残酷な描写あり
7.白金に輝く漣に-1
人造湖のある山の麓まで辿り着くと、ここが王都の一部であることを忘れてしまいそうな、濃い緑の世界が広がった。
リュイセンは、ふと思いつき、少しだけ車窓を開ける。
薄い隙間を通り抜け、夏の熱気が、するりと流れ込んだ。同時に、ほのかな山の香りが車内に漂う。いたずらな風が舞い踊り、リュイセンの隣で、白金の髪をふわりと跳ね上げた。
「うわぁぁ」
アイリーが無邪気な歓声を上げ、深呼吸をする。
「不思議ね。心が浮き立ってくるわ!」
弾んだ音色は、緑豊かなこの地に捧げる讃歌のよう。
彼女は青灰色の瞳を輝かせ、あちらこちらに忙しなく視線を巡らせる。白い頬を紅潮させた横顔に、リュイセンの口元が緩んだ。
ここに来るまで、アイリーといろいろな話をした。
初めは、彼女がリュイセンの刀技について尋ねてきた。近衛隊員を黙らせた神業について、矢継ぎ早に質問してきたのだ。
そこから、積み重ねてきた鍛錬のことを訊かれ、子供時代の話に移り、兄や義姉といったアイリーも知っている名前が出てきて盛り上がり、気づけば、屋敷の裏庭にある蓮池の花と、早起きを競っている……などという、他愛のない話をしていた。
口下手なリュイセンは、知り合ったばかりの相手との雑談は苦手である。拙い語り口調である上に、相手の興味を引く話題を提供できないからだ。専ら聞く側となって、相槌で遣り過ごすのが常である。
けれど、アイリーの聞き方が巧いのか、自分でも意外なほどに、するすると言葉が口を衝いて出た。彼が、ひとこと発するたびに変わっていく、彼女の表情のせいかもしれない。
人懐っこい彼女のこと、彼だけを話し手にするのではなく、自分のことも語ってくれた。
今、彼女が着ている、母作のお気に入りのワンピースについて熱弁を振るったかと思えば、製作者のことも大好きと嬉しそうに告げ、自分は生まれて間もなく母親を亡くしたからリュイセンが羨ましいと少し拗ねる。
とはいえ、アイリーと同じく『〈神の御子〉の女性』であったヤンイェンの母親が、親身になって可愛がってくれたのだと微笑んだ。ただ、伯母に当たるその人は、だいぶ不幸な運命を辿ったらしく、アイリーが女王という輝かしい地位にありながら時折り諦めたような翳りを見せるのは、この女性に拠るところが大きいように感じられた。
弱視であることが世間に知られないよう、学校には行かせてもらえず、『帝王学のため』という建前で家庭教師がついているというのも、彼女から漂う孤独の一因かもしれない。
リュイセンとアイリーの間には、さして共通の話題はない。
だから、ふたりきりの車内では、会話が途切れがちになるか、屋敷で話し尽くしたはずの『ライシェン』のことや、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを蒸し返すことになるのだと思っていた。
それが、まるで違った。
なんでもないことを話していただけ。
けれど、彼女との時間は心地よかった。
そんな雑談の中から、彼女はきっと、閉め切った車内よりも、少しくらい暑くとも、風の流れと土の匂いを感じるほうが好きだろうと思った。
あまり目の良くない彼女は、見えるものだけに頼らない。体中のすべてで、そして、心で感じ取るから……。
「リュイセン!」
風と戯れていたアイリーが、こちらを振り向いた。
「ありがとう!」
天真爛漫な笑顔で、彼女が傍に寄ってくる。
シートベルトを伸ばしきって近づいてくる距離感にも、すっかり慣れた。武人のリュイセンとしては、間合いを詰められるのは落ち着かないものだが、アイリーだから仕方ないのである。
不意に、白金の眉が、ぐぐっと寄った。
「どうした?」
「私も、運転ができればよかったのに。そしたら、リュイセンと替われたわ」
アイリーは拗ねたように唇を尖らせる。まるきり子供の表情であるが、それは気遣いの心ゆえだ。
気にする必要はない、と言おうとして、ある考えが閃く。リュイセンは片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手でポケットから携帯端末を取り出した。
「ロック解除のパスワードを教えるから、それで道案内をしてくれ」
「え?」
「このあと、人造湖に行って浮き橋を渡ろうかと思っていたんだけど、あそこは湖のど真ん中に架けられた橋だから、日よけがないんだ。だから、もっと山を上って、浮き橋を上から見下ろせる絶景ポイントに行こう」
「あ……。私が先天性白皮症だから……」
「それもあるけど、純粋に俺だって暑いよ。よく考えたら、前に来たときは紅葉狩りが目的で、秋だったんだ」
顔を曇らせるアイリーに、リュイセンは柔らかな笑みを浮かべる。
彼女の肌は、確かに心配だ。けれど、そればかりではないのだと、もっと気安くしてよいのだと――気持ちが伝わるようにと、リュイセンは願う。
「山の上のほうに滝がある。そこ自体、なかなかの絶景だし、人造湖も見下ろせる。――前回は体力自慢の奴らばかりだったから、徒歩で山道を登ったけど、今日はアイリーとのドライブだ。滝の近くの駐車場まで、車道を行きたい。だから、道案内よろしく」
アイリーの顔が、ぱっと輝く。
「分かったわ! 任せて!」
「頼んだぞ」
リュイセンは、ぐっと口角を上げ、端末のパスワードを告げた。
浮き橋は暑そうだから、行き先を変更しようと思っていたのは真実であるし、滝までの経路は徒歩の道しか知らないのも本当。だから、もう少し先に行ったら車を停めて、自分で調べようと思っていた。
けれど、隣にいる彼女を頼ればよいのだと気づいたのだ。
アイリーは、嬉しそうに端末に指を走らせ……、しかし、すぐに動きを止めた。そのときになって初めて、リュイセンは、彼女が『女王様』であることを思い出した。
「すまん。お前、道案内なんてしたことないよな?」
「そ、それは……ないけど。でも、端末の道案内機能の使い方なら分かるわ。セレイエに教えてもらったもの」
お付きの侍女ではなくて、セレイエというあたり、王女時代のお忍びで覚えたのだろう。
「ええと、だからね。わざわざリュイセンの端末を借りなくても、私が自分の端末を使えばいいんじゃないかと思って……」
そこまで言って、彼女は「ああっ!」と、突き抜けるような高音を上げた。
「私の端末で位置情報を使ったら、お兄様に居場所がバレちゃうんだったわ! だから、リュイセンは、自分の端末を貸してくれたのね!」
「! ――あ、いや……」
リュイセンこそ、アイリーに言われて初めて、彼女の端末を使うわけにはいかないことに気づいた。彼としては、単に、自分の代わりに地図を見てもらおうと思ったから、自分の端末を貸したまでである。
アイリーの尊敬の眼差しに居たたまれなくなり、生真面目なリュイセンは正直な事情を告白する。彼女は「あ、そうだったの」と、さらっと流してくれたが、彼としては面目ない。
摂政に位置情報が漏れていたからこその近衛隊の襲撃だったのに、まったく喉元すぎれば……である。情報の専門家であるルイフォンに知られたら、大笑いされそうだ。
赤面を隠すように正面に向き直りつつ、リュイセンは内心で、がっくりと落ち込んだ。
毎度のことかもしれないが、聡明さに欠ける自分に嫌気がさす。ほんの少しでいいから、彼の賢さを分けてもらえたら……と、情報屋〈猫〉の名を持つ弟分の顔を脳裏に浮かべ、そして、思いつく。
「俺の端末は、そのままお前にやる」
「えっ!? どういうこと?」
「お前の端末からの通信は、摂政に傍受される可能性がある。だから、俺と連絡を取るときは、自分の端末じゃなくて、俺の端末を使ってほしい」
ルイフォンによれば、自分の支配下にある電子機器の通信記録は、調べようと思えば簡単に調べられるらしい。だから、摂政の部下に弟分と同じような技能を持った人間がいれば、アイリーの端末からの通信は垂れ流しの状態になるはずだ。
そんな説明をすると、アイリーから感嘆の声が上がった。
「ええっ!? 知らなかったわ! リュイセン、凄い!」
「……ルイフォンの受け売りだけどな」
諸手を挙げて褒められると、ルイフォンの知識を分けてもらっただけのリュイセンとしては、やはり決まりが悪かった……。
「でも、リュイセンは、端末がなくなっちゃったら困るんじゃない?」
「新しいものを買うから問題ない。――ああ、新しい端末の連絡先は、俺のほうからアイリーの手元の端末に送るよ」
「分かったわ」
アイリーは明るい音色を響かせて、改めて端末を繰り始めた。検索のために、ぶつぶつと人造湖の名前を唱える声を聞きながら、リュイセンは運転を続ける。
「……」
気軽に『新しいものを買う』と言ったものの、鷹刀一族内で使っている暗号化通信関係の難しい設定はルイフォンに頼むことになる。……自分で対処できないのは、ちょっと情けない。
弟分なら『それは〈猫〉の仕事だろ?』と笑い飛ばすだろうが、彼の作業を増やすのは心苦しいし、そういう問題ではなくて、物ごと全般に自分は不器用で、どうにも冴えない気がする。粋でないのだ。
負の連鎖に陥りかけたリュイセンは、ちらりと横目でアイリーの様子を見やる。こんな自分の隣で、彼女は憧れの『ドライブ』を楽しめているだろうかと、不安になったのだ。
アイリーは無事に地図を出せたようで、現在地の近くを拡大していた。リュイセンの視線を感じたのか、こちらを振り向き、嬉しそうに笑う。
「リュイセンの端末って、凄くリュイセンぽいわ!」
「は?」
「ほら、端末の画面の配置とか、持ち主の性格が出るじゃない? ……えへへ。リュイセンの端末、貰っちゃった」
無邪気な子供の口調で言いながら、無垢な頬をほんのり染める。彼女は、まるで宝物でも貰ったかのように、リュイセンの性格が出ているという端末を大切そうに抱きしめた。
アイリーの道案内は決して上手いものではなかったが、人造湖の付近一帯は、隠れた名勝といわれるだけあって、各所に親切な道標が立っていた。そのお陰で、リュイセンの運転する車は、迷うことなく目的の駐車場に辿り着いた。
停車とともに、アイリーは素早く、黒いパーカーとサングラス、そしてフェイスカバーを身に着けた。車を降りるために必要なことであるが、リュイセンの胸が、ちくりと痛む。
駐車場には、リュイセンたちの他に、車が三台。神経を研ぎ澄ませれば、この先の散策路に複数の人間の気配が感じられた。
「アイリー、整備されていない道を歩いてもいいか?」
「えっ!?」
「前に来たとき、好奇心旺盛な奴らと探索して、この奥にもうひとつ、小さな滝があるのを見つけたんだ。散策路の途中で獣道に入るから足元は悪いんだけど、まさに『ふたりきりになれる、穴場の絶景スポット』だと思う。奥に行くと、人造湖や浮き橋を見ることはできないんだが……」
「そっちの滝に、行ってみたいわ!」
即答するアイリーに、リュイセンは「決まりだな」と微笑み、ふたりは車を降りた。
なお、これは後日談であるが――。
リュイセンは、摂政による鷹刀一族の監視の目に警戒しつつ、草薙家にいるルイフォンを密かに訪れた。新しい携帯端末をの設定を頼むためである。
弟分は猫の目を細く眇め、深い溜め息をついた。
「……お前。自分が鷹刀の次期総帥だという自覚が足りねぇよ」
「どういう意味だよ」
開口一番の台詞に、さすがのリュイセンも秀眉をひそめる。
「摂政に位置情報が漏れていることから、『女王の端末での通信は危険』という考えに至ったまでは偉いと思う。――けどな!」
そこで、ルイフォンは、かっと目を見開き、高圧的に顎を上げた。その反動で、一本に編まれた髪が跳ね上がり、毛先を留める金の鈴が、ぎらりと光る。
「お前の端末は、情報の宝庫なんだよ! 登録されている連絡先を見ただけで、鷹刀が何処と取り引きしているかがバレバレだろ! その上、鷹刀一族次期総帥の端末は鷹刀一族総帥への直通電話になり得るんだぞ!」
「……あ」
「女王が悪い奴じゃねぇ、ってのは、俺も承知している。けど、摂政が『妹が見慣れない端末を持っている』と気づいて、取り上げでもしたらどうするんだよ!」
「すまん……」
「新しく端末を買うなら、お前のじゃなくて、女王に渡す分を買えばよかったんだよ! 時間がないなら、あとで、ユイランを通して届けるという手もあった」
「……」
凄まじい剣幕で噛みついてくる弟分に、リュイセンは返す言葉もなく、ただただ長身を縮こめる。
「ともかく。女王の持っている端末は、遠隔操作で、俺が工場出荷状態に戻す。女王には、改めて別の端末をユイランから渡してもらう」
「待ってくれ! その……、アイリーは、俺の端末が、俺っぽいって喜んでいたんだ。だから、初期状態に戻すのは……」
「はぁ? 何を言ってんだよ!?」
尻つぼみの低音は、鋭いテノールに打ち消される。
「いいか? 俺の端末は、俺以外の奴が触ったら、即座に無効化するように細工してある。携帯端末っていうものは、そのくらいヤバいものなんだ。――それを逢ったばかりの他人に渡すなんて、あり得ねぇんだよ!」
ルイフォンは猫背を返上したかのように、ぐっと胸を反らし、自分より大柄な兄貴分を睨みつけた。
しかし、彼は忘れているだけなのである。
メイシアと出逢った翌日、貧民街でタオロンと〈蝿〉に襲われたとき、自分の携帯端末をメイシアにも使えるようにしたことを。
一方、彼の最愛のメイシアは、当然のことのように、きちんと覚えていた。ちょうどよいタイミングで、お茶を差し入れにきた彼女は、遠慮がちにそのことを指摘する。――「あのときのルイフォンは頼もしかった」と、嬉しそうに頬を染めながら。
ルイフォンは、はっと顔色を変えて狼狽えた。
「――っ! だ、だから、俺の端末は、他の奴が触ったら、ぶっ壊れちまうわけで。つまり、メイシアの手から誰かに奪われたとしても、問題なかったわけだから……」
「ルイフォンが大切なものを預けてくれたのが、とても嬉しかったの」
きらきらとした黒曜石の瞳に見つめられ、ルイフォンは押し黙った。
結局――。
アイリーの手元の端末は、リュイセンが使っていたときの状態を保ちつつ、外部に漏れたらまずい情報だけをルイフォンが遠隔から削除した。
〈猫〉といえど、それなりに面倒くさい作業だったようだが、ルイフォンは文句を言わなかったという。
リュイセンは、ふと思いつき、少しだけ車窓を開ける。
薄い隙間を通り抜け、夏の熱気が、するりと流れ込んだ。同時に、ほのかな山の香りが車内に漂う。いたずらな風が舞い踊り、リュイセンの隣で、白金の髪をふわりと跳ね上げた。
「うわぁぁ」
アイリーが無邪気な歓声を上げ、深呼吸をする。
「不思議ね。心が浮き立ってくるわ!」
弾んだ音色は、緑豊かなこの地に捧げる讃歌のよう。
彼女は青灰色の瞳を輝かせ、あちらこちらに忙しなく視線を巡らせる。白い頬を紅潮させた横顔に、リュイセンの口元が緩んだ。
ここに来るまで、アイリーといろいろな話をした。
初めは、彼女がリュイセンの刀技について尋ねてきた。近衛隊員を黙らせた神業について、矢継ぎ早に質問してきたのだ。
そこから、積み重ねてきた鍛錬のことを訊かれ、子供時代の話に移り、兄や義姉といったアイリーも知っている名前が出てきて盛り上がり、気づけば、屋敷の裏庭にある蓮池の花と、早起きを競っている……などという、他愛のない話をしていた。
口下手なリュイセンは、知り合ったばかりの相手との雑談は苦手である。拙い語り口調である上に、相手の興味を引く話題を提供できないからだ。専ら聞く側となって、相槌で遣り過ごすのが常である。
けれど、アイリーの聞き方が巧いのか、自分でも意外なほどに、するすると言葉が口を衝いて出た。彼が、ひとこと発するたびに変わっていく、彼女の表情のせいかもしれない。
人懐っこい彼女のこと、彼だけを話し手にするのではなく、自分のことも語ってくれた。
今、彼女が着ている、母作のお気に入りのワンピースについて熱弁を振るったかと思えば、製作者のことも大好きと嬉しそうに告げ、自分は生まれて間もなく母親を亡くしたからリュイセンが羨ましいと少し拗ねる。
とはいえ、アイリーと同じく『〈神の御子〉の女性』であったヤンイェンの母親が、親身になって可愛がってくれたのだと微笑んだ。ただ、伯母に当たるその人は、だいぶ不幸な運命を辿ったらしく、アイリーが女王という輝かしい地位にありながら時折り諦めたような翳りを見せるのは、この女性に拠るところが大きいように感じられた。
弱視であることが世間に知られないよう、学校には行かせてもらえず、『帝王学のため』という建前で家庭教師がついているというのも、彼女から漂う孤独の一因かもしれない。
リュイセンとアイリーの間には、さして共通の話題はない。
だから、ふたりきりの車内では、会話が途切れがちになるか、屋敷で話し尽くしたはずの『ライシェン』のことや、『デヴァイン・シンフォニア計画』のことを蒸し返すことになるのだと思っていた。
それが、まるで違った。
なんでもないことを話していただけ。
けれど、彼女との時間は心地よかった。
そんな雑談の中から、彼女はきっと、閉め切った車内よりも、少しくらい暑くとも、風の流れと土の匂いを感じるほうが好きだろうと思った。
あまり目の良くない彼女は、見えるものだけに頼らない。体中のすべてで、そして、心で感じ取るから……。
「リュイセン!」
風と戯れていたアイリーが、こちらを振り向いた。
「ありがとう!」
天真爛漫な笑顔で、彼女が傍に寄ってくる。
シートベルトを伸ばしきって近づいてくる距離感にも、すっかり慣れた。武人のリュイセンとしては、間合いを詰められるのは落ち着かないものだが、アイリーだから仕方ないのである。
不意に、白金の眉が、ぐぐっと寄った。
「どうした?」
「私も、運転ができればよかったのに。そしたら、リュイセンと替われたわ」
アイリーは拗ねたように唇を尖らせる。まるきり子供の表情であるが、それは気遣いの心ゆえだ。
気にする必要はない、と言おうとして、ある考えが閃く。リュイセンは片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手でポケットから携帯端末を取り出した。
「ロック解除のパスワードを教えるから、それで道案内をしてくれ」
「え?」
「このあと、人造湖に行って浮き橋を渡ろうかと思っていたんだけど、あそこは湖のど真ん中に架けられた橋だから、日よけがないんだ。だから、もっと山を上って、浮き橋を上から見下ろせる絶景ポイントに行こう」
「あ……。私が先天性白皮症だから……」
「それもあるけど、純粋に俺だって暑いよ。よく考えたら、前に来たときは紅葉狩りが目的で、秋だったんだ」
顔を曇らせるアイリーに、リュイセンは柔らかな笑みを浮かべる。
彼女の肌は、確かに心配だ。けれど、そればかりではないのだと、もっと気安くしてよいのだと――気持ちが伝わるようにと、リュイセンは願う。
「山の上のほうに滝がある。そこ自体、なかなかの絶景だし、人造湖も見下ろせる。――前回は体力自慢の奴らばかりだったから、徒歩で山道を登ったけど、今日はアイリーとのドライブだ。滝の近くの駐車場まで、車道を行きたい。だから、道案内よろしく」
アイリーの顔が、ぱっと輝く。
「分かったわ! 任せて!」
「頼んだぞ」
リュイセンは、ぐっと口角を上げ、端末のパスワードを告げた。
浮き橋は暑そうだから、行き先を変更しようと思っていたのは真実であるし、滝までの経路は徒歩の道しか知らないのも本当。だから、もう少し先に行ったら車を停めて、自分で調べようと思っていた。
けれど、隣にいる彼女を頼ればよいのだと気づいたのだ。
アイリーは、嬉しそうに端末に指を走らせ……、しかし、すぐに動きを止めた。そのときになって初めて、リュイセンは、彼女が『女王様』であることを思い出した。
「すまん。お前、道案内なんてしたことないよな?」
「そ、それは……ないけど。でも、端末の道案内機能の使い方なら分かるわ。セレイエに教えてもらったもの」
お付きの侍女ではなくて、セレイエというあたり、王女時代のお忍びで覚えたのだろう。
「ええと、だからね。わざわざリュイセンの端末を借りなくても、私が自分の端末を使えばいいんじゃないかと思って……」
そこまで言って、彼女は「ああっ!」と、突き抜けるような高音を上げた。
「私の端末で位置情報を使ったら、お兄様に居場所がバレちゃうんだったわ! だから、リュイセンは、自分の端末を貸してくれたのね!」
「! ――あ、いや……」
リュイセンこそ、アイリーに言われて初めて、彼女の端末を使うわけにはいかないことに気づいた。彼としては、単に、自分の代わりに地図を見てもらおうと思ったから、自分の端末を貸したまでである。
アイリーの尊敬の眼差しに居たたまれなくなり、生真面目なリュイセンは正直な事情を告白する。彼女は「あ、そうだったの」と、さらっと流してくれたが、彼としては面目ない。
摂政に位置情報が漏れていたからこその近衛隊の襲撃だったのに、まったく喉元すぎれば……である。情報の専門家であるルイフォンに知られたら、大笑いされそうだ。
赤面を隠すように正面に向き直りつつ、リュイセンは内心で、がっくりと落ち込んだ。
毎度のことかもしれないが、聡明さに欠ける自分に嫌気がさす。ほんの少しでいいから、彼の賢さを分けてもらえたら……と、情報屋〈猫〉の名を持つ弟分の顔を脳裏に浮かべ、そして、思いつく。
「俺の端末は、そのままお前にやる」
「えっ!? どういうこと?」
「お前の端末からの通信は、摂政に傍受される可能性がある。だから、俺と連絡を取るときは、自分の端末じゃなくて、俺の端末を使ってほしい」
ルイフォンによれば、自分の支配下にある電子機器の通信記録は、調べようと思えば簡単に調べられるらしい。だから、摂政の部下に弟分と同じような技能を持った人間がいれば、アイリーの端末からの通信は垂れ流しの状態になるはずだ。
そんな説明をすると、アイリーから感嘆の声が上がった。
「ええっ!? 知らなかったわ! リュイセン、凄い!」
「……ルイフォンの受け売りだけどな」
諸手を挙げて褒められると、ルイフォンの知識を分けてもらっただけのリュイセンとしては、やはり決まりが悪かった……。
「でも、リュイセンは、端末がなくなっちゃったら困るんじゃない?」
「新しいものを買うから問題ない。――ああ、新しい端末の連絡先は、俺のほうからアイリーの手元の端末に送るよ」
「分かったわ」
アイリーは明るい音色を響かせて、改めて端末を繰り始めた。検索のために、ぶつぶつと人造湖の名前を唱える声を聞きながら、リュイセンは運転を続ける。
「……」
気軽に『新しいものを買う』と言ったものの、鷹刀一族内で使っている暗号化通信関係の難しい設定はルイフォンに頼むことになる。……自分で対処できないのは、ちょっと情けない。
弟分なら『それは〈猫〉の仕事だろ?』と笑い飛ばすだろうが、彼の作業を増やすのは心苦しいし、そういう問題ではなくて、物ごと全般に自分は不器用で、どうにも冴えない気がする。粋でないのだ。
負の連鎖に陥りかけたリュイセンは、ちらりと横目でアイリーの様子を見やる。こんな自分の隣で、彼女は憧れの『ドライブ』を楽しめているだろうかと、不安になったのだ。
アイリーは無事に地図を出せたようで、現在地の近くを拡大していた。リュイセンの視線を感じたのか、こちらを振り向き、嬉しそうに笑う。
「リュイセンの端末って、凄くリュイセンぽいわ!」
「は?」
「ほら、端末の画面の配置とか、持ち主の性格が出るじゃない? ……えへへ。リュイセンの端末、貰っちゃった」
無邪気な子供の口調で言いながら、無垢な頬をほんのり染める。彼女は、まるで宝物でも貰ったかのように、リュイセンの性格が出ているという端末を大切そうに抱きしめた。
アイリーの道案内は決して上手いものではなかったが、人造湖の付近一帯は、隠れた名勝といわれるだけあって、各所に親切な道標が立っていた。そのお陰で、リュイセンの運転する車は、迷うことなく目的の駐車場に辿り着いた。
停車とともに、アイリーは素早く、黒いパーカーとサングラス、そしてフェイスカバーを身に着けた。車を降りるために必要なことであるが、リュイセンの胸が、ちくりと痛む。
駐車場には、リュイセンたちの他に、車が三台。神経を研ぎ澄ませれば、この先の散策路に複数の人間の気配が感じられた。
「アイリー、整備されていない道を歩いてもいいか?」
「えっ!?」
「前に来たとき、好奇心旺盛な奴らと探索して、この奥にもうひとつ、小さな滝があるのを見つけたんだ。散策路の途中で獣道に入るから足元は悪いんだけど、まさに『ふたりきりになれる、穴場の絶景スポット』だと思う。奥に行くと、人造湖や浮き橋を見ることはできないんだが……」
「そっちの滝に、行ってみたいわ!」
即答するアイリーに、リュイセンは「決まりだな」と微笑み、ふたりは車を降りた。
なお、これは後日談であるが――。
リュイセンは、摂政による鷹刀一族の監視の目に警戒しつつ、草薙家にいるルイフォンを密かに訪れた。新しい携帯端末をの設定を頼むためである。
弟分は猫の目を細く眇め、深い溜め息をついた。
「……お前。自分が鷹刀の次期総帥だという自覚が足りねぇよ」
「どういう意味だよ」
開口一番の台詞に、さすがのリュイセンも秀眉をひそめる。
「摂政に位置情報が漏れていることから、『女王の端末での通信は危険』という考えに至ったまでは偉いと思う。――けどな!」
そこで、ルイフォンは、かっと目を見開き、高圧的に顎を上げた。その反動で、一本に編まれた髪が跳ね上がり、毛先を留める金の鈴が、ぎらりと光る。
「お前の端末は、情報の宝庫なんだよ! 登録されている連絡先を見ただけで、鷹刀が何処と取り引きしているかがバレバレだろ! その上、鷹刀一族次期総帥の端末は鷹刀一族総帥への直通電話になり得るんだぞ!」
「……あ」
「女王が悪い奴じゃねぇ、ってのは、俺も承知している。けど、摂政が『妹が見慣れない端末を持っている』と気づいて、取り上げでもしたらどうするんだよ!」
「すまん……」
「新しく端末を買うなら、お前のじゃなくて、女王に渡す分を買えばよかったんだよ! 時間がないなら、あとで、ユイランを通して届けるという手もあった」
「……」
凄まじい剣幕で噛みついてくる弟分に、リュイセンは返す言葉もなく、ただただ長身を縮こめる。
「ともかく。女王の持っている端末は、遠隔操作で、俺が工場出荷状態に戻す。女王には、改めて別の端末をユイランから渡してもらう」
「待ってくれ! その……、アイリーは、俺の端末が、俺っぽいって喜んでいたんだ。だから、初期状態に戻すのは……」
「はぁ? 何を言ってんだよ!?」
尻つぼみの低音は、鋭いテノールに打ち消される。
「いいか? 俺の端末は、俺以外の奴が触ったら、即座に無効化するように細工してある。携帯端末っていうものは、そのくらいヤバいものなんだ。――それを逢ったばかりの他人に渡すなんて、あり得ねぇんだよ!」
ルイフォンは猫背を返上したかのように、ぐっと胸を反らし、自分より大柄な兄貴分を睨みつけた。
しかし、彼は忘れているだけなのである。
メイシアと出逢った翌日、貧民街でタオロンと〈蝿〉に襲われたとき、自分の携帯端末をメイシアにも使えるようにしたことを。
一方、彼の最愛のメイシアは、当然のことのように、きちんと覚えていた。ちょうどよいタイミングで、お茶を差し入れにきた彼女は、遠慮がちにそのことを指摘する。――「あのときのルイフォンは頼もしかった」と、嬉しそうに頬を染めながら。
ルイフォンは、はっと顔色を変えて狼狽えた。
「――っ! だ、だから、俺の端末は、他の奴が触ったら、ぶっ壊れちまうわけで。つまり、メイシアの手から誰かに奪われたとしても、問題なかったわけだから……」
「ルイフォンが大切なものを預けてくれたのが、とても嬉しかったの」
きらきらとした黒曜石の瞳に見つめられ、ルイフォンは押し黙った。
結局――。
アイリーの手元の端末は、リュイセンが使っていたときの状態を保ちつつ、外部に漏れたらまずい情報だけをルイフォンが遠隔から削除した。
〈猫〉といえど、それなりに面倒くさい作業だったようだが、ルイフォンは文句を言わなかったという。