残酷な描写あり
6.天と地の共謀-3
「リュイセン!!」
耳をつんざくような発砲音に、アイリーは絶叫した。
彼のもとへと駆け寄ろうとするも、屈強な近衛隊員に腕を掴まれていては、振りほどくことは叶わない。
何故、こんなことに!?
澄んだ青灰色の瞳が、いっぱいに見開かれる。
そのとき、リュイセンが、すっと動いた。流れるような所作で、両手を揃えて脇にやりながら、腰を落として低く構える。
次の刹那。
彼の手元から、眩い銀光が生み出された。そのまま、音もなく一歩、前へと踏み込む。
「え……?」
光の軌跡が、きん、と高音を放った。
それが、凶弾を跳ね返した響きであることにアイリーが気づくまで、しばしの時間を要する。
「な……、銃弾を……」
近衛隊員たちは絶句した。
陽炎に惑わされ、幻を見たのかと疑いたくなるような御業に、腰を抜かしそうになる。
彼らの目を釘付けにしたものは、夏の陽射しを集め、凝縮したかのように煌めく、二振りの刀。ひとつの鞘から生まれ出た双子の刃が、賊の両の手に、ひとつずつ握られていた。
「『神速の双刀使い』……」
神技とでも呼ぶべき刀術を前に、近衛隊員たちは、鷹刀一族の若き次期総帥の異名を思い出す。
彼らは、賊から目を離せぬまま、ごくりと唾を呑んだ。
見るほどに常人離れした、黄金比の美貌。強く、美しく在ることを求め、同じ血を重ね続けたという、この国最強の凶賊――鷹刀一族。
まさに、漆黒の魔性だ。
本能的な恐怖が、近衛隊員たちの背中をぞくりと撫でた。
凶賊からしてみれば、近衛隊など、玩具箱で暮らす兵隊のようなもの。しかし、彼らとて武人の端くれだ。己の中の警鐘に従い、次々に拳銃を構え、引き金に指を掛ける。
賊の両手が、円を描くように風を薙いだ。
銀光の翼を得た狼が、舞うが如く。重力から解き放たれたような軽やかさで、女王に向かって疾る。
恐怖に支配された近衛隊員たちは、摂政に賊の『射殺』ではなく、『捕獲』を求められていることを忘れ、引き金に掛けた指を……。
そこに、野太い声が轟く。
「お、おい、あんた! いったい、何すんでぇっ……!?」
女王陛下から『拉致犯を疑われて、困っている護衛』を街まで連れて行ってほしいと頼まれた、『巨漢の民間人』が、血相を変えて賊を追いかけてきた。
女王直々に託された責任感からか、巨漢は賊を引き止めようと必死だった。太い腕をいっぱいに伸ばし、どたどたと巨体を揺らしながら、真後ろから付いてくる。
近衛隊員たちは、はっと顔色を変えた。
このまま引き金を引けば、疾風のような賊が、ひらりと身を躱したとき、その流れ弾は巨漢に当たる――!
彼らの指は、すんでのところで留まった。
絶妙に邪魔な軌道を描く巨漢は、この上なく迷惑な存在であるが、近衛隊が民間人を撃ち殺すわけにはいかない。
大事に至らなくて済んだと、ほっとしたのも束の間。近衛隊員たちの目前に、賊が迫る。
女王の腕を捕らえた隊員と、隣のもうひとりが、彼女を守るように後ろに下がった。残ったふたりが前面に出つつ、私服に隠した軍用ナイフを取り出す。
だが、ナイフと双刀の間合いの差は、歴然としている。しかも、相手は『神速の双刀使い』なのだ。天下の近衛隊員ともあろう者が、完全に腰が引けているのも無理はない。
蒼白な顔で、彼らは賊と対峙した。
風になびく短髪は、漆黒の狼を思わせるように艷やかで。その双眸は、抜身の双刀を宿したが如く怜悧。
賊は、刀と一体化したような両腕を胸の前で大きく交差させ、ぴたりと静止させた。
知れず、その動きを追っていた隊員たちの呼吸も、ぴたりと止まる。
そして――。
賊の腕が、再び動きを取り戻す。
前面にいた隊員たちの頬が旋風に叩かれ、瞳が銀の閃光に灼かれる。
力強く薙ぎ払う、右手の一の太刀。
鋭く斬り裂く、左手の二の太刀。
悲鳴すら上げることなく、ふたりの隊員は、綺麗に左右に分かれて転がされた。
「――!」
あっけなく倒された同僚の姿に、残された隊員たちは戦慄した。
ひとりが女王の腕を握ったまま更に下がり、ひとりが捨て身の覚悟で前に出て、銃を構える。
しかし、神速を誇る双刀使いは、銃口が火を吹くよりも速く、刀を一閃した。
鮮血が飛び散る。
鉄の匂いが立ち込め、近衛隊員の体が、どさりと音を立てて崩れ落ちる。
「ひぃっ」
最後の隊員は、女王を後ろに追いやりながら、足元に落ちてきた同僚を反射的に避けた。
「き、貴様……、こ、近衛隊に、こんなことをして、た、ただで済むと……!」
賊を睨みつけながら高圧的に吠えるが、歯の根が合わずに捲し立てても滑稽なだけである。
「リュイセン!?」
怖気づいた近衛隊員の拘束を振りほどき、アイリーがリュイセンへと駆け寄った。
そして、叫ぶ。
「どうして、『あなた』が『怪我をしている』の!?」
斬られたのは、近衛隊員のはずだ。
なのに、半袖のシャツから伸びた逞しい腕――綺麗に日焼けした肌の上を、生々しい傷跡が走っている。
何故、リュイセンが負傷したのかは分からない。けれど、武術に詳しくないアイリーにだって、理解できることはある。彼は、彼女のために無茶をしたのだ。
リュイセンは、すっと一歩、後ろに下がった。アイリーから充分に距離を取った位置で双刀を旋回させ、かちり、と鍔鳴りの音を立てて鞘に納める。
「陛下。俺は、陛下を守る近衛隊員を傷つけたりなどしない」
「え?」
「俺の刀は、彼らの肉体に一切、触れてない。斬られたと思い込ませて、意識を絶ったまでだ」
「えっ? ええっ!?」
衝撃の発言に、アイリーは、ひときわ高い音色を響かせた。驚愕のままに、倒れている近衛隊員たちへと瞳を巡らせれば、確かに外傷がない。
「本当だわ……。でも、そんなこと……」
「『脅かして、気絶させた』――と言えばいいか? 最後のひとりは、先のふたりが斬られていないことに気づかないように、俺の血を見せて、視覚的な衝撃を……」
リュイセンがそこまで言いかけたところで、アイリーが噛みつく。
「なんで、自分を傷つけるのよ!?」
「アイリーの……っと、陛下のために働く人間を傷つけるわけにはいかないだろう?」
いくら無作法であったとしても、近衛隊員は女王を守る臣下だ。『女王の雇った護衛』が、彼らに手を出すわけにはいかない。故に、リュイセンは、自分に許される行動の範囲内で、知恵を絞ったのである。
「けど、近衛隊の言動は不敬だ。陛下は『息抜きをしたい』という意思を明確に示した。帰着時間だって宣言した。なのに、臣下であるはずの彼らが、まるで耳を傾けず、頭ごなしに否定する。そんなの、おかしいだろう? ――陛下にだって、好きなことをする自由があっていいはずだ!」
「リュイセン……」
アイリーの瞳に、青灰色の漣が立つ。
「優しいにも、ほどがあるわ……!」
拗ねたように頬を膨らませながらも、天界の音色が涙で濁る。彼女は目元を押さえると、無理矢理に、ぐっと口角を上げた。
「ありがとう!」
ぽん、と。
幻の音色を奏でながら、白蓮華が咲きほころぶ。――リュイセンが見たかった笑顔だ。
それから、アイリーは、くるりと踵を返し、すっかり立場を失った、最後の近衛隊員に詰め寄った。
「私の捜索にあたっている、近衛隊員全員に通達して! ――私が王宮に戻るまで、詰め所での謹慎を命じます、って」
高らかに告げる女王に、近衛隊員は「陛下!?」と、戸惑いの叫びを上げる。
「愚かな近衛隊員たちが、無頼漢同士の抗争を装う、なんてことをするから、私はとても怖い思いをしたの。反省が必要でしょう!? これは、『女王』の命令よ!」
「し、しかし、陛下!」
「私は護衛を雇って、お忍びに出掛けただけよ。彼が護衛として、申し分のない技倆を持っていることは、あなたにもよく分かったでしょう? それから、人間的にも優れている、ってこともね! これ以上の問答は、見苦しいだけだわ。――それとも、私には人を見る目がないと、疑うつもりなの!?」
アイリーは、ぴしゃりと言ってのけ、指先の動きで、近衛隊員の目線をリュイセンへと促す。
さほど深くはないとはいえ、血の滴る傷跡が目に入った。
自らを傷つけるとは、狂気の沙汰だ。凶賊なら遠慮せず、近衛隊に斬りかかればよいものを――。
思わず不躾に相手の顔を凝視すれば、黄金比の美貌を持つ『神速の双刀使い』は、礼儀に適った会釈を返してきた。
「!」
格の違い。
そんな言葉が頭をよぎる。
後ろでは、巨漢の民間人が、居たたまれない様子で、おろおろと体を揺らしていた。どうしたらよいのかと、途方に暮れているらしい。
「……」
女王の言葉に従う以外の道はないと、近衛隊員は項垂れるように深々と頭を下げた。
八重歯の巨漢――こと、リュイセンの部下は、『なし崩しに『女王陛下』を愛車に乗せることになって、すっかり気が動転している民間人』の役柄を見事に演じきった。
リュイセンとアイリーが後部座席に乗ったあとも気を抜かず、「へ、陛下! シートベルトをお締めくださいぃっ!」などと、車外にいる近衛隊員にも聞こえるような、素っ頓狂な声を張り上げてくれた。
それから数分後。
「そろそろ、大丈夫っすね」
凶賊の顔に戻った部下が、運転席からバックミラーを確認しつつ、にやりと八重歯を見せる。
「すまない。お前のおかげで、すっかり上手くいった。ありがとう」
大柄な体を縮こめ、リュイセンは頭を下げた。実のところ、帯刀していた自分よりも、『民間人』として、丸腰でうろうろしていた部下のほうが、危険な役回りだったと思う。
「何を言ってんっすか。リュイセン様と嬢ちゃんのためなら、このくらい、朝飯前っすよ。――っと、女王陛下に対して、『嬢ちゃん』じゃあ、まずいっすかね?」
わはは、と笑いながら言うあたり、ちっとも、まずいと思っていないのは明らかである。
車内の緊張が解けていくのを感じ、『状況が落ち着くまでは』と、おとなしく待っていたアイリーは、「あ、あのっ!」と、力んだ音色を響かせた。
「ふたりとも、私のためにありがとう! ふたりに危険なことをさせてしまったのに、私……凄く、嬉しいの!」
青灰色の瞳を潤ませながら、満面の笑顔を浮かべる。
リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろした。
自分から『王宮に戻る』と言った彼女に、『それでも』とドライブを勧めるのは、押し付けがましい自己満足かもしれないと、一抹の不安があったのだ。
けれど、間違っていなかった。
徐々に口元が緩み、嬉しさがこみ上げる。
ふと気づけば、運転席の部下もまた、厳つい顔の目尻を下げていた。
「嬢ちゃん、あんた、本当にいい子だなぁ」
「でも、私は女王だということを隠していて……、嫌な感じがしたでしょう?」
綺羅の美貌が陰り、白金の眉が寄る。
「いや、まぁ、驚きはしたけどよぉ。けど、女王様の正体が、あの黒づくめだと聞かされたら、嫌な感じどころか、可笑しくってなぁ」
八重歯の隙間から漏れる、「ぷぷっ」という思い出し笑い。
アイリーは、ぷうっと頬を膨らませた。
「違うわ! 黒装束は、世を忍ぶ仮の姿よ! 私の真の姿は、今のほうなの!」
「ふゎっはっは。――はいはい、そうっす! 女王様!」
そして、車内は豪快な笑い声に包まれた。
あらかじめ打ち合わせておいた場所で、他の部下たちが待っていた。救護係が飛んできて、リュイセンの腕は手早く止血される。
「それじゃ、俺たちは野暮はいたしませんので」
「リュイセン様と嬢ちゃんは、ゆっくりドライブを楽しんできてくださいっす!」
激しく誤解されているような気がしないでもないが、リュイセンは、部下たちが用意してくれた車の運転席に乗り込む。
「アイリー」
助手席の扉を開けると、白蓮の花が、ぽんと咲きほころんだ。
耳をつんざくような発砲音に、アイリーは絶叫した。
彼のもとへと駆け寄ろうとするも、屈強な近衛隊員に腕を掴まれていては、振りほどくことは叶わない。
何故、こんなことに!?
澄んだ青灰色の瞳が、いっぱいに見開かれる。
そのとき、リュイセンが、すっと動いた。流れるような所作で、両手を揃えて脇にやりながら、腰を落として低く構える。
次の刹那。
彼の手元から、眩い銀光が生み出された。そのまま、音もなく一歩、前へと踏み込む。
「え……?」
光の軌跡が、きん、と高音を放った。
それが、凶弾を跳ね返した響きであることにアイリーが気づくまで、しばしの時間を要する。
「な……、銃弾を……」
近衛隊員たちは絶句した。
陽炎に惑わされ、幻を見たのかと疑いたくなるような御業に、腰を抜かしそうになる。
彼らの目を釘付けにしたものは、夏の陽射しを集め、凝縮したかのように煌めく、二振りの刀。ひとつの鞘から生まれ出た双子の刃が、賊の両の手に、ひとつずつ握られていた。
「『神速の双刀使い』……」
神技とでも呼ぶべき刀術を前に、近衛隊員たちは、鷹刀一族の若き次期総帥の異名を思い出す。
彼らは、賊から目を離せぬまま、ごくりと唾を呑んだ。
見るほどに常人離れした、黄金比の美貌。強く、美しく在ることを求め、同じ血を重ね続けたという、この国最強の凶賊――鷹刀一族。
まさに、漆黒の魔性だ。
本能的な恐怖が、近衛隊員たちの背中をぞくりと撫でた。
凶賊からしてみれば、近衛隊など、玩具箱で暮らす兵隊のようなもの。しかし、彼らとて武人の端くれだ。己の中の警鐘に従い、次々に拳銃を構え、引き金に指を掛ける。
賊の両手が、円を描くように風を薙いだ。
銀光の翼を得た狼が、舞うが如く。重力から解き放たれたような軽やかさで、女王に向かって疾る。
恐怖に支配された近衛隊員たちは、摂政に賊の『射殺』ではなく、『捕獲』を求められていることを忘れ、引き金に掛けた指を……。
そこに、野太い声が轟く。
「お、おい、あんた! いったい、何すんでぇっ……!?」
女王陛下から『拉致犯を疑われて、困っている護衛』を街まで連れて行ってほしいと頼まれた、『巨漢の民間人』が、血相を変えて賊を追いかけてきた。
女王直々に託された責任感からか、巨漢は賊を引き止めようと必死だった。太い腕をいっぱいに伸ばし、どたどたと巨体を揺らしながら、真後ろから付いてくる。
近衛隊員たちは、はっと顔色を変えた。
このまま引き金を引けば、疾風のような賊が、ひらりと身を躱したとき、その流れ弾は巨漢に当たる――!
彼らの指は、すんでのところで留まった。
絶妙に邪魔な軌道を描く巨漢は、この上なく迷惑な存在であるが、近衛隊が民間人を撃ち殺すわけにはいかない。
大事に至らなくて済んだと、ほっとしたのも束の間。近衛隊員たちの目前に、賊が迫る。
女王の腕を捕らえた隊員と、隣のもうひとりが、彼女を守るように後ろに下がった。残ったふたりが前面に出つつ、私服に隠した軍用ナイフを取り出す。
だが、ナイフと双刀の間合いの差は、歴然としている。しかも、相手は『神速の双刀使い』なのだ。天下の近衛隊員ともあろう者が、完全に腰が引けているのも無理はない。
蒼白な顔で、彼らは賊と対峙した。
風になびく短髪は、漆黒の狼を思わせるように艷やかで。その双眸は、抜身の双刀を宿したが如く怜悧。
賊は、刀と一体化したような両腕を胸の前で大きく交差させ、ぴたりと静止させた。
知れず、その動きを追っていた隊員たちの呼吸も、ぴたりと止まる。
そして――。
賊の腕が、再び動きを取り戻す。
前面にいた隊員たちの頬が旋風に叩かれ、瞳が銀の閃光に灼かれる。
力強く薙ぎ払う、右手の一の太刀。
鋭く斬り裂く、左手の二の太刀。
悲鳴すら上げることなく、ふたりの隊員は、綺麗に左右に分かれて転がされた。
「――!」
あっけなく倒された同僚の姿に、残された隊員たちは戦慄した。
ひとりが女王の腕を握ったまま更に下がり、ひとりが捨て身の覚悟で前に出て、銃を構える。
しかし、神速を誇る双刀使いは、銃口が火を吹くよりも速く、刀を一閃した。
鮮血が飛び散る。
鉄の匂いが立ち込め、近衛隊員の体が、どさりと音を立てて崩れ落ちる。
「ひぃっ」
最後の隊員は、女王を後ろに追いやりながら、足元に落ちてきた同僚を反射的に避けた。
「き、貴様……、こ、近衛隊に、こんなことをして、た、ただで済むと……!」
賊を睨みつけながら高圧的に吠えるが、歯の根が合わずに捲し立てても滑稽なだけである。
「リュイセン!?」
怖気づいた近衛隊員の拘束を振りほどき、アイリーがリュイセンへと駆け寄った。
そして、叫ぶ。
「どうして、『あなた』が『怪我をしている』の!?」
斬られたのは、近衛隊員のはずだ。
なのに、半袖のシャツから伸びた逞しい腕――綺麗に日焼けした肌の上を、生々しい傷跡が走っている。
何故、リュイセンが負傷したのかは分からない。けれど、武術に詳しくないアイリーにだって、理解できることはある。彼は、彼女のために無茶をしたのだ。
リュイセンは、すっと一歩、後ろに下がった。アイリーから充分に距離を取った位置で双刀を旋回させ、かちり、と鍔鳴りの音を立てて鞘に納める。
「陛下。俺は、陛下を守る近衛隊員を傷つけたりなどしない」
「え?」
「俺の刀は、彼らの肉体に一切、触れてない。斬られたと思い込ませて、意識を絶ったまでだ」
「えっ? ええっ!?」
衝撃の発言に、アイリーは、ひときわ高い音色を響かせた。驚愕のままに、倒れている近衛隊員たちへと瞳を巡らせれば、確かに外傷がない。
「本当だわ……。でも、そんなこと……」
「『脅かして、気絶させた』――と言えばいいか? 最後のひとりは、先のふたりが斬られていないことに気づかないように、俺の血を見せて、視覚的な衝撃を……」
リュイセンがそこまで言いかけたところで、アイリーが噛みつく。
「なんで、自分を傷つけるのよ!?」
「アイリーの……っと、陛下のために働く人間を傷つけるわけにはいかないだろう?」
いくら無作法であったとしても、近衛隊員は女王を守る臣下だ。『女王の雇った護衛』が、彼らに手を出すわけにはいかない。故に、リュイセンは、自分に許される行動の範囲内で、知恵を絞ったのである。
「けど、近衛隊の言動は不敬だ。陛下は『息抜きをしたい』という意思を明確に示した。帰着時間だって宣言した。なのに、臣下であるはずの彼らが、まるで耳を傾けず、頭ごなしに否定する。そんなの、おかしいだろう? ――陛下にだって、好きなことをする自由があっていいはずだ!」
「リュイセン……」
アイリーの瞳に、青灰色の漣が立つ。
「優しいにも、ほどがあるわ……!」
拗ねたように頬を膨らませながらも、天界の音色が涙で濁る。彼女は目元を押さえると、無理矢理に、ぐっと口角を上げた。
「ありがとう!」
ぽん、と。
幻の音色を奏でながら、白蓮華が咲きほころぶ。――リュイセンが見たかった笑顔だ。
それから、アイリーは、くるりと踵を返し、すっかり立場を失った、最後の近衛隊員に詰め寄った。
「私の捜索にあたっている、近衛隊員全員に通達して! ――私が王宮に戻るまで、詰め所での謹慎を命じます、って」
高らかに告げる女王に、近衛隊員は「陛下!?」と、戸惑いの叫びを上げる。
「愚かな近衛隊員たちが、無頼漢同士の抗争を装う、なんてことをするから、私はとても怖い思いをしたの。反省が必要でしょう!? これは、『女王』の命令よ!」
「し、しかし、陛下!」
「私は護衛を雇って、お忍びに出掛けただけよ。彼が護衛として、申し分のない技倆を持っていることは、あなたにもよく分かったでしょう? それから、人間的にも優れている、ってこともね! これ以上の問答は、見苦しいだけだわ。――それとも、私には人を見る目がないと、疑うつもりなの!?」
アイリーは、ぴしゃりと言ってのけ、指先の動きで、近衛隊員の目線をリュイセンへと促す。
さほど深くはないとはいえ、血の滴る傷跡が目に入った。
自らを傷つけるとは、狂気の沙汰だ。凶賊なら遠慮せず、近衛隊に斬りかかればよいものを――。
思わず不躾に相手の顔を凝視すれば、黄金比の美貌を持つ『神速の双刀使い』は、礼儀に適った会釈を返してきた。
「!」
格の違い。
そんな言葉が頭をよぎる。
後ろでは、巨漢の民間人が、居たたまれない様子で、おろおろと体を揺らしていた。どうしたらよいのかと、途方に暮れているらしい。
「……」
女王の言葉に従う以外の道はないと、近衛隊員は項垂れるように深々と頭を下げた。
八重歯の巨漢――こと、リュイセンの部下は、『なし崩しに『女王陛下』を愛車に乗せることになって、すっかり気が動転している民間人』の役柄を見事に演じきった。
リュイセンとアイリーが後部座席に乗ったあとも気を抜かず、「へ、陛下! シートベルトをお締めくださいぃっ!」などと、車外にいる近衛隊員にも聞こえるような、素っ頓狂な声を張り上げてくれた。
それから数分後。
「そろそろ、大丈夫っすね」
凶賊の顔に戻った部下が、運転席からバックミラーを確認しつつ、にやりと八重歯を見せる。
「すまない。お前のおかげで、すっかり上手くいった。ありがとう」
大柄な体を縮こめ、リュイセンは頭を下げた。実のところ、帯刀していた自分よりも、『民間人』として、丸腰でうろうろしていた部下のほうが、危険な役回りだったと思う。
「何を言ってんっすか。リュイセン様と嬢ちゃんのためなら、このくらい、朝飯前っすよ。――っと、女王陛下に対して、『嬢ちゃん』じゃあ、まずいっすかね?」
わはは、と笑いながら言うあたり、ちっとも、まずいと思っていないのは明らかである。
車内の緊張が解けていくのを感じ、『状況が落ち着くまでは』と、おとなしく待っていたアイリーは、「あ、あのっ!」と、力んだ音色を響かせた。
「ふたりとも、私のためにありがとう! ふたりに危険なことをさせてしまったのに、私……凄く、嬉しいの!」
青灰色の瞳を潤ませながら、満面の笑顔を浮かべる。
リュイセンは、ほっと胸を撫で下ろした。
自分から『王宮に戻る』と言った彼女に、『それでも』とドライブを勧めるのは、押し付けがましい自己満足かもしれないと、一抹の不安があったのだ。
けれど、間違っていなかった。
徐々に口元が緩み、嬉しさがこみ上げる。
ふと気づけば、運転席の部下もまた、厳つい顔の目尻を下げていた。
「嬢ちゃん、あんた、本当にいい子だなぁ」
「でも、私は女王だということを隠していて……、嫌な感じがしたでしょう?」
綺羅の美貌が陰り、白金の眉が寄る。
「いや、まぁ、驚きはしたけどよぉ。けど、女王様の正体が、あの黒づくめだと聞かされたら、嫌な感じどころか、可笑しくってなぁ」
八重歯の隙間から漏れる、「ぷぷっ」という思い出し笑い。
アイリーは、ぷうっと頬を膨らませた。
「違うわ! 黒装束は、世を忍ぶ仮の姿よ! 私の真の姿は、今のほうなの!」
「ふゎっはっは。――はいはい、そうっす! 女王様!」
そして、車内は豪快な笑い声に包まれた。
あらかじめ打ち合わせておいた場所で、他の部下たちが待っていた。救護係が飛んできて、リュイセンの腕は手早く止血される。
「それじゃ、俺たちは野暮はいたしませんので」
「リュイセン様と嬢ちゃんは、ゆっくりドライブを楽しんできてくださいっす!」
激しく誤解されているような気がしないでもないが、リュイセンは、部下たちが用意してくれた車の運転席に乗り込む。
「アイリー」
助手席の扉を開けると、白蓮の花が、ぽんと咲きほころんだ。