エピローグ
◇◇9 エピローグ◇◇
「バイクのガソリンは一日も持たなかったので、そこからは鉄道を乗り継いで行きました。大尉だと言って他の避難者を押し退けるわけにもいきませんし、時間はかかりましたね。でも三人だけの身軽な移動ですし、医療行為で食糧を分けてもらうこともできたので、スムースに行ったほうだと思います。最終目的地の朝鮮半島の仁川(インチョン)に着いたのは8月の下旬でした。先に着いていた避難隊の皆さんはすでに帰国していて、高岡副婦長だけが、私たちを待っていました。私たちはそこで軍服や徽章をすべて回収され、民間人として帰国しました。架空の民間病院の職員証まで準備されていたので、ずいぶん前から準備が進められていたのでしょうね。満洲でのことは口外しないことにしようと、小隊員で示し合わせてありました。私たちのしたことがどんな形で高岡副婦長の迷惑になるか分からないという思いからです。帰国後はすぐに厚生省の担当部局に組み入れられて、引き揚げ者の検疫業務に従事しました。その後のことはご存じだと思います。 ・・・これが私の満洲時代の出来事です」
そうして石塚さんは、長い長い満洲時代の話を終えた。
「・・・ありがとうございます」
石塚さんのお話に対し、私は涙ぐんで、それしか言えなかった。
目の前の記者が突然泣き出したにもかかわらず、石塚さんは声をかけるでもなく、私が顔を上げるのを辛抱強く待ってくれた。
「・・・すみませんでした」
私は、ようやく気を落ち着かせ、涙を拭いた。
「石塚さんのお話で、祖母のことを思い出しまして・・・ 私の祖母がどんな人物だったのか、少し分かったような気がします」
そうして私は鞄の中から古い写真を取り出した。
「私の祖父母の結婚写真です。見ていただけますか」
それを差し出すと、石塚さんが息を呑むのが分かった。
「祖父は呉 吉川(ウー ジーチュアン)。当時は日本名で吉川(よしかわ)と名乗っていたそうです。そして祖母は木内香です」
石塚さんは古い写真と私の顔を見比べるようにしていた。
写真の中には、スーツ姿で少し緊張したような表情の祖父と、薄化粧で無邪気に笑う祖母の姿があった。母には「あなたはおばあちゃん似ね」と言われたこともあるが、私はそこまで美人じゃない。
「・・・あなたがお孫さんということは、木内婦長は生きていらしたのですね」
「はい。祖母が亡くなったのは一昨年のことです。祖父はその2年前に亡くなりました」
「そうですか・・・」
「私は晩年はずっと祖母の近くにいましたが、どのような人なのか、よく知らなかったのです。私の知っている祖母は、脳の障害で幼い少女のような内面になっていたので・・・」
「え?」と石塚さんが顔を上げる。
「ただ、障害と言っても本人は何も覚えておらず、認知機能も低下していたようですから、周りはともかく、本人は幸せな人生だったと思います」
「・・・どうしてそのようなことに?」
「それは祖父が晩年になってようやく教えてくれました。多分、祖母があんなことになったので、もう過去を忘れて静かに暮らしたかったのでしょう」
そう前置きして、祖父から聞いた石塚さんの知らない祖母の話をする。
「祖母は恐ろしいウイルスを広めないために自ら死を選んだそうですが、縦穴に落ちた時に、あらかじめ横穴の存在を確認しておいたおかげで、すぐに運び出すことができたのだそうです。銃で撃たれ、腕も折れていたけど、すぐに応急処置をして、現地の医者の所に運んだおかげで、一命は取り留めたそうです。その時に『持ち場を離れたな』と祖母から叱られたそうですが」
「そうだったの・・・ 最初から吉川さんはそのつもりだったんですね・・・」
「そして祖父が、『回復したら快気祝いと結婚式を同時にしよう』と言ったら、嬉しそうに頷いてくれたそうです。ですが、その2、3日後に、急に高熱を出して意識を失い、1週間近くも生死の間を彷徨って、ようやく熱が引いたと思ったら、祖母は何も知らない幼い少女のようになっていたそうです。そのことについては、祖父は『密閉されていたはずのウイルスがほんのわずかに漏れ出していたのかもしれない』と言っていました。もう確かめようもないことですが。祖母は中国語も忘れ、祖父のことは前のように『吉川(よしかわ)さん』と呼んだそうです。祖父が結婚のことは覚えているかと聞くと、初めて聞くような顔をしたものの、『わたし、吉川さんと結婚する!』と無邪気に答えたそうです」
そう言うと、石塚さんは少し戸惑ったような表情をしていた。確かに石塚さんの話してくれた『木内婦長』からはなかなか想像できないことだろう。でもそれが軍の仕事から離れた、本来の祖母の姿ではないかとも思う。
「妊娠、出産に関しては戸惑っていたものの、祖母なりに一生懸命に息子を、私の父になりますが、その子を育てたそうです。身に沁みついたものは消えないのか、怪我の応急処置などは病院の医師も舌を巻くほどだったと言っていました」
「そうですか・・・ やっぱりどこかに『木内婦長』が残っていたのでしょうね・・・」
「ええ、多分。祖母はよく『ミチヨさん』の名前を出したり、『ミチヨさんに謝りたい』と言っていました。それが石塚さんのことであると気付いて、祖母のことを知ることができるかもしれないと思って、このインタビューを申し込んだのです。申し訳ありませんでした」
私は、結果的にだましてしゃべらせるような形になってしまったことを謝罪した。
「いいえ、木内婦長のことが聞けて、大変感謝しています。自分の中では木内婦長を撃ったことは、すでに折り合いを付けていたと思っていたのですが、まだ心の奥で重くのしかかっていたことが自覚できました。そして、木内婦長が生きていらして、幸せな人生を送られたと知って、改めて赦していただけた気分です」
そう言いながら、石塚さんはかすかに涙を浮かべる。
「そうだ。スミレとシゲミにも教えてあげないと・・・ 電話じゃなんだから、もう一度時間を取って、二人とも会っていただけますか?」
「はい、もちろん」
私はそう答えながら、石塚さんのうきうきした様子を見ていた。
今回の表向きのインタビューは文化的な貢献に関してのものだったが、次回の記事はもっと人間にスポットを当てた『60年以上続く女の友情』というのはどうだろう、と考えていた。
「バイクのガソリンは一日も持たなかったので、そこからは鉄道を乗り継いで行きました。大尉だと言って他の避難者を押し退けるわけにもいきませんし、時間はかかりましたね。でも三人だけの身軽な移動ですし、医療行為で食糧を分けてもらうこともできたので、スムースに行ったほうだと思います。最終目的地の朝鮮半島の仁川(インチョン)に着いたのは8月の下旬でした。先に着いていた避難隊の皆さんはすでに帰国していて、高岡副婦長だけが、私たちを待っていました。私たちはそこで軍服や徽章をすべて回収され、民間人として帰国しました。架空の民間病院の職員証まで準備されていたので、ずいぶん前から準備が進められていたのでしょうね。満洲でのことは口外しないことにしようと、小隊員で示し合わせてありました。私たちのしたことがどんな形で高岡副婦長の迷惑になるか分からないという思いからです。帰国後はすぐに厚生省の担当部局に組み入れられて、引き揚げ者の検疫業務に従事しました。その後のことはご存じだと思います。 ・・・これが私の満洲時代の出来事です」
そうして石塚さんは、長い長い満洲時代の話を終えた。
「・・・ありがとうございます」
石塚さんのお話に対し、私は涙ぐんで、それしか言えなかった。
目の前の記者が突然泣き出したにもかかわらず、石塚さんは声をかけるでもなく、私が顔を上げるのを辛抱強く待ってくれた。
「・・・すみませんでした」
私は、ようやく気を落ち着かせ、涙を拭いた。
「石塚さんのお話で、祖母のことを思い出しまして・・・ 私の祖母がどんな人物だったのか、少し分かったような気がします」
そうして私は鞄の中から古い写真を取り出した。
「私の祖父母の結婚写真です。見ていただけますか」
それを差し出すと、石塚さんが息を呑むのが分かった。
「祖父は呉 吉川(ウー ジーチュアン)。当時は日本名で吉川(よしかわ)と名乗っていたそうです。そして祖母は木内香です」
石塚さんは古い写真と私の顔を見比べるようにしていた。
写真の中には、スーツ姿で少し緊張したような表情の祖父と、薄化粧で無邪気に笑う祖母の姿があった。母には「あなたはおばあちゃん似ね」と言われたこともあるが、私はそこまで美人じゃない。
「・・・あなたがお孫さんということは、木内婦長は生きていらしたのですね」
「はい。祖母が亡くなったのは一昨年のことです。祖父はその2年前に亡くなりました」
「そうですか・・・」
「私は晩年はずっと祖母の近くにいましたが、どのような人なのか、よく知らなかったのです。私の知っている祖母は、脳の障害で幼い少女のような内面になっていたので・・・」
「え?」と石塚さんが顔を上げる。
「ただ、障害と言っても本人は何も覚えておらず、認知機能も低下していたようですから、周りはともかく、本人は幸せな人生だったと思います」
「・・・どうしてそのようなことに?」
「それは祖父が晩年になってようやく教えてくれました。多分、祖母があんなことになったので、もう過去を忘れて静かに暮らしたかったのでしょう」
そう前置きして、祖父から聞いた石塚さんの知らない祖母の話をする。
「祖母は恐ろしいウイルスを広めないために自ら死を選んだそうですが、縦穴に落ちた時に、あらかじめ横穴の存在を確認しておいたおかげで、すぐに運び出すことができたのだそうです。銃で撃たれ、腕も折れていたけど、すぐに応急処置をして、現地の医者の所に運んだおかげで、一命は取り留めたそうです。その時に『持ち場を離れたな』と祖母から叱られたそうですが」
「そうだったの・・・ 最初から吉川さんはそのつもりだったんですね・・・」
「そして祖父が、『回復したら快気祝いと結婚式を同時にしよう』と言ったら、嬉しそうに頷いてくれたそうです。ですが、その2、3日後に、急に高熱を出して意識を失い、1週間近くも生死の間を彷徨って、ようやく熱が引いたと思ったら、祖母は何も知らない幼い少女のようになっていたそうです。そのことについては、祖父は『密閉されていたはずのウイルスがほんのわずかに漏れ出していたのかもしれない』と言っていました。もう確かめようもないことですが。祖母は中国語も忘れ、祖父のことは前のように『吉川(よしかわ)さん』と呼んだそうです。祖父が結婚のことは覚えているかと聞くと、初めて聞くような顔をしたものの、『わたし、吉川さんと結婚する!』と無邪気に答えたそうです」
そう言うと、石塚さんは少し戸惑ったような表情をしていた。確かに石塚さんの話してくれた『木内婦長』からはなかなか想像できないことだろう。でもそれが軍の仕事から離れた、本来の祖母の姿ではないかとも思う。
「妊娠、出産に関しては戸惑っていたものの、祖母なりに一生懸命に息子を、私の父になりますが、その子を育てたそうです。身に沁みついたものは消えないのか、怪我の応急処置などは病院の医師も舌を巻くほどだったと言っていました」
「そうですか・・・ やっぱりどこかに『木内婦長』が残っていたのでしょうね・・・」
「ええ、多分。祖母はよく『ミチヨさん』の名前を出したり、『ミチヨさんに謝りたい』と言っていました。それが石塚さんのことであると気付いて、祖母のことを知ることができるかもしれないと思って、このインタビューを申し込んだのです。申し訳ありませんでした」
私は、結果的にだましてしゃべらせるような形になってしまったことを謝罪した。
「いいえ、木内婦長のことが聞けて、大変感謝しています。自分の中では木内婦長を撃ったことは、すでに折り合いを付けていたと思っていたのですが、まだ心の奥で重くのしかかっていたことが自覚できました。そして、木内婦長が生きていらして、幸せな人生を送られたと知って、改めて赦していただけた気分です」
そう言いながら、石塚さんはかすかに涙を浮かべる。
「そうだ。スミレとシゲミにも教えてあげないと・・・ 電話じゃなんだから、もう一度時間を取って、二人とも会っていただけますか?」
「はい、もちろん」
私はそう答えながら、石塚さんのうきうきした様子を見ていた。
今回の表向きのインタビューは文化的な貢献に関してのものだったが、次回の記事はもっと人間にスポットを当てた『60年以上続く女の友情』というのはどうだろう、と考えていた。