残酷な描写あり
4.白蓮の花の咲く音色-2
混乱するリュイセンに、アイリーはテーブルに手を付いて立ち上がり、「先に質問させて」と、ぐっと顔を近づけた。
「ルイフォンたちは、どうして、『ライシェン』には記憶を入れないって、決めたの?」
「え?」
「メイシアか、他の誰かが、〈天使〉にならなければいけないから?」
アイリーの問いに、リュイセンは頷きかけ、途中で止めた。
確かにルイフォンは、『セレイエの我儘のために、誰かが〈天使〉になる必要はない』と言っていた。だから、質問の答えは肯定で正しいはずなのだが、アイリーの声色が、迂闊に返事をすることを躊躇わせた。
吐息が掛かりそうなほどの距離で、白金の髪が揺れる。「それとも」と、青灰色の瞳が静かに言葉を重ねる。
「『死者の蘇生』は、禁忌に触れるものだから――?」
リュイセンの喉が、こくりと動いた。
「それは……」
不可思議な圧に呑まれ、しぼりだした低音が、乾いたように掠れる。
意図の分からない質問だった。
しかし、彼女の様子からして、どうやら重要なことであるらしい。ならばと、彼は誠意を持って返答する。
「ルイフォンが誰かを〈天使〉にしたくないのは本当だ。そして、禁忌に触れることを問題にしているかについては、直接的には聞いたことがない。だが、あいつの母親が〈七つの大罪〉の技術を否定する立場だったから、あいつも似たような考えだと思う」
自分自身のことではなく、弟分についてのことである。可能な限り、正確に答えたつもりだが、絶対だという保証はない。
生真面目なリュイセンが、自信なさげに顔を曇らせると、アイリーは、ふわりと笑んだ。
「答えてくれて、ありがとう」
彼女は白金の髪をなびかせ、ソファーに戻って腰を下ろす。
「ほっとしたわ。今まで聞いてきたルイフォンの人柄なら、たぶん、『死者の蘇生は、禁忌』と考えると思っていたけど、絶対の自信はなかったから……。でも、兄貴分のリュイセンが、太鼓判を押してくれるなら安心だわ」
「いったい、なんなんだよ?」
あまりの置いてきぼりに、さすがのリュイセンも眉根を寄せた。
「あっ……、ごめんなさいっ!」
アイリーが、びくりと肩を上げる。そして、小さくなりながら「あのね……」と語り出す。
「四年前の〈七つの大罪〉には、セレイエ以外にも、〈天使〉がいたのよ。今は、どこにいるのか分からないけれど――」
「四年前からの――〈天使〉……!」
「そう。新たに誰かを〈天使〉にするのではなくて、『既に〈天使〉となっている者』を探し出すから、『ライシェン』に記憶を入れることを認めてほしい。――お異母兄様は、そう言い出すんじゃないかと、私は考えているの」
「なるほどな……」
『既に〈天使〉となっている者』とは、盲点だった。
確かに、それならばルイフォンたちと敵対しない。――ルイフォンたちが『誰かを〈天使〉にしたくない』という思いでのみ、動いているのであれば、だが。
「でも、お異母兄様が〈天使〉を連れてきても、ルイフォンたちは、ライシェンを生き返らせたりしないのね……。よかった……」
全身で安堵を示すように、彼女はソファーに、ぐったりと寄りかかる。天井を仰ぎ見ている瞳は、薄く潤んでいるように見えた。
「アイリー……?」
「リュイセン、私ね。ライシェンの『肉体』が既に出来上がっていて、あとは誕生を待つばかり、って聞いたとき、その『肉体』には、絶対に『記憶』を入れないで、って思ったの。……だって、そんなことをしても、『その子』は、『私の知っているライシェン』じゃないもの……」
アイリーは遠くを見つめたまま、まるで独り言つように呟く。
リュイセンは初め、彼の名を呼びながらも、彼女が上を向いたままであるのは、涙をこぼさないためだと思った。けれど、すぐに、それだけではないのだと気づく。
天の国へと、語りかけているのだ。
『蘇生に反対して、ごめんなさい』と。
ライシェンに。
そして、セレイエに。
祈りを捧げるような姿に、リュイセンの胸が、ぐっと詰まる。
「死んだ奴は、生き返らない。死んだ奴の代わりなんか、存在しない。……お前の言うことは『正しい』と、俺も思う」
だから、気に病むな。――そんな気持ちを込める。
「ありがとう……」
緩やかに微笑みながら、アイリーはリュイセンへと顔を向けた。白金の髪の流れと共に、ぽろりと涙がこぼれ落ち、彼女は慌てて、それを拭う。
「うん。あの子の代わりなんて、いないわ。……だから私は、新しい肉体の『ライシェン』のために、記憶を入れることを阻止したいの。これはね、物凄く重要なことなの」
濡れた青灰色の瞳を押さえながらも、アイリーは毅然と言い放つ。その口調の裏側に、『主張したいことがあるから、興味を持った感じに質問してほしい』という思いが隠れて見えた。
彼女の強さと弱さに翻弄されている自分を感じつつ、期待に応えるべくリュイセンは尋ねる。
「新しい肉体の『ライシェン』のため? それは、どういう意味だ?」
「だって、オリジナルのライシェンの人生は、とてもとても短いものだったけれど、辛くて悲しいことばかりだったのよ。そんな記憶を、どうして、これから新しく幸せな人生を始める『ライシェン』が、受け継がなければならないの?」
「!」
虚を衝かれた。
至極、もっともな意見だ。
なのに、今まで誰も、その発想に至らなかったような気がする。
リュイセンは間抜けに口を開けたまま、アイリーの顔を凝視する。
「勿論、ライシェンの記憶の中には、嬉しいことや楽しいこともあったと思うわ。彼は、身近な人たちには、間違いなく愛されていたんだもの。……でも、それよりも多くの害意や殺意が、彼を襲っていたはずなの。そんな恐怖の記憶を刻むなんて、『ライシェン』が可哀想だわ!」
憤りもあらわに彼女は叫び、そこから急に「それにね」と、昏い闇をまとう。
「オリジナルのライシェンは……、……人を殺しているの」
温度を失った声が、冷たく紡がれた。
リュイセンは無言のまま、凪いだ青灰色の瞳をまっすぐに見つめる。
「あまりにも幼すぎて、ライシェンは自分が何をしたのか、分かっていなかったと思う。――でも、その記憶が『ライシェン』に刻まれたら?」
挑発的にも見える仕草で、彼女は小首をかしげる。
「『ライシェン』が大きくなったとき、彼は『人殺しの記憶』を理解してしまう可能性があるわ」
リュイセンは、ごくりと唾を呑み、ゆっくりと頷いた。
その反応に感謝するように、アイリーは目礼を返し、それから、白金の眉をひそめて吐き出す。
「『ライシェン』は、自分が犯してもいない罪を『自分の罪』として、記憶していることになるの。彼自身は何もしていないのに、罪の意識に悩まされることになるのよ。……そんなの、可笑しいでしょう? ライシェンの罪は、『ライシェン』の罪じゃないわ。――オリジナルとクローンは、別人よ!」
刹那。
リュイセンは雷に打たれたように、びくりと身を震わせた。
『私は、『鷹刀ヘイシャオ』とは、違う人間ですよ?』
鷹刀一族特有の低音が、耳の奥に蘇る。
脳裏に、〈蝿〉の白衣姿が浮かび上がった。
『この肉体に勝手に入れられた『記憶』のために、『鷹刀ヘイシャオの罪』は『私の罪』になるのですか?』
『リュイセン。もしも、あなたの肉体に『鷹刀ヘイシャオの記憶』を入れられたら、『あなた』も罪人になる――ということですよ』
『そのとき、あなたは『自分の罪』として受け入れられるのですか?』
菖蒲の館での〈蝿〉捕獲作戦に失敗し、囚われの身となったリュイセンに、〈蝿〉は疑問を投げつけた。
リュイセンを手駒にしようとしていた〈蝿〉は、悪意と嘘にまみれていて、彼を蛇蝎の如く嫌っていたリュイセンは、詭弁を弄しているのだと頭から決めつけた。
けれど。
――あの問いかけは、必死の訴えだったんだ……。
リュイセンの心臓が、ずきりと痛んだ。
〈蝿〉の言葉の中にも、真実は存在していたのだ。
オリジナルの記憶を入れられた、哀れな『作り物の駒』であった彼は、自分自身が何者であるかに迷っていたのだから……。
リュイセンは知れず、胸元に手を当てた。それから低く、噛みしめるように呟く。
「お前の言う通りだ。他人の記憶なんて必要ない。別の人間――なんだからな」
〈蝿〉は、自らが選んだ『最高の終幕』で幕を閉じた。
ならば、もし彼がまだ生きている間に、彼の必死の訴えに気づけたなら――などと、過去を振り返るのは野暮だ。
だから、リュイセンはただ、アイリーに尊敬の眼差しを向ける。想像だけで、ここまで『ライシェン』の未来を思いやれる彼女に。
「リュイセン。私ね、ライシェンに『守ってあげる』と約束したの。なのに、私は、彼を守ってあげることができなかったのよ」
それは、先ほど泣きながら叫んでいた、彼女の後悔だ。同じ言葉を、今度は大切に掻き抱くようにして、彼女は柔らかな声に乗せる。
「私は、ライシェンの『肉体』を守ってあげることができなかった。だから、せめて、『記憶』だけでも守りたいの。あの子の心は、あの子だけのものよ。……他人に渡すなんて、駄目よ」
アイリーの思いが、リュイセンの胸に染み入る。
彼女はただ、感じたままを口にしているだけだ。そんなことは分かっている。
純粋無垢な魂が、無意識のうちに唱えているのだ。
死者の尊厳を守りたい。
そして。
生者の尊厳を守りたい――と。
彼がそこに辿り着くまでには、長い道のりがあったというのに。彼女はごく自然に、そう願うのだ。
「リュイセン、あのね――」
視力の弱い彼女は、黙って聞いているリュイセンの表情が気になるらしい。白い頤を突き出すようにして、ぐっと彼を見上げた。白金の髪のさらさらとした流れが感じられるほどの近さで、青灰色の瞳が彼の顔を映し出す。
「四年前、私は何もできなかったわ。だから、もう後悔をしたくなくて、行動を起こそうと思ったの」
「確か、さっきも、そんなことを言っていたよな……?」
彼女の声色に、どことなく含みを感じ、リュイセンは尻上がりの相槌を打つ。
「うん。でもね、リュイセンと話しているうちに、ほんの少し変えることに決めたの」
「俺と……話しているうちに?」
首をかしげるリュイセンに、アイリーは「そう!」と嬉しそうに声を弾ませた。
「だって、私は、ひとりだけで足掻いているわけじゃないって、分かったから。……ねぇ、私の決意を聞いてくれる?」
質問の形を取ってはいるが、その実、聞いてほしいのだと、彼女のうずうずとした表情が告げている。リュイセンに否やのあろうはずもない。彼は即座に「ああ」と頷く。
「これからは『私が後悔しないため』じゃなくて、『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わることになってしまった『すべての人を幸せにするため』に、私は行動するの。勿論、皆の幸せが、同時に叶うなんて、あり得ないと分かっているわよ。……けど、諦めたくないの――」
無邪気な笑顔が、綺羅の美貌を彩る。
ふわりと、花がほころぶように。
「誰もが、幸せになれる、って……!」
その瞬間――。
リュイセンの耳に、蓮の花が咲くときに鳴り響くという、妙なる音色が聞こえた。
「!?」
幻聴は、ほんの一瞬。
けれど、天上の音楽が、彼の心に漣を立てる。
リュイセンは、白蓮華の化身のような彼女をしばし呆然と見つめた。それから、漆黒の瞳を柔らかに細め、「ああ、そうだな」と優しい低音で頷いた。
「ルイフォンたちは、どうして、『ライシェン』には記憶を入れないって、決めたの?」
「え?」
「メイシアか、他の誰かが、〈天使〉にならなければいけないから?」
アイリーの問いに、リュイセンは頷きかけ、途中で止めた。
確かにルイフォンは、『セレイエの我儘のために、誰かが〈天使〉になる必要はない』と言っていた。だから、質問の答えは肯定で正しいはずなのだが、アイリーの声色が、迂闊に返事をすることを躊躇わせた。
吐息が掛かりそうなほどの距離で、白金の髪が揺れる。「それとも」と、青灰色の瞳が静かに言葉を重ねる。
「『死者の蘇生』は、禁忌に触れるものだから――?」
リュイセンの喉が、こくりと動いた。
「それは……」
不可思議な圧に呑まれ、しぼりだした低音が、乾いたように掠れる。
意図の分からない質問だった。
しかし、彼女の様子からして、どうやら重要なことであるらしい。ならばと、彼は誠意を持って返答する。
「ルイフォンが誰かを〈天使〉にしたくないのは本当だ。そして、禁忌に触れることを問題にしているかについては、直接的には聞いたことがない。だが、あいつの母親が〈七つの大罪〉の技術を否定する立場だったから、あいつも似たような考えだと思う」
自分自身のことではなく、弟分についてのことである。可能な限り、正確に答えたつもりだが、絶対だという保証はない。
生真面目なリュイセンが、自信なさげに顔を曇らせると、アイリーは、ふわりと笑んだ。
「答えてくれて、ありがとう」
彼女は白金の髪をなびかせ、ソファーに戻って腰を下ろす。
「ほっとしたわ。今まで聞いてきたルイフォンの人柄なら、たぶん、『死者の蘇生は、禁忌』と考えると思っていたけど、絶対の自信はなかったから……。でも、兄貴分のリュイセンが、太鼓判を押してくれるなら安心だわ」
「いったい、なんなんだよ?」
あまりの置いてきぼりに、さすがのリュイセンも眉根を寄せた。
「あっ……、ごめんなさいっ!」
アイリーが、びくりと肩を上げる。そして、小さくなりながら「あのね……」と語り出す。
「四年前の〈七つの大罪〉には、セレイエ以外にも、〈天使〉がいたのよ。今は、どこにいるのか分からないけれど――」
「四年前からの――〈天使〉……!」
「そう。新たに誰かを〈天使〉にするのではなくて、『既に〈天使〉となっている者』を探し出すから、『ライシェン』に記憶を入れることを認めてほしい。――お異母兄様は、そう言い出すんじゃないかと、私は考えているの」
「なるほどな……」
『既に〈天使〉となっている者』とは、盲点だった。
確かに、それならばルイフォンたちと敵対しない。――ルイフォンたちが『誰かを〈天使〉にしたくない』という思いでのみ、動いているのであれば、だが。
「でも、お異母兄様が〈天使〉を連れてきても、ルイフォンたちは、ライシェンを生き返らせたりしないのね……。よかった……」
全身で安堵を示すように、彼女はソファーに、ぐったりと寄りかかる。天井を仰ぎ見ている瞳は、薄く潤んでいるように見えた。
「アイリー……?」
「リュイセン、私ね。ライシェンの『肉体』が既に出来上がっていて、あとは誕生を待つばかり、って聞いたとき、その『肉体』には、絶対に『記憶』を入れないで、って思ったの。……だって、そんなことをしても、『その子』は、『私の知っているライシェン』じゃないもの……」
アイリーは遠くを見つめたまま、まるで独り言つように呟く。
リュイセンは初め、彼の名を呼びながらも、彼女が上を向いたままであるのは、涙をこぼさないためだと思った。けれど、すぐに、それだけではないのだと気づく。
天の国へと、語りかけているのだ。
『蘇生に反対して、ごめんなさい』と。
ライシェンに。
そして、セレイエに。
祈りを捧げるような姿に、リュイセンの胸が、ぐっと詰まる。
「死んだ奴は、生き返らない。死んだ奴の代わりなんか、存在しない。……お前の言うことは『正しい』と、俺も思う」
だから、気に病むな。――そんな気持ちを込める。
「ありがとう……」
緩やかに微笑みながら、アイリーはリュイセンへと顔を向けた。白金の髪の流れと共に、ぽろりと涙がこぼれ落ち、彼女は慌てて、それを拭う。
「うん。あの子の代わりなんて、いないわ。……だから私は、新しい肉体の『ライシェン』のために、記憶を入れることを阻止したいの。これはね、物凄く重要なことなの」
濡れた青灰色の瞳を押さえながらも、アイリーは毅然と言い放つ。その口調の裏側に、『主張したいことがあるから、興味を持った感じに質問してほしい』という思いが隠れて見えた。
彼女の強さと弱さに翻弄されている自分を感じつつ、期待に応えるべくリュイセンは尋ねる。
「新しい肉体の『ライシェン』のため? それは、どういう意味だ?」
「だって、オリジナルのライシェンの人生は、とてもとても短いものだったけれど、辛くて悲しいことばかりだったのよ。そんな記憶を、どうして、これから新しく幸せな人生を始める『ライシェン』が、受け継がなければならないの?」
「!」
虚を衝かれた。
至極、もっともな意見だ。
なのに、今まで誰も、その発想に至らなかったような気がする。
リュイセンは間抜けに口を開けたまま、アイリーの顔を凝視する。
「勿論、ライシェンの記憶の中には、嬉しいことや楽しいこともあったと思うわ。彼は、身近な人たちには、間違いなく愛されていたんだもの。……でも、それよりも多くの害意や殺意が、彼を襲っていたはずなの。そんな恐怖の記憶を刻むなんて、『ライシェン』が可哀想だわ!」
憤りもあらわに彼女は叫び、そこから急に「それにね」と、昏い闇をまとう。
「オリジナルのライシェンは……、……人を殺しているの」
温度を失った声が、冷たく紡がれた。
リュイセンは無言のまま、凪いだ青灰色の瞳をまっすぐに見つめる。
「あまりにも幼すぎて、ライシェンは自分が何をしたのか、分かっていなかったと思う。――でも、その記憶が『ライシェン』に刻まれたら?」
挑発的にも見える仕草で、彼女は小首をかしげる。
「『ライシェン』が大きくなったとき、彼は『人殺しの記憶』を理解してしまう可能性があるわ」
リュイセンは、ごくりと唾を呑み、ゆっくりと頷いた。
その反応に感謝するように、アイリーは目礼を返し、それから、白金の眉をひそめて吐き出す。
「『ライシェン』は、自分が犯してもいない罪を『自分の罪』として、記憶していることになるの。彼自身は何もしていないのに、罪の意識に悩まされることになるのよ。……そんなの、可笑しいでしょう? ライシェンの罪は、『ライシェン』の罪じゃないわ。――オリジナルとクローンは、別人よ!」
刹那。
リュイセンは雷に打たれたように、びくりと身を震わせた。
『私は、『鷹刀ヘイシャオ』とは、違う人間ですよ?』
鷹刀一族特有の低音が、耳の奥に蘇る。
脳裏に、〈蝿〉の白衣姿が浮かび上がった。
『この肉体に勝手に入れられた『記憶』のために、『鷹刀ヘイシャオの罪』は『私の罪』になるのですか?』
『リュイセン。もしも、あなたの肉体に『鷹刀ヘイシャオの記憶』を入れられたら、『あなた』も罪人になる――ということですよ』
『そのとき、あなたは『自分の罪』として受け入れられるのですか?』
菖蒲の館での〈蝿〉捕獲作戦に失敗し、囚われの身となったリュイセンに、〈蝿〉は疑問を投げつけた。
リュイセンを手駒にしようとしていた〈蝿〉は、悪意と嘘にまみれていて、彼を蛇蝎の如く嫌っていたリュイセンは、詭弁を弄しているのだと頭から決めつけた。
けれど。
――あの問いかけは、必死の訴えだったんだ……。
リュイセンの心臓が、ずきりと痛んだ。
〈蝿〉の言葉の中にも、真実は存在していたのだ。
オリジナルの記憶を入れられた、哀れな『作り物の駒』であった彼は、自分自身が何者であるかに迷っていたのだから……。
リュイセンは知れず、胸元に手を当てた。それから低く、噛みしめるように呟く。
「お前の言う通りだ。他人の記憶なんて必要ない。別の人間――なんだからな」
〈蝿〉は、自らが選んだ『最高の終幕』で幕を閉じた。
ならば、もし彼がまだ生きている間に、彼の必死の訴えに気づけたなら――などと、過去を振り返るのは野暮だ。
だから、リュイセンはただ、アイリーに尊敬の眼差しを向ける。想像だけで、ここまで『ライシェン』の未来を思いやれる彼女に。
「リュイセン。私ね、ライシェンに『守ってあげる』と約束したの。なのに、私は、彼を守ってあげることができなかったのよ」
それは、先ほど泣きながら叫んでいた、彼女の後悔だ。同じ言葉を、今度は大切に掻き抱くようにして、彼女は柔らかな声に乗せる。
「私は、ライシェンの『肉体』を守ってあげることができなかった。だから、せめて、『記憶』だけでも守りたいの。あの子の心は、あの子だけのものよ。……他人に渡すなんて、駄目よ」
アイリーの思いが、リュイセンの胸に染み入る。
彼女はただ、感じたままを口にしているだけだ。そんなことは分かっている。
純粋無垢な魂が、無意識のうちに唱えているのだ。
死者の尊厳を守りたい。
そして。
生者の尊厳を守りたい――と。
彼がそこに辿り着くまでには、長い道のりがあったというのに。彼女はごく自然に、そう願うのだ。
「リュイセン、あのね――」
視力の弱い彼女は、黙って聞いているリュイセンの表情が気になるらしい。白い頤を突き出すようにして、ぐっと彼を見上げた。白金の髪のさらさらとした流れが感じられるほどの近さで、青灰色の瞳が彼の顔を映し出す。
「四年前、私は何もできなかったわ。だから、もう後悔をしたくなくて、行動を起こそうと思ったの」
「確か、さっきも、そんなことを言っていたよな……?」
彼女の声色に、どことなく含みを感じ、リュイセンは尻上がりの相槌を打つ。
「うん。でもね、リュイセンと話しているうちに、ほんの少し変えることに決めたの」
「俺と……話しているうちに?」
首をかしげるリュイセンに、アイリーは「そう!」と嬉しそうに声を弾ませた。
「だって、私は、ひとりだけで足掻いているわけじゃないって、分かったから。……ねぇ、私の決意を聞いてくれる?」
質問の形を取ってはいるが、その実、聞いてほしいのだと、彼女のうずうずとした表情が告げている。リュイセンに否やのあろうはずもない。彼は即座に「ああ」と頷く。
「これからは『私が後悔しないため』じゃなくて、『デヴァイン・シンフォニア計画』に関わることになってしまった『すべての人を幸せにするため』に、私は行動するの。勿論、皆の幸せが、同時に叶うなんて、あり得ないと分かっているわよ。……けど、諦めたくないの――」
無邪気な笑顔が、綺羅の美貌を彩る。
ふわりと、花がほころぶように。
「誰もが、幸せになれる、って……!」
その瞬間――。
リュイセンの耳に、蓮の花が咲くときに鳴り響くという、妙なる音色が聞こえた。
「!?」
幻聴は、ほんの一瞬。
けれど、天上の音楽が、彼の心に漣を立てる。
リュイセンは、白蓮華の化身のような彼女をしばし呆然と見つめた。それから、漆黒の瞳を柔らかに細め、「ああ、そうだな」と優しい低音で頷いた。