思案の末、スミレとシゲミに声をかけた。幸い、二人とも非番中で、洗濯と雪かきの最中だった。
御者の李さんに馬そりを出してもらい、私たち三人はそりに後ろ向きになって、寄り添うようにして座る。防寒対策として毛布の一枚は畳んで座布団にし、もう一枚はひざ掛けのようにした。
私たちの馬そりの前には、さっきの女性の操る馬そりが歩いている。だが、しっかりと防寒具を頭から被っているうえ、距離もあるので、こちらの話し声が聞こえる心配はない。
「その人たちって、二人だけで倒れてたんでしょ? それって・・・」
「脱走兵、とか・・・」
「多分ね」
シゲミとスミレに合わせて、私も声を潜めて返す。
「逃げたはいいけど、通報されるのが怖くて、民家にも逃げ込めなかった、っていうとこだと思うけど」
「じゃあ、低体温症による錯乱?」
「だとすれば、家に保護されたわけだし、一安心だな」
「そのはずなんだけど・・・」
私は前を行く女性の態度が気になっていた。脱走兵だと思ったとしても、軍の病院に『引き取ってくれ』とは言わないだろう。
そんなことを話していると、李さんの馬そりが止まる。
「着いたようですよ」
李さんに言われて、私たちも馬そりから降りて、その日本家屋に向かう。
氷柱の下がる狭い玄関をくぐると広い土間があり、そこに農機具や古いランプが見えた。そしてその隅に汚れた軍服姿の若い男が二人、うずくまっていた。居間へと続く板戸は開け放たれて、火鉢の熱気がかすかに届いている。そしてそこからは男たちが、気味悪そうな視線をじっと向けていた。
「こんにちは。病院の者ですけど、どこか痛むところはありますか?」
私は努めて明るく声をかけるが、その男はその場で転びそうになるほど驚いて、「済まない、許してくれ、許してくれ」と必死に言いながら、向こうを向いてうずくまってしまう。肩に触れても、びくっとするだけで、こちらのほうは向こうとしない。
もう一人のほうにも同じように声をかけるが、こっちは全くの反応なしだった。意識がないわけではなく、こちらのことは見えているはずなのだが、反応しないのだ。
「畑で見つけた時から、ずっとそうなんだ。早く連れて行ってくれないか」
居間から男が迷惑そうに言う。
「分かりました」
そう言いながら、私は二人の軍服の胸ポケットや内ポケットを探るが、そこには軍隊手帳は入っていなかった。それに軍服からは階級章も外されていた。これでは名前も所属も分からない。
とりあえず、病院に連れて行くために、李さんに馬そりを玄関に横付けしてもらって、毛布で二人をくるむ。
「聞こえる? 私たちはあなたを助けに来たの。一緒に行きましょう」
私はうずくまっている兵に話しかけるが、彼は「許してくれ」と繰り返すのみだ。
「大丈夫ですよ。誰もあなたを責めたりしません。さ、行きましょう」
シゲミも優しく、肩を抱くようにする。
「立てる? 触るよ?」
私は丁寧に断ってから、ゆっくりと兵の腕を持ち上げる。兵は「うぅ、許してくれ、済まない、済まない」と繰り返しながら、震える足で力なく立ち上がった。
スミレはその瞬間、無反応だった兵がわずかに顔を上げようとしたのを見逃さなかった。
「よし、あんたも頑張れるよな」
その言葉には反応しなかったが、スミレがゆっくりと体を起こしてやると、ぐったりしたまま、それには従った。
「よし、できるじゃない。いい? ゆっくり行くよ?」
スミレはその兵の体を支えたまま少し傾け、足が前に出たのを確認してから、次の一歩を踏み出す。
馬そりには先に錯乱状態の兵を誘導し、その後に虚脱状態の兵を三人で座らせた。
本来なら備え付けのロープで患者の体を固定することになっているのだが、この二人には余計な刺激になってしまうだろう。代わりに最後尾にシゲミが乗ることにする。
そして最後に私はもう一度、民家に戻る。
「連絡ありがとうございました。以後のことは、第五病院で責任をもって対処します。あとから何か気付いたことがあれば、第五病院までお願いします。それと、これは軍内部のことなので・・・」
「あぁ、分かってる。誰にも言わねぇよ」
「すみません。よろしくお願いします」
それだけお願いして、私たちは第五病院に戻った。
病院では高岡副婦長から連絡されていたようで、すぐに木内婦長と内科の軍医が出てくる。
二人は簡単な診察によって、『詐病の疑いなし』『神経症』と診断される。木内婦長はその様子を見て、脱走兵ではなく、神経症の患者として扱うことを指示した。
身元については、『脱走兵を出すのは部隊の恥』とされているため、こちらから部隊に問い合わせても、自分のところの所属だなどとは決して言わないだろう。
結局、錯乱状態のほうは『佐藤一郎』、虚脱状態のほうは『田中二郎』と呼ぶことにして、内科病室に収容されることになった。
佐藤さんのほうは、壁際のベッドでうずくまり、わずかな物音にもびくびくしていた。体温計や食事のスプーンを近づけても、無意識のうちに払いのけようとするが、それをなだめながら何とかお粥を食べさせていた。
田中さんのほうは、ベッドの上で、固まったように一日中同じ姿勢で座っていた。それでは体に悪いからと、衛生兵が体を動かしてやると重い人形のように動くのだが、自分からは一切動くことはなかった。体を起こして重湯を飲ませようとしても、半分以上は口からこぼれ落ちていた。
このような状態なので、当然、排泄も自分ではできず、垂れ流し状態だった。定期的に服や下着、ベッドシーツの交換と洗身が必要になるが、そのことに文句を言う看護婦はいなかった。『便も血も膿も平気だけど、あの魂が抜けたような視線には慣れない』というのが多くの看護婦の意見だった。
その後、数日を置いても二人の病状には、回復の様子は見られなかった。急を要する病状でもないため、後方の病院に送致してもいいはずなのだが、木内婦長はそのような指示は出さなかった。
その日、私とスミレ、シゲミはたまたま同じタイミングで病室勤務が終わり、佐藤さんと田中さんのところに顔を出してから廊下を歩いていた。すると前のほうから私服姿の吉川さんがやって来る。
「あ、おはようございます」
「おはよっす」
私たちの挨拶に、吉川さんもいつも通り、軽い口調で返してくれる。
「私服姿の吉川さんって珍しいですね」
私の印象では常にびしっとした軍服姿で立っているイメージだったので、なんとなく違和感を感じてしまう。
「俺にも非番くらいあるっすよ」と当たり前のように返される。
「非番なのに病院来たんですか?」
「宿舎よりこっちのほうがあったかいんすよ」
スミレの疑問に、そう笑いながら答える。それに対して私たちは「分かる~」と笑いあう。
看護婦の中にも非番の時は『患者の話し相手』と称して温かい病室に行っている者は何人もいた。実際には話し相手だけではなく、患者担当の看護婦の手伝いもしっかりやっていたので、患者担当の看護婦も助かっていたが。
「じゃあ、また」と言って、吉川さんは二階へと上がって行く。
そして吉川さんは真っ直ぐに婦長室に向かう。
ノックをして「吉川っす」というとすぐに「どうぞ」と木内婦長の返事がある。
婦長室に入った吉川さんは挨拶もそこそこに、ポケットの中から汚れた軍隊手帳を二冊取り出し、木内婦長へと差し出す。
「やっと見つけたっすよ。風に飛ばされてなくて助かったっす」
「ごくろうさま」
そう言いながらキャラメルを吉川さんに渡し、二冊の軍隊手帳を手に取る。雪に濡れて滲んでいるところもあったが、写真は剥がれておらず、所属、階級と氏名もはっきり読める。
『佐藤一郎』のほうは関東軍防疫給水部本部、実験支援部門第三課、一等兵、成田博、『田中二郎』のほうは同じく第三課の伍長、大川義男であることが分かる。
「やっぱりね・・・」
木内婦長はそう呟いて、二冊の軍隊手帳を自分の机の引き出しにしまい込んだ。
その事件は突然に起こった。
少しでも気分転換にと、私ともう一人の看護婦とで佐藤さんをなだめながら、病院の廊下を歩かせていた時だった。
たまたま、凍傷で足首から下を切断した患者とすれ違ったのだが、その途端に佐藤さんが大声でわめきながら転げまわったのだ。
「許してくれ! 済まなかった!」と叫びながら、壁に向かって、何かをかき分けるように爪を立てている。
「落ち着いてください! 誰もあなたを責めてなんかいません!」
そう言って二人で抑えようとするが、何日もまともに食べていないとは思えないほどの力だった。
すぐに騒ぎを聞きつけて軍医や衛生兵も駆け付けてくる。
「鎮静剤! モルヒネとスコポラミン!」
軍医がすぐに指示を出すが、佐藤さんは泡を吹きながら、異常な力でもがいている。壁板にでも引っかけたのか、爪がはがれて血が滴っていた。
「ひぃい! 許してくれ! 許してくれ!!」
なおも叫び続ける佐藤さんを衛生兵二人と軍医の三人でやっと押さえつける。口の中も切れたのか、口角からあふれる泡が赤くなっている。
そこへようやく看護婦が鎮静剤の注射器を持ってくる。
「お願いします!」
そう差し出された注射器を受け取るために軍医が手を離した瞬間、佐藤さんは二人の衛生兵を振り払い、逃げ出した。
「あ、待って!」
私が追いかけるが、佐藤さんは「済まなかった! 済まなかった!」と叫びながら廊下を走り、階段を駆け上がる。
そのまま階段を駆け上がり、三階の廊下の突き当りに来ても佐藤さんの勢いは止まらなかった。
「あ!!」
私が何か言う間もなく、佐藤さんはそのままの勢いで窓ガラスを突き破って飛び出て行った。
一瞬の間に、私の頭の中に、あの窓の外には屋根などはなく、地面まで届いてしまうこと、その地面はコンクリート張りになっていること。そしてあの佐藤さんの体勢は確実に頭から地面に達するということが思い浮かぶ。
大きく割られた窓ガラスの下から「ぐしゃ」という音が聞こえた。
私はしばらく、荒い呼吸のまま、その場に立ち尽くしていた。
その騒ぎの中、田中さんがわずかに顔を上げたことに気付いた者はいなかった。
木内が脱走兵の死亡を関東軍衛生部に報告して数日後、案の定、松島大佐が動いた。
死亡した脱走兵について聞きたいと、呼び出されたのだ。
「久しぶりだね、木内君。元気そうで何よりだ。あの布村君も元気かね」
「はい。おかげさまで任務に励んでおります」
「そうかね。喜ばしいことだ」
そして一瞬だけ二人の視線が交錯する。
「ところで、君のところに収容されていた脱走兵なんだが、もしかしたら私の知っている部隊の兵ではないかと思ってね」
「そうでしたか。こちらのほうでは残念ながら身元の確認は全くできませんでした」
「脱走兵は君のところで何か言っていなかったかね?」
「いいえ。収容当初から錯乱および虚脱状態でしたので、意味のあることは何も言っておりません。詳細は診療録にありますのでご確認ください」
そうして木内は持参した二冊の薄い診療録を差し出す。そこには収容した日時から、頭蓋骨骨折、脳挫傷で死亡するまでの細かな経緯が記録されていた。
「さすがに準備がいいね」
そう言いながら松島は二冊の診療録を見比べる。
「この二人は同じ時刻に飛び降りたのかね? 錯乱状態にあったほうはともかく、虚脱状態にあったほうも?」
「はい。錯乱状態の兵の叫び声に反応したとのことでした。突然のことでありましたし、二人同時に動いたために、どうすることもできなかったということです」
「そうかね」
そう言って松島は診療録を脇に寄せる。
「いや、この二人については不幸な最後になってしまったものの、脱走兵をいち早く確保し、情報の漏洩を防いだ君の手腕は、高く評価しておるよ。本日付けで、君を中佐に推挙する旨、関係各所に報告済みだ」
「光栄です。ご期待に沿えるよう、尽力いたします」
木内は一礼して退室する。
だが木内は、松島の言動の意図をある程度は察知していた。
『大佐は、左遷された私を昇進させることで、自分の影響力を誇示した。それに反応するものは、誰か・・・』
◇◇◇◇◇
「佐藤さんが窓を突き破る瞬間のことは鮮明に記憶しています。まだ夢に出てくるんですよね。あぁ、また助けられなかった、と・・・」
確かに、戦場という極限状態では人の精神は容易く壊れてしまうのかもしれない。従軍看護婦は、命の他にも人としての心も支えていたのだ。そう思うと、今更ながらに、目の前の石塚さんが大きく見えてくる。
「看護の手が間に合わず、看取ってきた兵はそれこそ、何百人といます。でも、仕事の手を止めれば、次の患者が亡くなってしまう。私たちには落ち込んでいる余裕すらありませんでした。 ・・・単に人の死に慣れてしまっただけなのかもしれませんが」
そう言って石塚さんは少し悲し気に微笑む。
「状況的には大戦の後半期に当たると思うのですが、戦況の悪化を体感するようなことはありましたか?」
「それはもう、皆さん感じられていたと思います。ただ、口に出さないだけで。病院に送られてくる人たちは、銃創、砲撃による負傷者ではなく、凍傷、栄養失調、神経症がほとんどでした。あぁ、もう軍には戦う力は残っていなんだなと思いました。それに、私たちの小隊に対しては、木内婦長が、度々日本の状況を教えてくれていたんです。昨日はどこが陥落したとか、今朝、何が撃沈されたとか、かなり詳細なものでした。参謀本部に関係する人とつながりがあったそうですから、そこからの情報だったのでしょう」
つまり石塚さんは、目の前で救えなかった命を目にしつつ、全体的にも決して好転しえない状況を知らされていたということだ。私なら絶望でどうにかなってしまいそうだ。
「ずっとそのような緊張感の中で生活していたのですか?」
「基本的にはそうですね。患者の死というものは常に身近にありましたし、木内婦長や高岡副婦長は、事あるごとにこれが戦争なんだと言っていました。ですが、いくら看護婦といっても、中身はまだ若い娘でしかありませんから、それを意識的に忘れたいと思うこともありました」
「そういう時は、気分転換などはできたのでしょうか?」
「野戦病院は常に物資不足との戦いでしたから、気分転換などは難しかったのですが、それでも入浴などが大切な気分転換になっていましたね。それに他の部隊と違って、木内婦長は気分転換を認めてくれていましたから、たまにイベントが開催されるようなこともありました。最後の年もそうでしたね。ようやく春が訪れて、トラックが運行できるようになった頃でした」