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作者: 月ノ瀬 静流
残酷な描写あり
7.白金に輝く漣に-2
 駐車場で車を降り、散策路の途中で獣道に入った。脇道にれたときには、充分に周囲まわりに注意したから、誰にも見られていないはずだ。

 生い茂った木々に遮られ、リュイセンとアイリーの姿が隠される。人の気配が遠のき、代わりに緑のざわめきが五感を満たす。

 広い世界の、ほんの一欠片ひとかけらかもしれない。けれど、目的地である小さな滝までの空間は、外界から隔たれた、ふたりだけのものとなった。

「ここは他人ひとはいねぇし、日影だ。もし、紫外線が気にならなければ、楽な格好になっていいぞ」

 リュイセンがそう言うと、アイリーは早速、サングラスとフェイスカバーを外し、パーカーのフードを跳ねのけた。それから、青灰色の瞳を輝かせ、感嘆の声を漏らす。

「素敵! 自然の中に、解けていくみたい!」

 雑木林の中に入っただけだ。だが、高貴な身の彼女には、初めて見る光景だったのだろう。

 リュイセンは嬉しそうな彼女の声に心を踊らせ、……同時に、自分の至らなさを激しく後悔していた。

 神殿から、こっそり抜け出してきただけのアイリーの靴は、獣道を抜けるには、まったくもって不向きなものであった。言わずもがな、お気に入りのワンピースなど、山歩きに着てくるものではない。

 どうして、こうも自分は、なってないのだろう?

 リュイセンは、内心で頭を抱える。

 彼はただ、彼女を喜ばせたかっただけだ。人目のあるところでは、彼女は黒装束を手放せない。だから、誰もいないところに連れて行ってあげたかった。しかし、人が立ち入らない場所には、立ち入らないだけの理由があるわけで……。

「すまん。歩きにくいだろう?」

「え? ――えっと、……リュイセンが私を置いて、すたすたと先に行かなければ平気よ!」

 アイリーは小柄な自分を誇示するように爪先立ちになり、いたずらな眼差しでリュイセンに笑いかける。歩幅コンパスの違う彼が、屋敷の廊下で彼女を置き去りにした件を、冗談めかして言っているのだ。

 返答までに間があったことから察するに、やはり、胸の内では、大変な山道に来てしまったと思っているのだろう。けれど、リュイセンを困らせないように、茶目っ気で返してくれたのだ。いくら鈍いリュイセンでも、そのくらいは理解できる。

 彼女の気遣いが、ありがたくも心苦しい……。

 ともかく、アイリーの言う通り、彼女の歩調に合わせて、ゆっくり歩くことにしよう。

 リュイセンは、彼女を執務室に案内したときの失態を思い返し……、はっと閃いた。

「屋敷のときみたいに、俺がお前を運んでいく。そうすれば、お前の足元の心配はなくなるし、服も汚れない」

「えっ!?」

「少しだけ、我慢してくれ」

 あのときと同じ台詞を繰り返し、リュイセンは長身をかがめる。彼の左手が、アイリーの膝裏に触れた瞬間、彼女の足元が、ふわりと浮き立った。

「きゃっ!?」

 悲鳴が響いたときには、リュイセンは左腕一本で、軽々とアイリーをかかえ上げていた。

 そのまま胸の高さよりも、ずっと上に。自分の左肩に、彼女を座らせる。それから、姿勢を安定させるため、彼女の足に左手を添えた。

「ちょ、ちょっと、リュイセン!?」

 一瞬のうちに、リュイセンのつややかな黒髪を見下ろす目線となったアイリーは、慌てふためく。鼓動が高鳴るのは、地面と遠く離れた浮遊感のためか、それとも、他に原因があるのか。

「手荒な扱いで、すまん。だが、片手は空けておく必要があるんでな」

 そう言いながら、リュイセンは、腰にいた愛刀を指し示した。車から降りる際、身に着けてきたのだ。

「え?」

 敵もいないのに、どうして刀を? と、彼女が疑問に思ったのは分かった。

 だが、説明するよりも、実演したほうが早い。彼は、双刀のうちの片方を右手に持つと、ぱっと目の前の藪を払う。

 屋敷では、泣き崩れた彼女を横抱きにして、丁重に執務室まで運んでいった。しかし、この獣道を抜けるためには、こうして邪魔な枝を斬り落としながら進む必要がある。故に、少々乱暴であるが、片手抱きで我慢してもらうのだ。

 アイリーが羽のように軽いことは知っているし、リュイセンは体力、腕力共に自信がある。万が一にも落ちないように、彼女の体は、きちんと支えている。何も問題はない――と、リュイセンは考えた。

「あ、あの……、リュイセン……」

 アイリーの白い肌が、さぁっと朱に染まる。

 ワンピース越しではあるが、彼のたくましい肉体が、彼女の太腿ふとももの裏に触れている。そして、彼女のほうからも抱きつくようにして彼と体を密着させなければ、ぐらぐらと揺れて危ない……。

 そんな訴えをしたものかと、アイリーは迷っていた。距離感に関して、てんで無頓着な彼女であるが、これでも年ごろの少女なのである。

「どうした? 怖いか?」

 リュイセンに、他意はない。だからこその、この問いかけだ。

 アイリーは困りきった顔で白金の眉を寄せると、遠慮がちに口を開いた。

「こういうのって、……こ、恋人とすること――よ、ね……?」

「――っ、すまん! 失礼した!」

 リュイセンは、まるで雷にでも打たれたかのように、体を硬直させた。

 弁解にしかならないが、彼としては、姪のクーティエに肩車をしてやったのと同程度のことだった。しかし、異性に免疫のないアイリーには、たまらなく恥ずかしいことであろう。

 なんたる失態!

 リュイセンは、細かい理屈はさておき、一足飛びに真理にまで辿たどり着く男である。故に、細かな彼女の感情はさておいて、一足飛びに獣道を安全に抜けるための手段に辿たどり着いてしまったらしい。

 あまりにも配慮の欠落した自分に、血の気が引いていくのを感じながら、リュイセンは肩からアイリーを下ろそうとした。

 そのとき、「ま、待って!」と、半音ほど上にずれたような声が発せられた。

「も、もし、リュイセンが嫌でなければ、このまま行きたいわ!」

「でも、お前は不快だろう?」

「そんなことないわ! よ、よく考えたら、私は『恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポット』に行きたいって、お願いしたのよ。だから、これで正しいはずだわ!」

 よく分からない理屈を展開しながら、アイリーはリュイセンの頭へと、すっと体を寄せた。青灰色の瞳をぎゅっとつむり、抱きつくようにして華奢な両腕を彼の首に回す。

 それは、リュイセンの視界の外の出来ごとであるので、アイリーの表情を彼は知らない。彼はただ、彼女が重心を寄せてくれたことで歩きやすくなったと思っただけ。

 そして――。

「ありがとう。リュイセンには迷惑を掛けてしまうけど、私はこの服装に感謝するわ……」

 彼女の心の中の囁きもまた、彼の耳へは届かなかった。





 叩きつけるような水音と、湿度が高く、少しだけ重たい空気。滝の気配を感じながら歩を進めていくと、やがて目の前が、ぱぁっと開けた。

「綺麗……」

 天界の琴の音のような呟きが、天空からの滝の音と響き合い、二重奏となって、リュイセンの耳元に落ちてくる。

 彼は右手の刀を鞘に収め、両手を使って、そっとアイリーを地面に下ろした。

 ふたりは黙って、たたずむ。

 自然の美に、魅入られたのだ。



 陽光を透かし、白金に輝く清らかな水流が、天と地を結びつける。

 そして。

 細かな飛沫しぶきが舞い広がり、鮮やかな虹を伸ばしていく。

 まるで、どこか遠い世界へと繋がる、架け橋のように。



 神秘的な光景だった。

「私に虹を見せようと、この滝に連れてきてくれたの?」

 傍らのアイリーが夢見心地の表情かおのまま、リュイセンに尋ねた。

「いや、虹なんて、俺は知らなかった」

 生真面目なリュイセンは、正直に答える。

 前に来たときには、滝があるだけだった。……とはいえ、滝壺は虹の現れやすい場所だ。今日は運のよいことに、陽の光の差し方が、ちょうどよい塩梅あんばいだった、ということだろう。

 虹が架かる可能性を計算した上で、ここに来たのなら、アイリーの問いかけに肯定できたのに。――そうであれば、なかなか小洒落た道案内エスコートだと、胸を張れたのに。聡明さに欠ける自分は、どうにも格好がつかない……。

 落ち込んでいくリュイセンの耳に、アイリーの声が届く。

「じゃあ、この虹を見たのは、リュイセンも初めてなのね!?」

「え?」

 どことなく弾んだアイリーの声に、リュイセンは狼狽した。

「素敵ね! 自然からの特別サプライズの贈り物だわ!」

 白蓮の花が咲きほころび……、リュイセンは目を奪われる。

 彼女は、綺麗な景色に浮かれているだけではない。リュイセンにも、新たな発見があったことを喜んでいる。

 共に楽しむことができて、よかった、と。

 彼が想像もしなかったことを、彼女は当たり前のように口にする。とても不思議で、心地よい。

 ふわりと心が軽くなり、リュイセンは「アイリー」と呼びかけた。

「お前と虹を見ることができて、よかった」

 気負わない言葉がいて出る。和らいだ瞳の中心で、白金のさざなみが輝いた。





 滝壺から少し離れた、落ち着いた流れのあたりで、アイリーがワンピースの裾を気にしながら、しゃがみ込もうとした。自然の清水に触れてみたいらしい。

「滝を触りに行くか?」

「えっ!?」

「この滝は小さくて、それほど勢いがない。だから、落ちてくる滝の水に、直接、触っても大丈夫だ。前に来たときに、一緒にいた連中と確認済みだ」

 リュイセンが少しだけ得意げに言うと、「そうなの!?」と、青灰色の瞳が大きく見開かれる。

 そして、ふたりは苔むす岩に気をつけながら、そろりそろりと移動を始めた。

 足元に注意して、慎重に進むアイリーは真剣そのもの。勿論、リュイセンも、できるだけ歩きやすそうな場所を選んで先導する。彼女の服装でも大丈夫だろうと判断したからこそ誘ったのであるが、万一のときは身を挺して守るつもりだ。

 足場さえ間違えなければ危険はないし、たいした距離でもない。けれど、ふたりとも、終始、無言だった。

 滝の音が、ふたりの緊張を包み込む。

 水気の多い、ひやりとした涼風に、アイリーはずっと身を引き締めていた。――だから、だろう。ついに滝まで辿たどり着いたときには、満面の笑顔となった。

「うわぁ、冷たいわ!」

 指先で、そっと水を弾いた瞬間、嬉しそうな声を上げる。

 リュイセンも手を伸ばし、透明な流れを掌で受けた。澄んだ水は、きらきらとした光の欠片かけらとなって飛んでいく。

 童心に帰ったように水と戯れ、笑い合う。

 なんでもないことなのに、それが無性に楽しい。

「夏なのに、こんなに水が冷たいなんて。凄く贅沢ね!」

 半袖のシャツ一枚のリュイセンに対し、フードはかぶってないものの、アイリーは長袖のパーカーを着たままだ。彼以上に、涼を楽しんでいるのだろう。

 だが、さすがに夢中になりすぎたのか、だんだんと白い指先が赤みを帯びてきた。

「少し、冷やしすぎじゃねぇか?」

 何気なく彼女の手を取ると、案の定、氷のように冷たい。リュイセンは心配になって、自分の掌で温めてやろうと、彼女の手を包み込んだ。

「っ!?」

 声未満の息遣いが、アイリーの唇から漏れた。彼女の頬が、冷えた指先以上の色合いで赤く染まっていく。

「す、すまん」

 他意はないとはいえ、女性の手を握りしめていたという非礼ことに気づき、リュイセンは焦った。

「う、ううん!」

 気まずいような、微妙な空気。

 そのとき、いたずらな強風が吹きつけた。

 滝の流れが捻じ曲がり、ふたりに向かって冷水が襲いかかる。

「!」

 リュイセンは、握っていたアイリーの手を神速で引き寄せた。彼女が濡れないよう、全身で庇うように抱きしめる。その勢いのままに、素早く体を半回転させ、背中で水を受けた。

つめてぇっ!」

 反射的に声を上げたが、真夏であるので、実のところ、それほど冷たいわけではない。水流の衝撃も、まったく痛くないわけではないが、せいぜいルイフォンに叩かれた程度である。

 ……ただ、見事に水をかぶった。

 濡れた服が肌に張りつき、地味に気持ち悪い。背中への直撃だったため、ズボンにはたいした被害がなかったのは幸いだが、シャツは脱いで絞ったほうがよさそうだ。この気温なら、すぐに乾くだろう。

 そんなことを考えていると、胸元で鋭い声が上がった。

「リュイセン! 大丈夫!?」

 腕の中のアイリーが、彼を見上げる。下がりきった白金の眉と、潤んだような青灰色の瞳。深刻を絵に書いたような大げさな表情かおに、リュイセンは思わず、吹き出した。

「そんなに心配するな。たかが水だぞ?」

「な、なんで笑うのよ! だって、リュイセンが私の盾になって……。心配するのは当然でしょう!」

 彼女自身も、少し過剰な反応だったと思ったらしい。顔を赤らめながら、ぷうっとむくれる。

 ……しかし、手を握られただけで狼狽していたのに、抱きしめられていることを意識していないあたり、まだまだ動揺しているのだろう。

 リュイセンは「心配してくれて、ありがとな」と告げると、彼女が抱擁の事実に気づく前に、そっと腕をほどいた。

「すまないが、シャツを乾かしたい」

 アイリーの体も冷え切っていたことだし、水遊びは、ここらが潮時だろう。名残惜しくはあるけれど、ふたりは滝から離れた。





 陽射しに弱いアイリーには木陰に入ってもらい、濡れ鼠のリュイセンは、日当たりのよい乾いた岩場へと向かう。

 びしょ濡れのシャツを絞ろうと、脱ぎかけたときであった。

「きゃぁっ!」

 驚いたような、焦ったような悲鳴が上がる。

「え?」

「ご、ごめんなさい。……と、殿方の肌なんて、見たことないの! だ、だから……、その……」

 呆けた顔のリュイセンに、しどろもどろのアイリーがうつむく。ちらりと見えた耳たぶは、火照ったように真っ赤だった。

 どうやら深窓の令嬢である彼女には、人前で脱ぐという発想はなかったらしい。服を着たまま、日なたで風に当たって乾かすものと思っていたようだ。

「すまん。あまりにもびしょ濡れだから、絞らせてほしい。少しの間でいいから、お前は後ろを向いていてくれ」

「う、ううん。リュイセンは、私のために濡れたんだもの。私は責任を持って、リュイセンを見届けるわ」

「…………」

 よく分からない責任の取り方である。

 凶賊ダリジィンというお家柄、常に体を鍛えることを念頭に置いているリュイセンにとって、鍛錬の汗を拭くなどで、半裸になるのは日常茶飯事。誰が見ていようが、構うことはない。

 ……しかし、固唾を呑むように見守られては、さすがに落ち着かない。

 意識すればするほど、気恥ずかしさが増していくので、リュイセンは腹をくくって、一気にシャツを脱ぎ捨てた。

 その瞬間――。

「――――! リュイセン――!?」

 先ほどとは、まるで異なる、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。

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