残酷な描写あり
5.千波万波の帰り道-1
名残惜しくはあるけれど、いつまでも女王が、鷹刀一族の屋敷で、のんびりしているわけにもいかない。ひとまずの話は終えたことであるし、神殿の『天空の間』に繋がる、秘密の通路の入り口まで、リュイセンが送っていくことになった。
今日、アイリーと交わした会話の内容は、できるだけ早くルイフォンに伝えると、リュイセンは胸を叩いた。また、そのときの弟分の反応は、追って必ず知らせると、固く約束した。
携帯端末の番号を交換したから、いつでも連絡を取れる。――そう告げると、彼女は、白蓮の花がほころぶように、ふわりと笑んだ。
「近いうちに、また逢いたいわ」
声を弾ませるアイリーに、彼女を見送るべく執務室に戻ってきたイーレオが、にやりと口の端を上げる。一方、傍らに立つエルファンの視線は、無表情を装いながらも、うろうろと彷徨っていた。そんな彼らの背後に控えたチャオラウは、いつも通りに無精髭を弄ぶ。
「あ、そうだわ。料理長に、お礼を言ってほしいの。『マカロン、凄く美味しかったです。ご馳走様』って!」
イーレオたちの表情に気づかぬアイリーは、無邪気な笑顔で、ぐぐっとリュイセンの懐に入り込み、「お願いね!」と、可愛らしく念を押した。
アイリーを助手席に乗せ、リュイセンの運転する車は屋敷を発った。
「窓はスモークガラスだから、もう顔を隠さなくていいぞ」
動き出したばかりの車内は、まだ充分な空調が効いておらず、じわりと汗が滲む。彼は申し訳ない気分になりながら、暑苦しそうな彼女に告げた。
執務室を出る際に、彼女には再び、黒づくめになってもらった。
屋敷の廊下の移動中、使用人たちと、すれ違わないとも限らない。そもそも、車庫には見張りやら、お抱え運転手やらがいる。彼らに、〈神の御子〉の姿を晒すわけにはいかなかったのだ。
目深にかぶっていたフードを思い切りよく払い除け、アイリーは、するりとパーカーを脱ぎ捨てた。続けて、ささっと、サングラスも外す。
身軽になった彼女は「ふうっ」と大きく息を吐き、それから、嬉しそうにリュイセンの横顔を見上げた。
「私、ドライブって、初めてなの!」
女王ともあろう者が、今まで車に乗ったことがない――というわけはあるまい。
乗車時、後部座席の扉を開けたリュイセンに、「助手席に座ってもいい?」と、おずおずと尋ねてきたことから察するに、助手席に乗るのが初めて、ということなのだろう。
彼女はフロントガラスからの風景に青灰色の瞳を輝かせ、時々、ちらりと、真横に視線を送る。白金の髪がさらりと流れ、リュイセンの半袖の腕が小さな旋風を受けた。
隣に誰かがいる気配は、勿論、初めてではない。けれど、うきうきと浮かれた空気が新鮮だった。
「いつか、綺麗な景色の中をドライブしてみたいわ」
片耳が、楽しげな声を捉えた。
明るい響きの中に、わずかな憂いが含まれているのを感じ取り、リュイセンの胸が、ずきりと痛む。
彼女は、籠の鳥なのだ。
それでも王女時代は、お忍びでセレイエに連れ出してもらっていたようだが、女王となってからは、ずっと王宮に縛られていたはずだ。
「……今からだと遠くは無理だが、どこか行きたいところはあるか?」
恩着せがましくならないよう、リュイセンは安全運転を装って前を向いたまま、さり気なく問いかけた。
神殿の『天空の間』で、神と語っていることになっている彼女は、半日くらいの外出なら平気なのだと言っていた。ならば、少しくらい寄り道をしてもよいだろう。
生真面目なリュイセンとは思えぬ、柔軟な思考――。
彼女の小さな願いくらい、叶えてやりたいと思ったのだ。何より、彼自身が彼女の喜ぶ顔を見たかったから……。
「えぇっ……! ――いいの……?」
ぽんっ、と。
白蓮の花が咲きほころぶ。
それまで、視線をまっすぐ正面に据えていたリュイセンは、神速で傍らに目を走らせた。夢見るように上気していく綺羅の美貌に、「無論だ」と、胸を張る。
「え、ええとね……、ごめんなさい。希望を訊かれても、私は公務で行った場所しか知らないの。けど、行きたいのはそういうところじゃなくて、……こ、恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポットみたいな感じの……」
だんだんと、しどろもどろになりながら、アイリーは赤面する。
その様子に、リュイセンは納得した。彼女のいう『ドライブ』とは、恋人と仲睦まじく出掛けることを意味するのだ。
アイリーだって、年ごろの少女だ。甘い恋愛に憧れを抱いてもおかしくない。
しかし、『女王』という彼女の立場を考えれば、可哀想だが、一生、経験することのないものだ。
彼女も、それは分かっているのだろう。だから、擬似的なものでもよいからと、リュイセンの助手席を望んだに違いない。
やるせない思いに、リュイセンは眉根を寄せる。浮き立つ彼女の気持ちに水を差さないよう、彼は運転に集中するふりをして、唇を噛んだ渋面を目の前の道路へと向けた。
少し前までならともかく、ミンウェイをシュアンの元へ送り出した今となっては、義理立てするような女性もいない。デートの真似事くらいしてやっても罰は当たらないだろう。
リュイセンは、彼女を楽しませるべく頭をひねった。
「人が少なくて、景色の良い場所なら、山……だな」
彼女の普段の生活を考えると、街の喧騒から離れた、自然の溢れる場所がよいだろう。そして、紫外線に弱い彼女を下準備もなく連れて行くのなら、海よりも山。そんな発想だった。
「ああ、そうだ! 王都の水源になっている人造湖がある。山間の川をダムで堰き止めたもので、豊かな緑に囲まれている。近場だから、絶景の大自然というわけにはいかないけど、浮き橋が架かっていたりして、ちょっと面白いぞ。前に行ったことがあるんだ」
「行ってみたいわ!」
アイリーは即座に喰いついた。リュイセンの視界の端で、ぱっと顔を輝かせたかと思ったら、ぐぐっと近くに寄ってくる。運転中でなければ、彼の腕に、しがみついて喜びを表したことだろう。
「じゃあ、決まりだな」
心が弾むのを感じながら、リュイセンは行き先を変えようと、ハンドルを切った。
そして、車線を移動した、その瞬間――。
「?」
バックミラーに違和感を覚えた。
短く息を呑んだリュイセンに、アイリーが「どうしたの?」と尋ねる。
「あ……、いや……」
気のせいだろうか。
斜め後方――元の車線で真後ろを走っていた車から、視線を感じたのだ。
「…………」
リュイセンの直感が、警鐘を鳴らし始める。
刹那。
力強いアクセル音と共に、件の車が急加速してきた。横並びになったかと思ったら、あっという間に追い抜かれ、前方から、するりと、こちらの車線に入ってくる。
「!?」
いったい、なんだ? と、リュイセンが疑問に思う間もなく、その更に後続の車――リュイセンが元の車線にいたときに、二台後ろを走っていた車が、後方で静かに車線を変更した。
まるで、リュイセンの背後を取るように。
――挟まれた!
「アイリー!」
リュイセンは戦慄する。
「何者かに、狙われている」
「えっ!?」
鷹刀一族の屋敷の周りには、不審な車などなかった。
では、いつから付けられていたのだろうか?
いや、それよりも、相手の正体と目的は――?
リュイセンの頭は、混乱に陥る。
しかし、理屈ではなく、天性の勘で状況を判断する彼は、今やるべきことを間違えない。野生の本能が、彼の手足を冷静に動かす。
「少し先に信号がある。そこで、こいつらを撒く!」
「分かったわ!」
「シートベルトをしっかり締めてくれ。手荒になるけど、許せよ!」
リュイセンの車は、うなりを上げて加速を始めた。前の車を煽るように、派手にクラクションを鳴らす。
相手は不穏な輩だ。この程度で動じることはないだろう。
それで構わない。リュイセンの目的は、目の前に割り込んできた車の挑発に乗り、噛みついてきたと思わせて、相手を油断させることなのだから。
付かず離れずの走行を続け、遠くに信号が見えてきたところで、リュイセンは微妙にスピードを調整した。
後ろの車を振り切るべく、赤信号となるタイミングを見計らって交差点に入る。直進する前の車を追いかけていると見せかけて……。
横道へと折れる――!
「……っ!」
引きつった顔で、アイリーが悲鳴を押し殺した。
全身でタイヤの軋みを感じ、遠心力に振り回されながらも騒ぎ立てないのは、きちんと状況を理解しているからだ。
そんな彼女に感謝しつつ、リュイセンは叫ぶ。
「すまん、飛ばすぞ!」
むやみに声を出したら舌を噛むと、心得ているのだろう。彼女は白金の髪をなびかせ、大きく頷く。緊張の色を帯びながらも、青灰色の瞳は、好戦的にきらきらと輝いていた。
リュイセンは思い切り、アクセルを踏んだ。
ウィンカーも出さずに急カーブをした無法者に、抗議のクラクションが注がれる。本来は生真面目な性格であるリュイセンは、心の中で平身低頭する。
幸いにも、さほど交通量の多くない場所と時間だった。彼の運転する車は、華麗なハンドルさばきで周りの車両をするすると避け、神速でその場を離れていった。
今日、アイリーと交わした会話の内容は、できるだけ早くルイフォンに伝えると、リュイセンは胸を叩いた。また、そのときの弟分の反応は、追って必ず知らせると、固く約束した。
携帯端末の番号を交換したから、いつでも連絡を取れる。――そう告げると、彼女は、白蓮の花がほころぶように、ふわりと笑んだ。
「近いうちに、また逢いたいわ」
声を弾ませるアイリーに、彼女を見送るべく執務室に戻ってきたイーレオが、にやりと口の端を上げる。一方、傍らに立つエルファンの視線は、無表情を装いながらも、うろうろと彷徨っていた。そんな彼らの背後に控えたチャオラウは、いつも通りに無精髭を弄ぶ。
「あ、そうだわ。料理長に、お礼を言ってほしいの。『マカロン、凄く美味しかったです。ご馳走様』って!」
イーレオたちの表情に気づかぬアイリーは、無邪気な笑顔で、ぐぐっとリュイセンの懐に入り込み、「お願いね!」と、可愛らしく念を押した。
アイリーを助手席に乗せ、リュイセンの運転する車は屋敷を発った。
「窓はスモークガラスだから、もう顔を隠さなくていいぞ」
動き出したばかりの車内は、まだ充分な空調が効いておらず、じわりと汗が滲む。彼は申し訳ない気分になりながら、暑苦しそうな彼女に告げた。
執務室を出る際に、彼女には再び、黒づくめになってもらった。
屋敷の廊下の移動中、使用人たちと、すれ違わないとも限らない。そもそも、車庫には見張りやら、お抱え運転手やらがいる。彼らに、〈神の御子〉の姿を晒すわけにはいかなかったのだ。
目深にかぶっていたフードを思い切りよく払い除け、アイリーは、するりとパーカーを脱ぎ捨てた。続けて、ささっと、サングラスも外す。
身軽になった彼女は「ふうっ」と大きく息を吐き、それから、嬉しそうにリュイセンの横顔を見上げた。
「私、ドライブって、初めてなの!」
女王ともあろう者が、今まで車に乗ったことがない――というわけはあるまい。
乗車時、後部座席の扉を開けたリュイセンに、「助手席に座ってもいい?」と、おずおずと尋ねてきたことから察するに、助手席に乗るのが初めて、ということなのだろう。
彼女はフロントガラスからの風景に青灰色の瞳を輝かせ、時々、ちらりと、真横に視線を送る。白金の髪がさらりと流れ、リュイセンの半袖の腕が小さな旋風を受けた。
隣に誰かがいる気配は、勿論、初めてではない。けれど、うきうきと浮かれた空気が新鮮だった。
「いつか、綺麗な景色の中をドライブしてみたいわ」
片耳が、楽しげな声を捉えた。
明るい響きの中に、わずかな憂いが含まれているのを感じ取り、リュイセンの胸が、ずきりと痛む。
彼女は、籠の鳥なのだ。
それでも王女時代は、お忍びでセレイエに連れ出してもらっていたようだが、女王となってからは、ずっと王宮に縛られていたはずだ。
「……今からだと遠くは無理だが、どこか行きたいところはあるか?」
恩着せがましくならないよう、リュイセンは安全運転を装って前を向いたまま、さり気なく問いかけた。
神殿の『天空の間』で、神と語っていることになっている彼女は、半日くらいの外出なら平気なのだと言っていた。ならば、少しくらい寄り道をしてもよいだろう。
生真面目なリュイセンとは思えぬ、柔軟な思考――。
彼女の小さな願いくらい、叶えてやりたいと思ったのだ。何より、彼自身が彼女の喜ぶ顔を見たかったから……。
「えぇっ……! ――いいの……?」
ぽんっ、と。
白蓮の花が咲きほころぶ。
それまで、視線をまっすぐ正面に据えていたリュイセンは、神速で傍らに目を走らせた。夢見るように上気していく綺羅の美貌に、「無論だ」と、胸を張る。
「え、ええとね……、ごめんなさい。希望を訊かれても、私は公務で行った場所しか知らないの。けど、行きたいのはそういうところじゃなくて、……こ、恋人とふたりきりになれるような、穴場の絶景スポットみたいな感じの……」
だんだんと、しどろもどろになりながら、アイリーは赤面する。
その様子に、リュイセンは納得した。彼女のいう『ドライブ』とは、恋人と仲睦まじく出掛けることを意味するのだ。
アイリーだって、年ごろの少女だ。甘い恋愛に憧れを抱いてもおかしくない。
しかし、『女王』という彼女の立場を考えれば、可哀想だが、一生、経験することのないものだ。
彼女も、それは分かっているのだろう。だから、擬似的なものでもよいからと、リュイセンの助手席を望んだに違いない。
やるせない思いに、リュイセンは眉根を寄せる。浮き立つ彼女の気持ちに水を差さないよう、彼は運転に集中するふりをして、唇を噛んだ渋面を目の前の道路へと向けた。
少し前までならともかく、ミンウェイをシュアンの元へ送り出した今となっては、義理立てするような女性もいない。デートの真似事くらいしてやっても罰は当たらないだろう。
リュイセンは、彼女を楽しませるべく頭をひねった。
「人が少なくて、景色の良い場所なら、山……だな」
彼女の普段の生活を考えると、街の喧騒から離れた、自然の溢れる場所がよいだろう。そして、紫外線に弱い彼女を下準備もなく連れて行くのなら、海よりも山。そんな発想だった。
「ああ、そうだ! 王都の水源になっている人造湖がある。山間の川をダムで堰き止めたもので、豊かな緑に囲まれている。近場だから、絶景の大自然というわけにはいかないけど、浮き橋が架かっていたりして、ちょっと面白いぞ。前に行ったことがあるんだ」
「行ってみたいわ!」
アイリーは即座に喰いついた。リュイセンの視界の端で、ぱっと顔を輝かせたかと思ったら、ぐぐっと近くに寄ってくる。運転中でなければ、彼の腕に、しがみついて喜びを表したことだろう。
「じゃあ、決まりだな」
心が弾むのを感じながら、リュイセンは行き先を変えようと、ハンドルを切った。
そして、車線を移動した、その瞬間――。
「?」
バックミラーに違和感を覚えた。
短く息を呑んだリュイセンに、アイリーが「どうしたの?」と尋ねる。
「あ……、いや……」
気のせいだろうか。
斜め後方――元の車線で真後ろを走っていた車から、視線を感じたのだ。
「…………」
リュイセンの直感が、警鐘を鳴らし始める。
刹那。
力強いアクセル音と共に、件の車が急加速してきた。横並びになったかと思ったら、あっという間に追い抜かれ、前方から、するりと、こちらの車線に入ってくる。
「!?」
いったい、なんだ? と、リュイセンが疑問に思う間もなく、その更に後続の車――リュイセンが元の車線にいたときに、二台後ろを走っていた車が、後方で静かに車線を変更した。
まるで、リュイセンの背後を取るように。
――挟まれた!
「アイリー!」
リュイセンは戦慄する。
「何者かに、狙われている」
「えっ!?」
鷹刀一族の屋敷の周りには、不審な車などなかった。
では、いつから付けられていたのだろうか?
いや、それよりも、相手の正体と目的は――?
リュイセンの頭は、混乱に陥る。
しかし、理屈ではなく、天性の勘で状況を判断する彼は、今やるべきことを間違えない。野生の本能が、彼の手足を冷静に動かす。
「少し先に信号がある。そこで、こいつらを撒く!」
「分かったわ!」
「シートベルトをしっかり締めてくれ。手荒になるけど、許せよ!」
リュイセンの車は、うなりを上げて加速を始めた。前の車を煽るように、派手にクラクションを鳴らす。
相手は不穏な輩だ。この程度で動じることはないだろう。
それで構わない。リュイセンの目的は、目の前に割り込んできた車の挑発に乗り、噛みついてきたと思わせて、相手を油断させることなのだから。
付かず離れずの走行を続け、遠くに信号が見えてきたところで、リュイセンは微妙にスピードを調整した。
後ろの車を振り切るべく、赤信号となるタイミングを見計らって交差点に入る。直進する前の車を追いかけていると見せかけて……。
横道へと折れる――!
「……っ!」
引きつった顔で、アイリーが悲鳴を押し殺した。
全身でタイヤの軋みを感じ、遠心力に振り回されながらも騒ぎ立てないのは、きちんと状況を理解しているからだ。
そんな彼女に感謝しつつ、リュイセンは叫ぶ。
「すまん、飛ばすぞ!」
むやみに声を出したら舌を噛むと、心得ているのだろう。彼女は白金の髪をなびかせ、大きく頷く。緊張の色を帯びながらも、青灰色の瞳は、好戦的にきらきらと輝いていた。
リュイセンは思い切り、アクセルを踏んだ。
ウィンカーも出さずに急カーブをした無法者に、抗議のクラクションが注がれる。本来は生真面目な性格であるリュイセンは、心の中で平身低頭する。
幸いにも、さほど交通量の多くない場所と時間だった。彼の運転する車は、華麗なハンドルさばきで周りの車両をするすると避け、神速でその場を離れていった。