残酷な描写あり
5.白蓮の来訪-1
ハオリュウが王宮に軟禁されてから、三日目。
カイウォルが、ハオリュウの部屋を訪れた翌日のことである。
――どう考えても、下手を打った気がする……。
窓辺から庭園迷路を見下ろし、ハオリュウは渋面を作った。
カイウォルの目的が『セレイエの身柄』だと気づいていれば、もっと別の話の道筋を考えた。迷路の出口なら、他にも幾つだって作れたのだ。
……だが。
今となっては後の祭りだ。
「糞っ」
張り詰められた絹糸の如く。ぎらりと冷たい、怒りを発する。
カイウォルは、異母姉にこう言うつもりだろう。
『父と異母姉の殺害』という、異母弟の容疑を晴らしたければ、セレイエを連れてくるように――と。
しかし、セレイエは既に亡くなっている。
昨日、あの場で、『セレイエの死』を告げていればよかったのだろうか? あのタイミングでは、カイウォルは信じるまいと、諦めたりせずに。
「……」
よく考えれば、セレイエの死を証明する方法ならあったのだ。
セレイエの遺体は、彼女を看取ったヤンイェンが、密かにライシェンの霊廟に移したと、ルイフォンから聞いている。熱暴走で亡くなったセレイエが、どのような状態で埋葬されたのかは不明だが、そこに亡骸があるのなら、何かしらの手段で本人確認ができるはずだ。
今からでも、この情報をカイウォルに知らせるべきか……?
ハオリュウは、しばし眉を寄せ、それから首を横に振った。
これは、極秘事項だ。ヤンイェンからの伝聞であることが明白なため、『ヤンイェンと鷹刀一族が通じている』という証拠にもなる。ハオリュウが勝手に口にしてよいものではない。
――だから。
鷹刀一族に不利益が生じないよう充分な対策を取った上で、異母姉が『セレイエの死』を告げに、王宮に姿を現す必要がある……。
瞳に昏い闇を宿し、ハオリュウは、ぎりりと奥歯を噛みしめた。
個人的な嫌悪から、ちっとも有り難く思えないが、客観的に捉えれば、カイウォルの提案は、最大限にハオリュウに配慮したものといえるだろう。
異母姉の名誉を守りたいという、ハオリュウの思いは汲んでいるし、厳月家への正当な処罰については、想像もしていなかった僥倖だ。
しかし、ハオリュウとしては、そもそも、異母姉を王宮に近づけたくなかった。――平民の義兄のもとに『嫁がせた』異母姉を、今更、上流階級に呼び戻したくなかったのだ。
無論、異母姉が『死者』から『生者』となること自体は望ましい。だが、藤咲家の人間として戸籍を復活させたなら、貴族の世間体というものを無視できなくなる。
異母姉と義兄を、引き離すことになる。
ハオリュウは無言のまま、拳を壁に打ち付けた。
振動で、窓硝子が震える。
――一時的なものだ……。
婚前の娘が恋人と暮らすのは、貴族としては、さすがに外聞が悪い。だから、義兄が婚姻開始年齢を迎えるまで、異母姉は実家で花嫁修業をして待つ、というだけだ。
その間、異母姉が社交の場に出る必要はない。
……けれど。
どうしても、『やむを得ぬ場合』というものはある。
公の場に姿を現せば、凶賊と恋仲になった貴族の令嬢など、好奇の対象でしかない。口さがない連中の格好の餌食だ……。
握りしめた拳を震わせ、ハオリュウは押し殺した声で呟く。
「今の姉様なら、大丈夫だ……」
何故なら、義兄と深い絆で結ばれているから。
そのことを、何よりも誇りに思っているから。
ただ、互いが傍にいないことが、凍えるように寂しいであろう――……。
ハオリュウは瞳を伏せた。
視界から、庭園迷路が消え失せる。
過ぎたことを悔やんでも仕方がない。義兄が立ち入れない場所に異母姉がいる間は、異母弟の自分が守ればよいだけだ。
ハオリュウには、『女王の婚約者』という、強い立場が手に入るのだから。
窓辺に佇み、ハオリュウは初秋の朝陽を浴びる。部屋の中に伸びた影は、力なく肩が落とされ、精彩を欠いていた。
――クーティエは、なんと思うであろうか……。
異母姉と義兄は、大丈夫だ。
しかし、自分と彼女は……。
ハオリュウは胸元に手を当てる。
目を背けていた現実と、今更のように向き合い……打ちのめされた。
逮捕中の容疑者でありながら、ハオリュウの扱いは『賓客』だった。
王族と同じ朝食が振る舞われたあとは、何をしてもよいと言われている。――ただし、この客室という限られた空間の中で、であるが。
昨日までは、この先のことをあれこれ画策して過ごしていたのだが、カイウォルとの対面のあとは、やることがなくなってしまった。時間を無駄にしたくはないので、藤咲家の執務机の上にある、未処理の書類の山を持ってきてほしい。
……そう思ったところで、部屋の前に張りついている近衛隊員に頼んでも無駄だろう。だから、これは、ただの愚痴だ。
ハオリュウが顔をしかめたとき、唐突に、部屋の扉が叩かれた。
「失礼いたします。今、よろしいでしょうか」
声の主は見張りの者か、はたまた侍従の類か。
「はい、構いません。どうぞ」
さて、なんの用事かと、軽く疑問に思いつつ返事をすると、廊下から「こちらで、ございます」という、案内のような遣り取りが漏れ聞こえてきた。
誰かが面会に来たらしい。しかし、あのカイウォルが、いったい誰に許可を出すというのだろう?
ともあれ、ハオリュウは相手を出迎えるべく、ソファーを立ち……、入ってきた人物を見て、立ち尽くした。
「陛下!?」
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳。
唯一無二の、神の化身。
大慌てながらも、次の瞬間には床に跪き、臣下の礼を取ることができたのは、我ながら大したものだと、ハオリュウは思う。ただし、足が不自由であるのに加え、レイウェンとの決闘の傷がまだ癒え切っていないため、だいぶ体がぐらついていたが。
ハオリュウの視界の端で、女王のスカートの裾が翻る。彼女が背後を振り返ったらしい。
「あなたたちは下がりなさい。これから私は、藤咲の当主とふたりきりで、大切な話をするの」
「ですが、陛下」
物言いたげな様子の、侍従らしき声。それに呼応するように、お付きの侍女やら、見張りの近衛隊員やらと思しき、多種多様な息遣いが続く。……部屋の外に、総じて何人いるのだか。見当もつかない。
ハオリュウは、なるほどと理解した。
おそらく、女王は、カイウォルから『ハオリュウとの婚約』を知らされたのだ。
しかし、何故、そのような運びとなったのか――納得のいくような説明をしてもらえなかったのだろう。それで、ハオリュウに詳細を聞きに来た、というところか。
一方、そんな女王の事情など、周りの者たちは知る由もなく。故に、果たすべき責務として、彼女の行く手を阻む。
当然だ。
いくら良い待遇を受けていても、ハオリュウは王宮に滞在する客人ではなく、勾留されている罪人なのだ。名のある貴族が逮捕されたということで、女王が気になるのは尤もなことだとしても、ふたりきりでの対話など、もってのほかだろう。
「……わ、私は、ちゃんと、摂政の許可を得てきたのよ」
嘘だ――と。
ハオリュウならずとも、誰しもが思った。しかし、女王は言葉を重ねる。
「あ、あのね……。私は、どうしても、藤咲の当主と話をしなければいけないの……。どうしても、なのよ……?」
なんとも頼りなげな、細い声。
綺羅の美貌を翳りに染めた、苦しげで切なげな、悲痛の面差し――。
顔を伏せたハオリュウの脳裏にも、彼女の必死の形相が浮かぶのだ。なれば、実際に、その姿を目にした者たちが狼狽えたとしても、それは仕方のないことといえよう。
「お願い。私……、藤咲の当主から、話を聞かないと……」
弱りきった儚げな音色に、はっと何かに気づいたように幾人かが息を呑む。ざわめきが広がり、その端々を繋げていくと、彼らの思考が聞こえてきた。
曰く――。
『心優しい女王陛下は、冤罪で捕まった年下の少年当主の力になろうとしているのだ』
『冤罪?』
『ああ。あんな子供が、父と異母姉を殺すわけがないだろう?』
侍従と思しき声が、小声で部下に尋ねる。
「摂政殿下の今日のご予定は?」
「午前中いっぱいは視察で、王宮にはいらっしゃいません」
女王は、摂政の不在を狙って動いたのだ。
あちこちで得心の呟きが落とされ、「こほん」と、わざとらしい咳払いが聞こえる。
「摂政殿下が、ご承知であられるのでしたら、我々がお止めするのはおかしなことでした。――陛下、どうか、我らの無礼をお許しください」
一番、高位と思しき者が頭を下げると、他の者もそれに倣う。
どうやら、皆で黙認すると決めたらしい。この様子だと、あとから摂政に報告がいくということもなさそうだ。
「ありがとう!」
天界の琴もかくやという、妙なる音色が響き渡る。無垢な笑顔に、侍従たちは善行を働いたとばかりに、満足げに口元をほころばせた。
やがて、すうっと波が引くように、人の気配が部屋から遠ざかっていった。
「……」
状況が落ち着いたのを感じ、ハオリュウは、なんとも評し難い感情を抱きつつ、ゆっくりと顔を上げた。
まず、目に入ったのは、女王の後ろ姿だった。輝く白金の髪に、クーティエが考案した青絹の髪飾りが揺れている。お気に入りだという話は、どうやら本当らしい。
「陛下……?」
女王は、閉じられた扉に、ぴたりと耳を当てていた。廊下の様子を窺っているらしい。
分厚い扉であるから、鷹刀一族のような武の者ならともかく、素人の彼女に気配を探ることなど、まず不可能だろう。
逆に言えば、部屋の中の会話は、簡単には外には漏れないということだ。昨日、カイウォルが、先王妃の自殺を平然と口にしたことを思えば、防音扉なのかもしれない。
……そういえば、女王は、先王妃が自死したことを知っているのだろうか?
ハオリュウは、ふと疑問に思い、即座に『否』と自答した。
カイウォルの口ぶりや性格からして、『決して妹の耳には入れないように』と、箝口令を敷いたに違いない。
そんなことを考えていると、不意に、女王がくるりと振り返る。ハオリュウは慌てて、何ごともなかったような顔を作り上げた。
「もう、大丈夫だと思うわ。――って、いつまで、そんな格好をしているの!? あなた、足が悪いんでしょう!?」
血相を変えた女王が、跪いたままのハオリュウへと駆け寄る。
高く澄んだ声は、普段であれば、聞き惚れるような美しい音色なのであろう。しかし、ぐいと差し伸べた手と共に、勢いよく耳元にまで迫られれば、思わず身を引きたくなるような金切り声だった。
「ご心配には及びません。自分で立てます」
ハオリュウは、苦笑を善人顔で微笑に変えて、立ち上がる。
話に聞いていた通りだと思った。
ハオリュウの知る、玉座に鎮座まします美しい人形のような姿とは別人だ。公式の場では、摂政の言いつけを守って大人しくしている、という話は本当なのだろう。
生来の性格に、弱視のせいもあって距離感がおかしく、王族のくせに、当たり前のように人を思いやれる天真爛漫な少女――。
正直なところ、足に痺れが来ていたので、彼女の気遣いは有り難かった。
「大丈夫? あちらのソファーに行きましょう」
「はい、陛下」
今まで、同じ床の高さで立ったことのない女王と、初めて向き合う。
そして。
――ち……小さい……。
輝く白金のつむじを見下ろしながら、ハオリュウは狼狽する。
彼女が小柄であることは承知していた。だから、男子である自分のほうが、年下であっても背が高いだろうと、漠然と感じてはいた。
……だが。
それにしても、あまりにも目線が違う。おそらく、クーティエよりも小さいだろう。
如何にも武人然とした体格のリュイセンが、いったい、どんな顔をして彼女の隣を歩くのか。……にわかには想像もつかない。
「無理しないで! 私に捕まって!」
「……」
――貴女に支えてもらったら、不敬とか、むやみに女性に触れるものではないとか以前に、押しつぶしそうで怖いです。
強引に肩を貸そうとする彼女に、ハオリュウは思わず口走りそうになった台詞を飲み込んだ。
やんわりとした態度で遠慮を示すと、女王は眉を寄せる。
「あなた、もともと足が悪い上に、『レイウェンお兄ちゃん』に決闘を申し込んで、こてんぱんにやられた傷が、まだ治り切っていないんでしょう?」
「!?」
「ルイフォンから聞いたの。無茶苦茶をやったって。――でも、格好いいと思ったわ」
女王は、ぐいと首を反らし、仰ぎ見るようにして、強引にハオリュウと目線を合わせた。
「……私ね。私よりも年下なのに、なんでも卒なくこなしてしまう藤咲家当主に、苦手意識があったの。無意識に嫌って、避けていたかもしれない。羨ましくて、嫉妬していたんだわ」
そして、まるで子供の表情で、彼女は、ぷうっと膨れる。
「――だって、いつも偉そうなカイウォルお兄様が、あなたのことだけは、べた褒めするんだもの」
「陛下……」
ハオリュウが困惑を浮かべると、女王は急に真顔になり、ぺこりと頭を下げた。
「今まで、ごめんなさい」
「な、何を……!?」
どんなに『らしく』見えなくとも、相手は仮にも一国の王。臣下の身で、詫びの言葉など受け入れてよいわけがない。
そもそも、ごめんなさいも何も、彼女とは、これまで相対して会話をするようなことはなかったのだ。唯一の例外が、婚礼衣装担当家の当主として謁見したときで、そのときは立場上、互いに処世術で乗り切るべき場であった。
……それでも、心の中での嫌悪をわざわざ告白して、謝ってくるのが彼女なのだろう。
ハオリュウは、口元に穏やかな笑みをたたえ、ともあれ、といった体で、女王をソファーへと促す。間違っても、彼女に倣って、『私は、あなたをお飾りの女王だと侮っていました』などと告白したりしないのが、ハオリュウである。
「あのね、早速だけど――」
ハオリュウが腰を下ろし、足をさすろうとした瞬間、向かい合って座ったはずの女王が、あっという間に立ち上がり、ふたりの間にあるテーブルに身を乗り出した。
「あなたから私へ、婚約の申し出があったと、お兄様から聞いたわ」
どう考えても、望まぬ婚約のはず。だから理由を訊かせてほしい、ということだろう。『勝手に婚約なんて、非道い』と、喚き散らされても仕方のない状況だ。まずは話を、という姿勢は有り難い。
さて、どう説明したものか。
思案するハオリュウの目の前に、黒い携帯端末が突きつけられた。今まで手ぶらだったはずなので、上着の内ポケットにでも入れていたらしい。
「?」
「リュイセンから貰った携帯端末よ。ルイフォンから聞いているでしょう? ――これで、鷹刀と連絡が取れるわ」
「!」
ハオリュウは息を呑んだ。
これがあれば、ルイフォンや異母姉に、現状を知らせることができる。カイウォルの目的は、『セレイエの身柄』なのだと伝えることができる――!
顔色を変えたハオリュウに、女王は続ける。
「なんで私と婚約だなんて言い出したのか、きちんと理由を聞きたいわ。――でも、私の前に!」
ぎろり、と。
青灰色の瞳が、射抜くようにハオリュウを睨みつけた。
ぐぐっと鼻に皺が寄り、綺羅の美貌が険悪に歪む。
「クーティエに、ちゃんと説明してあげて!」
「――!?」
ここで、どうしてクーティエなのだ?
勿論、ハオリュウだって、友人以上恋人未満のことは気掛かりだ。だが、現状において一番に連絡すべき相手は、義兄か異母姉か、あるいは秘書であろう。ハオリュウが下手を打った分の皺寄せが彼らにいってしまうことを謝り、情報を共有せねば……。
困惑するハオリュウに、しかし、女王は唇をわななかせ、白金の眉を吊り上げる。
「『レイウェンお兄ちゃん』に、決闘まで申し込んでおきながら、あなた、不誠実だわ! 最低よ! 人でなし!」
「…………」
純情可憐な乙女には、ハオリュウの駆け引きは、裏切りにみえるのだろう。
……甚だ理不尽ではあるが、彼女の弁にも一理あることは認める。
会ったこともないクーティエのために怒り、ハオリュウに詰め寄る。面従腹背の上流階級の頂点に立つ王であるくせに、彼女は裏表なく善良なのだ。
――とても、良い女性ではあるのだよな……。
どうにも目線の合わない女王に、表だけが善良なハオリュウは、なんともいえない苦笑を漏らした。
カイウォルが、ハオリュウの部屋を訪れた翌日のことである。
――どう考えても、下手を打った気がする……。
窓辺から庭園迷路を見下ろし、ハオリュウは渋面を作った。
カイウォルの目的が『セレイエの身柄』だと気づいていれば、もっと別の話の道筋を考えた。迷路の出口なら、他にも幾つだって作れたのだ。
……だが。
今となっては後の祭りだ。
「糞っ」
張り詰められた絹糸の如く。ぎらりと冷たい、怒りを発する。
カイウォルは、異母姉にこう言うつもりだろう。
『父と異母姉の殺害』という、異母弟の容疑を晴らしたければ、セレイエを連れてくるように――と。
しかし、セレイエは既に亡くなっている。
昨日、あの場で、『セレイエの死』を告げていればよかったのだろうか? あのタイミングでは、カイウォルは信じるまいと、諦めたりせずに。
「……」
よく考えれば、セレイエの死を証明する方法ならあったのだ。
セレイエの遺体は、彼女を看取ったヤンイェンが、密かにライシェンの霊廟に移したと、ルイフォンから聞いている。熱暴走で亡くなったセレイエが、どのような状態で埋葬されたのかは不明だが、そこに亡骸があるのなら、何かしらの手段で本人確認ができるはずだ。
今からでも、この情報をカイウォルに知らせるべきか……?
ハオリュウは、しばし眉を寄せ、それから首を横に振った。
これは、極秘事項だ。ヤンイェンからの伝聞であることが明白なため、『ヤンイェンと鷹刀一族が通じている』という証拠にもなる。ハオリュウが勝手に口にしてよいものではない。
――だから。
鷹刀一族に不利益が生じないよう充分な対策を取った上で、異母姉が『セレイエの死』を告げに、王宮に姿を現す必要がある……。
瞳に昏い闇を宿し、ハオリュウは、ぎりりと奥歯を噛みしめた。
個人的な嫌悪から、ちっとも有り難く思えないが、客観的に捉えれば、カイウォルの提案は、最大限にハオリュウに配慮したものといえるだろう。
異母姉の名誉を守りたいという、ハオリュウの思いは汲んでいるし、厳月家への正当な処罰については、想像もしていなかった僥倖だ。
しかし、ハオリュウとしては、そもそも、異母姉を王宮に近づけたくなかった。――平民の義兄のもとに『嫁がせた』異母姉を、今更、上流階級に呼び戻したくなかったのだ。
無論、異母姉が『死者』から『生者』となること自体は望ましい。だが、藤咲家の人間として戸籍を復活させたなら、貴族の世間体というものを無視できなくなる。
異母姉と義兄を、引き離すことになる。
ハオリュウは無言のまま、拳を壁に打ち付けた。
振動で、窓硝子が震える。
――一時的なものだ……。
婚前の娘が恋人と暮らすのは、貴族としては、さすがに外聞が悪い。だから、義兄が婚姻開始年齢を迎えるまで、異母姉は実家で花嫁修業をして待つ、というだけだ。
その間、異母姉が社交の場に出る必要はない。
……けれど。
どうしても、『やむを得ぬ場合』というものはある。
公の場に姿を現せば、凶賊と恋仲になった貴族の令嬢など、好奇の対象でしかない。口さがない連中の格好の餌食だ……。
握りしめた拳を震わせ、ハオリュウは押し殺した声で呟く。
「今の姉様なら、大丈夫だ……」
何故なら、義兄と深い絆で結ばれているから。
そのことを、何よりも誇りに思っているから。
ただ、互いが傍にいないことが、凍えるように寂しいであろう――……。
ハオリュウは瞳を伏せた。
視界から、庭園迷路が消え失せる。
過ぎたことを悔やんでも仕方がない。義兄が立ち入れない場所に異母姉がいる間は、異母弟の自分が守ればよいだけだ。
ハオリュウには、『女王の婚約者』という、強い立場が手に入るのだから。
窓辺に佇み、ハオリュウは初秋の朝陽を浴びる。部屋の中に伸びた影は、力なく肩が落とされ、精彩を欠いていた。
――クーティエは、なんと思うであろうか……。
異母姉と義兄は、大丈夫だ。
しかし、自分と彼女は……。
ハオリュウは胸元に手を当てる。
目を背けていた現実と、今更のように向き合い……打ちのめされた。
逮捕中の容疑者でありながら、ハオリュウの扱いは『賓客』だった。
王族と同じ朝食が振る舞われたあとは、何をしてもよいと言われている。――ただし、この客室という限られた空間の中で、であるが。
昨日までは、この先のことをあれこれ画策して過ごしていたのだが、カイウォルとの対面のあとは、やることがなくなってしまった。時間を無駄にしたくはないので、藤咲家の執務机の上にある、未処理の書類の山を持ってきてほしい。
……そう思ったところで、部屋の前に張りついている近衛隊員に頼んでも無駄だろう。だから、これは、ただの愚痴だ。
ハオリュウが顔をしかめたとき、唐突に、部屋の扉が叩かれた。
「失礼いたします。今、よろしいでしょうか」
声の主は見張りの者か、はたまた侍従の類か。
「はい、構いません。どうぞ」
さて、なんの用事かと、軽く疑問に思いつつ返事をすると、廊下から「こちらで、ございます」という、案内のような遣り取りが漏れ聞こえてきた。
誰かが面会に来たらしい。しかし、あのカイウォルが、いったい誰に許可を出すというのだろう?
ともあれ、ハオリュウは相手を出迎えるべく、ソファーを立ち……、入ってきた人物を見て、立ち尽くした。
「陛下!?」
輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳。
唯一無二の、神の化身。
大慌てながらも、次の瞬間には床に跪き、臣下の礼を取ることができたのは、我ながら大したものだと、ハオリュウは思う。ただし、足が不自由であるのに加え、レイウェンとの決闘の傷がまだ癒え切っていないため、だいぶ体がぐらついていたが。
ハオリュウの視界の端で、女王のスカートの裾が翻る。彼女が背後を振り返ったらしい。
「あなたたちは下がりなさい。これから私は、藤咲の当主とふたりきりで、大切な話をするの」
「ですが、陛下」
物言いたげな様子の、侍従らしき声。それに呼応するように、お付きの侍女やら、見張りの近衛隊員やらと思しき、多種多様な息遣いが続く。……部屋の外に、総じて何人いるのだか。見当もつかない。
ハオリュウは、なるほどと理解した。
おそらく、女王は、カイウォルから『ハオリュウとの婚約』を知らされたのだ。
しかし、何故、そのような運びとなったのか――納得のいくような説明をしてもらえなかったのだろう。それで、ハオリュウに詳細を聞きに来た、というところか。
一方、そんな女王の事情など、周りの者たちは知る由もなく。故に、果たすべき責務として、彼女の行く手を阻む。
当然だ。
いくら良い待遇を受けていても、ハオリュウは王宮に滞在する客人ではなく、勾留されている罪人なのだ。名のある貴族が逮捕されたということで、女王が気になるのは尤もなことだとしても、ふたりきりでの対話など、もってのほかだろう。
「……わ、私は、ちゃんと、摂政の許可を得てきたのよ」
嘘だ――と。
ハオリュウならずとも、誰しもが思った。しかし、女王は言葉を重ねる。
「あ、あのね……。私は、どうしても、藤咲の当主と話をしなければいけないの……。どうしても、なのよ……?」
なんとも頼りなげな、細い声。
綺羅の美貌を翳りに染めた、苦しげで切なげな、悲痛の面差し――。
顔を伏せたハオリュウの脳裏にも、彼女の必死の形相が浮かぶのだ。なれば、実際に、その姿を目にした者たちが狼狽えたとしても、それは仕方のないことといえよう。
「お願い。私……、藤咲の当主から、話を聞かないと……」
弱りきった儚げな音色に、はっと何かに気づいたように幾人かが息を呑む。ざわめきが広がり、その端々を繋げていくと、彼らの思考が聞こえてきた。
曰く――。
『心優しい女王陛下は、冤罪で捕まった年下の少年当主の力になろうとしているのだ』
『冤罪?』
『ああ。あんな子供が、父と異母姉を殺すわけがないだろう?』
侍従と思しき声が、小声で部下に尋ねる。
「摂政殿下の今日のご予定は?」
「午前中いっぱいは視察で、王宮にはいらっしゃいません」
女王は、摂政の不在を狙って動いたのだ。
あちこちで得心の呟きが落とされ、「こほん」と、わざとらしい咳払いが聞こえる。
「摂政殿下が、ご承知であられるのでしたら、我々がお止めするのはおかしなことでした。――陛下、どうか、我らの無礼をお許しください」
一番、高位と思しき者が頭を下げると、他の者もそれに倣う。
どうやら、皆で黙認すると決めたらしい。この様子だと、あとから摂政に報告がいくということもなさそうだ。
「ありがとう!」
天界の琴もかくやという、妙なる音色が響き渡る。無垢な笑顔に、侍従たちは善行を働いたとばかりに、満足げに口元をほころばせた。
やがて、すうっと波が引くように、人の気配が部屋から遠ざかっていった。
「……」
状況が落ち着いたのを感じ、ハオリュウは、なんとも評し難い感情を抱きつつ、ゆっくりと顔を上げた。
まず、目に入ったのは、女王の後ろ姿だった。輝く白金の髪に、クーティエが考案した青絹の髪飾りが揺れている。お気に入りだという話は、どうやら本当らしい。
「陛下……?」
女王は、閉じられた扉に、ぴたりと耳を当てていた。廊下の様子を窺っているらしい。
分厚い扉であるから、鷹刀一族のような武の者ならともかく、素人の彼女に気配を探ることなど、まず不可能だろう。
逆に言えば、部屋の中の会話は、簡単には外には漏れないということだ。昨日、カイウォルが、先王妃の自殺を平然と口にしたことを思えば、防音扉なのかもしれない。
……そういえば、女王は、先王妃が自死したことを知っているのだろうか?
ハオリュウは、ふと疑問に思い、即座に『否』と自答した。
カイウォルの口ぶりや性格からして、『決して妹の耳には入れないように』と、箝口令を敷いたに違いない。
そんなことを考えていると、不意に、女王がくるりと振り返る。ハオリュウは慌てて、何ごともなかったような顔を作り上げた。
「もう、大丈夫だと思うわ。――って、いつまで、そんな格好をしているの!? あなた、足が悪いんでしょう!?」
血相を変えた女王が、跪いたままのハオリュウへと駆け寄る。
高く澄んだ声は、普段であれば、聞き惚れるような美しい音色なのであろう。しかし、ぐいと差し伸べた手と共に、勢いよく耳元にまで迫られれば、思わず身を引きたくなるような金切り声だった。
「ご心配には及びません。自分で立てます」
ハオリュウは、苦笑を善人顔で微笑に変えて、立ち上がる。
話に聞いていた通りだと思った。
ハオリュウの知る、玉座に鎮座まします美しい人形のような姿とは別人だ。公式の場では、摂政の言いつけを守って大人しくしている、という話は本当なのだろう。
生来の性格に、弱視のせいもあって距離感がおかしく、王族のくせに、当たり前のように人を思いやれる天真爛漫な少女――。
正直なところ、足に痺れが来ていたので、彼女の気遣いは有り難かった。
「大丈夫? あちらのソファーに行きましょう」
「はい、陛下」
今まで、同じ床の高さで立ったことのない女王と、初めて向き合う。
そして。
――ち……小さい……。
輝く白金のつむじを見下ろしながら、ハオリュウは狼狽する。
彼女が小柄であることは承知していた。だから、男子である自分のほうが、年下であっても背が高いだろうと、漠然と感じてはいた。
……だが。
それにしても、あまりにも目線が違う。おそらく、クーティエよりも小さいだろう。
如何にも武人然とした体格のリュイセンが、いったい、どんな顔をして彼女の隣を歩くのか。……にわかには想像もつかない。
「無理しないで! 私に捕まって!」
「……」
――貴女に支えてもらったら、不敬とか、むやみに女性に触れるものではないとか以前に、押しつぶしそうで怖いです。
強引に肩を貸そうとする彼女に、ハオリュウは思わず口走りそうになった台詞を飲み込んだ。
やんわりとした態度で遠慮を示すと、女王は眉を寄せる。
「あなた、もともと足が悪い上に、『レイウェンお兄ちゃん』に決闘を申し込んで、こてんぱんにやられた傷が、まだ治り切っていないんでしょう?」
「!?」
「ルイフォンから聞いたの。無茶苦茶をやったって。――でも、格好いいと思ったわ」
女王は、ぐいと首を反らし、仰ぎ見るようにして、強引にハオリュウと目線を合わせた。
「……私ね。私よりも年下なのに、なんでも卒なくこなしてしまう藤咲家当主に、苦手意識があったの。無意識に嫌って、避けていたかもしれない。羨ましくて、嫉妬していたんだわ」
そして、まるで子供の表情で、彼女は、ぷうっと膨れる。
「――だって、いつも偉そうなカイウォルお兄様が、あなたのことだけは、べた褒めするんだもの」
「陛下……」
ハオリュウが困惑を浮かべると、女王は急に真顔になり、ぺこりと頭を下げた。
「今まで、ごめんなさい」
「な、何を……!?」
どんなに『らしく』見えなくとも、相手は仮にも一国の王。臣下の身で、詫びの言葉など受け入れてよいわけがない。
そもそも、ごめんなさいも何も、彼女とは、これまで相対して会話をするようなことはなかったのだ。唯一の例外が、婚礼衣装担当家の当主として謁見したときで、そのときは立場上、互いに処世術で乗り切るべき場であった。
……それでも、心の中での嫌悪をわざわざ告白して、謝ってくるのが彼女なのだろう。
ハオリュウは、口元に穏やかな笑みをたたえ、ともあれ、といった体で、女王をソファーへと促す。間違っても、彼女に倣って、『私は、あなたをお飾りの女王だと侮っていました』などと告白したりしないのが、ハオリュウである。
「あのね、早速だけど――」
ハオリュウが腰を下ろし、足をさすろうとした瞬間、向かい合って座ったはずの女王が、あっという間に立ち上がり、ふたりの間にあるテーブルに身を乗り出した。
「あなたから私へ、婚約の申し出があったと、お兄様から聞いたわ」
どう考えても、望まぬ婚約のはず。だから理由を訊かせてほしい、ということだろう。『勝手に婚約なんて、非道い』と、喚き散らされても仕方のない状況だ。まずは話を、という姿勢は有り難い。
さて、どう説明したものか。
思案するハオリュウの目の前に、黒い携帯端末が突きつけられた。今まで手ぶらだったはずなので、上着の内ポケットにでも入れていたらしい。
「?」
「リュイセンから貰った携帯端末よ。ルイフォンから聞いているでしょう? ――これで、鷹刀と連絡が取れるわ」
「!」
ハオリュウは息を呑んだ。
これがあれば、ルイフォンや異母姉に、現状を知らせることができる。カイウォルの目的は、『セレイエの身柄』なのだと伝えることができる――!
顔色を変えたハオリュウに、女王は続ける。
「なんで私と婚約だなんて言い出したのか、きちんと理由を聞きたいわ。――でも、私の前に!」
ぎろり、と。
青灰色の瞳が、射抜くようにハオリュウを睨みつけた。
ぐぐっと鼻に皺が寄り、綺羅の美貌が険悪に歪む。
「クーティエに、ちゃんと説明してあげて!」
「――!?」
ここで、どうしてクーティエなのだ?
勿論、ハオリュウだって、友人以上恋人未満のことは気掛かりだ。だが、現状において一番に連絡すべき相手は、義兄か異母姉か、あるいは秘書であろう。ハオリュウが下手を打った分の皺寄せが彼らにいってしまうことを謝り、情報を共有せねば……。
困惑するハオリュウに、しかし、女王は唇をわななかせ、白金の眉を吊り上げる。
「『レイウェンお兄ちゃん』に、決闘まで申し込んでおきながら、あなた、不誠実だわ! 最低よ! 人でなし!」
「…………」
純情可憐な乙女には、ハオリュウの駆け引きは、裏切りにみえるのだろう。
……甚だ理不尽ではあるが、彼女の弁にも一理あることは認める。
会ったこともないクーティエのために怒り、ハオリュウに詰め寄る。面従腹背の上流階級の頂点に立つ王であるくせに、彼女は裏表なく善良なのだ。
――とても、良い女性ではあるのだよな……。
どうにも目線の合わない女王に、表だけが善良なハオリュウは、なんともいえない苦笑を漏らした。